第百六十四話 空の棚
翌朝、実習室の窓を開ける前に、エウリスは比較用の鏡板を卓へ載せた。第七灯と同じ工房で作られ、学院の備品庫に未使用のまま残っていたものだ。包みには工房の封がついている。
フィオナが昨日の図を開き、鏡板の縁へ矢印を合わせる。エウリスは灯を横から当てた。未使用の鏡板には薄い研磨傷があるが、第七灯の欠片に見えた白い線は出ない。灯を低くしても、上へ持ち上げても同じだった。
「型が同じでも、作った時期は違う」
ユーノが工房の札を見て言う。
「そうだ。これだけで製造時の差を消せない」
エウリスは二枚を並べた。尽の目にも、縁の色は違って見える。けれど、その白い線が試験簿の保護材だと言うには、まだ材料を比べる必要がある。
監査官の立会いで、エウリスは鎖が当たった箇所から離れた線の端を、ごく小さく採った。削った場所を図に残し、採取した粉を二つに分けて封じる。片方は王宮の鑑材室へ、もう片方はエルシリンの学院へ送ることになった。尽たちの手元には置かれない。
「研究会の瓶が残っていれば、早く比べられるのに」
ペペが言う。エウリスは道具を片づけ、監査官へ顔を向けた。
「保管棚を見に行きましょう」
王立術具研究会の備品室は、実習棟の一階にあった。尽はここへ何度か物を借りに来たことがある。戸の上の小窓には埃が積もっているのに、鍵穴の周りだけ指で触れられて光っていた。
現任の備品係が鍵を開け、全員を通す前に棚番号を示した。壁際の上段、奥から二つ目。貸出の札には、風見塔から受けた保護材の瓶番号と、試験翌朝に返却された日付が記されている。
棚は空だった。
ペペが思わず一歩寄る。備品係は札を押さえたまま、瓶のあったはずの場所を覗いた。奥に小さな円い埃の跡はある。瓶と同じ大きさかどうかは、札の絵だけでは測れない。
ユーノは隣の二瓶の番号を声に出した。どちらも該当しない。ペペが棚の背板との隙間を指さし、備品係が細い灯を差し入れたが、紙片と古い留め具が一つあるだけだった。留め具はその場に置き、フィオナが棚全体の配置を描いた。
「別の棚へ移した記録は?」
フィオナが尋ねる。
備品係は綴じた台帳をめくった。試験翌朝の返却印から後の欄に、持ち出しの記載はない。彼女自身がこの係になったのは、その半年後だという。
「去年の棚替えで、同じ印の瓶を見た覚えはありません。ただ、全ての瓶を一本ずつ手に取ったわけではなくて」
「見た覚えがない、までを記録してください」
監査官が言う。ペペは棚の奥を指していた手を引いた。
「当時、この棚を開けられたのは誰ですか」
リゼッタの問いに、備品係は鍵掛けを示した。研究会の代表と備品係が一本ずつ持ち、学院の保管官にも予備鍵があったという。返却から今までの鍵の持ち主を、彼女一人では追いきれない。
尽は返却札の署名欄を見る。トビアス・レン。受領簿でも見た名前だった。彼が瓶をここへ置いたのか、誰かへ渡して札だけ返したのか、紙からは読み取れない。
「トビアスには会えますか」
エウリスが監査官へ尋ねた。照会の返事は昨夜届き、トビアスは今、王都の北器材所で働いているという。学院を離れてからも街にはいたが、研究会の窓口を通した最初の問い合わせが古い宛先へ回り、返事が遅れたらしい。
「来られるなら午後のうちに。私たちの立会いは夕刻までです」
セレーネが言う。監査官は使いを出すと約束した。
備品室を出る時、尽は戸を振り返った。棚の札は残ったままで、現物だけがない。王子は昨夜、鏡板の保護材を拭き取ったはずだと言った。その話を誰から聞いたのか、同じ問いをトビアスにも向ける必要がある。
廊下の先で、備品係が足早に追いついた。台帳から抜けかけていた小さな紙片を手にしている。
「返却印の後ろに挟まっていました。私の字ではありません」
彼女は監査官の前で紙を開いた。瓶番号は書かれていない。短い一行だけだった。
〈洗浄の確認は、試験担当へ〉
フィオナが頁の間の位置を記し、紙を受け取る。備品係は空の棚へ戻り、札が外れかけた角を指で押さえた。




