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第百六十六話 鏡板の届かない縁

イルマ・フェルンは実習用の前掛けを着たまま入ってきた。片方の袖に白い粉がついている。トビアスの名を聞いて来たが、彼がもう帰ったと知ると、扉のほうを一度見た。


「別々に聞かれるんですね」


「見たことを、そのまま話してください」


 監査官が椅子を示す。イルマは腰を下ろし、試験簿の観察欄に押された右側の印を見た。自分のものだと答える。左の印の学生と、黒針を第七灯へ近づけ、明るさを記録したのも二人だった。


「レオハルト殿下は、その時いらっしゃいましたか」


「測っている間は来ていません。部屋にいたのは私たち二人と、器具を運ぶ助手だけです」


 トビアスは準備を終えて先に出ていた。イルマは試験が済むと灯を実習室へ戻し、壁の元の位置へ取り付けた。それで試験簿の記録は終わっている。


「保護材は拭き取りましたか」


 監査官が聞くと、イルマはすぐに頷いた。


「翌朝、私が拭きました」


 尽はエウリスの横に置かれた破片を見た。昨日の白い線は、灯を横から当てなければ出ない。イルマは鏡板の表面と、枠から見える縁を湿らせた布で拭いたという。清掃欄は試験簿にないため、記入していなかった。


「鏡板を枠から外しましたか」


 ユーノが尋ねる。監査官が短く頷いて質問を許した。


「いいえ。壁から下ろさず、梯子に乗って作業しました。上の縁は指が入りにくかったので、布を細く折って押し込みました」


 エウリスは破片を動かさず、昨日の図をイルマへ見せた。白い線が残るのは、鏡板が割れて初めて見える内側の縁だった。イルマはそこを指で追い、答えるまで少し間を置く。


「枠に収まっていた時、この面は見えていません。そこまで布が届いたかは、分かりません」


 リゼッタが椅子の背から手を離す。王子の「拭き取ったはず」という言葉には、イルマが行った清掃という元があった。けれど、作業の届かなかった縁に何が残ったかは、採った粉の鑑定を待たなければならない。


「殿下には清掃を報告しましたか」


「翌日の昼、廊下で会った時に。『灯は拭きました』とだけ言いました」


 監査官はその言葉を記録官に繰り返させた。イルマは昨日の王子の発言を知らない。尽は彼女に「あなたの報告が間違いだった」と言いかけ、飲み込んだ。目に見えるところは確かに拭いている。


「瓶には触れましたか」


「試験に使う分を受け取っただけです。残りはトビアスに返しました。備品室へは入りませんでした」


 フィオナが彼女の手元に、保護材の使用量が書かれた欄を置く。イルマは数字を確認したが、残量の現物を量った覚えはない。返却棚の瓶が今ないことを聞き、初めて顔を曇らせた。


「その後にも、同じ材料を使った試験があったんですか」


「そこを調べています」


 エウリスが答えた。試験簿の続きに、第七灯を使った再試験はない。研究会の別の実験で瓶が使われた可能性は、棚の記録がない以上、まだ消せない。


 聞き取りを終える頃、窓の影が卓の端まで伸びていた。フィオナはイルマの証言を読み返し、清掃した日と「内側の縁は見えなかった」という言葉を分けて記した。監査官は、レオハルトへ昨日の発言の根拠を改めて尋ねると言う。尽たちの立会い時間は、まもなく終わる。


 学院の西門には、来た時の馬車が待っていた。ナディアが帰路の通行欄を確かめる間、エウリスは尽たちに近づく。


「鏡板の粉と、空の棚。私がここで追う。お前たちはエルシリンへ戻れ」


「トビアスたちの証言も?」


「双方へ写しを送る。原本は動かさない」


 尽は頷いた。王子が鎖を放った朝、この門を通った時は、荷台の奥で顔を伏せていた。今日は西門の石に腰をかけた学生が、こちらを見ている。話しかける時間はない。ペペが鞄の底から、最後まで食べなかった焼き菓子を出しかけ、エウリスに一つ差し出した。


「先生、これなら外です」


 教授は受け取って外套のポケットへ入れた。馬車が動く。尽は門を出るまで白い塔を見ていた。壁の第七灯が外された窓だけは、遠くからでは見分けられなかった。

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