第百六十五話 瓶を戻した男
トビアス・レンが学院に着いたのは、午後の鐘が二つ鳴った頃だった。王都の北器材所から来たという。作業着の袖には黒い油の跡があり、彼はそれを見てから、着替える時間がなかったと詫びた。
「そのままで構いません」
エウリスは実習棟の小部屋へ通した。王宮監査官とソラヴェインの記録官、エルシリン側のフィオナが同席する。尽たち四人は卓の端に座り、セレーネとナディアは扉のそばにいた。
監査官が受領簿の写しを置く。トビアスは自分の署名と瓶番号を確かめ、当時、研究会の備品係だったと認めた。風見塔から貸し出された一瓶は、研究会の棚で受け取った。王子の承認書を見たのは、その後だという。
「試験の準備も、あなたですね」
「はい。鏡板へ塗る分を量って、担当者へ渡しました。灯の前に立って測ったのは、観察欄の二人です」
彼は試験簿にある自分の印を指す。第七灯の明るさが保たれたことは、翌日の記録を読んで知った。試験中に王子が来たかどうかも見ていない。
「残りの瓶は、どこへ置きましたか」
フィオナが尋ねた。
「試験の後、蓋を確かめて、備品室の上段へ戻しました。奥から二つ目。返却札に押した印も私のものです」
「今、その棚に瓶はありません」
監査官が告げると、トビアスは返却札をもう一度見た。「棚替えの時に」と言いかけ、口を閉じる。彼が備品係を離れたのは棚替えより前だった。引き継ぎの際は鍵と台帳を渡しただけで、一本ずつ現物を数えてはいない。
「私が置いた時には、確かにありました。その後のことは分かりません」
監査官が小さな紙片を出した。〈洗浄の確認は、試験担当へ〉。トビアスは折り目を見て、少し黙った。
「私が書きました」
「いつ」
「返却札を挟んだ日の夕方です。瓶を戻したことと、灯を拭いたことが、一緒に扱われそうだったので」
フィオナは顔を上げた。
「灯が拭かれたか、ご存じなかった」
「私は見ていません。鏡板は観察者たちが実習室へ運びました。私の仕事は瓶を戻すまででした」
トビアスは自分の膝を見た。油のついた袖が椅子の縁に触れないよう、両腕を内側へ寄せている。
「レオハルト殿下からも、その日の夕方に聞かれました。瓶は戻したか、灯のほうはどうなったか、と。私は同じ答えをしました。灯の洗浄は担当者へ確認してください、と」
尽が顔を上げる。王子は昨日、保護材は拭き取ったはずだと言った。試験の日にトビアスから聞いたのは、清掃を確かめていないという話だった。後で別の報告を受けた可能性もある。
「殿下へ、その後も報告しましたか」
監査官が問う。
「していません。私は灯を扱っていませんから」
尽は卓の下で握っていた手を開いた。
「では、誰に聞けば拭いたか分かりますか」
監査官が尽のほうを見たが、質問を止めなかった。トビアスは試験簿の観察欄を指した。
「右の印は、イルマ・フェルンです。灯を実習室へ戻す当番でした。左の人と一緒に片づけたはずです」
「今はどちらに」
「イルマは学院にいます。実習棟の助手を続けています。もう一人は、卒業してから会っていません」
エウリスは窓の外を見た。夕刻までに四人の立会いを終え、同じ街道で帰路につかなければならない。ナディアが一度だけ時計を確かめる。
「イルマを呼ぼう」
監査官が記録官へ言った。フィオナはトビアスの発言を読み上げ、聞き違いがないか確かめた。灯を拭いたとは証言していない。瓶を戻した場所と、王子に伝えた言葉についての証言だった。
確認を終えたトビアスが退室すると、廊下の向こうで別の足音が止まった。
「イルマ・フェルンさんをお連れしました」
使いの声が扉の外から聞こえた。




