第百六十三話 拭き取ったはずのもの
二つ目の欠片には、同じ曇りが見えなかった。エウリスが灯を左右に動かし、フィオナが先ほどと同じ角度で見直す。鏡板の平らな面は、細かな傷こそあるが、縁に沿った白い線はない。
「一枚目へ戻して」
リゼッタが頼んだ。二枚を白布の上に離して置くと、違いははっきりした。先ほどの線は、鎖が欠いた部分で途切れている。尽はその先へ続く場所を探したが、欠けた小片はさらに細かく割れて、箱の底に別々に収められていた。
「線があるのは、塗ったと書かれた縁だけか」
エウリスが言う。製造時からの加工という可能性はまだ残る。同じ型の未使用の鏡板を持ってきて比べ、線の部分を少し採らなければ材質は決められない。監査官は小片へ触れず、保全箱を開けた時刻を記した。
尽は窓の下を見た。新しい机が置かれても、部屋の幅はあの日のままだ。ペペが蹴った机の脚はこのあたりにあった。ユーノが鏡板を掲げ、弾かれた鎖が壁の灯に当たった。自分が風を起こしたのは、その後だ。
「床も見せてください」
王宮監査官が頷き、ナディアと一緒に薄板を持ち上げた。床には、金色の鎖が擦った溝が二筋残っている。尽は爪先を板の外で止めた。溝の片方は王子が立っていた机の側から伸び、もう片方は壁へ曲がる途中で消える。
「ここで机を蹴った」
ペペは離れたところから位置を示した。リゼッタが、当時の机の位置を保存図で確かめる。鎖の起点に近いのはレオハルトの側だった。ただ、床の痕だけで、誰が先に術を使ったかという時刻までは分からない。
「僕の風は、この床を削れない」
尽が言うと、監査官は顔を上げた。
「その点も、術式の記録と一緒に照合します」
言い終わる前に、廊下で靴音が止まった。開いた扉の外にレオハルトが立っている。金の鎖は見えない。王子は尽ではなく、まず布に置かれた鏡板の欠片を見た。
「研究会が借りた器具を、私抜きで調べているのか」
エウリスが扉の前へ出る。
「王宮の監査官が立ち会っています。研究会からの申立ては、監査官へ」
「申立てならする。あれは学院の備品だ」
レオハルトは扉の内側へ足を踏み入れかけた。ナディアが床の板を戻し、彼と破片の間へ立つ。監査官は王子の身分を呼ばず、今日の立会人名簿を示した。
「殿下のお名前はありません。中へお通しできません」
レオハルトは名簿の向こうにいるセレーネを見た。
「森国の王女まで、彼らの側につくのか」
「私はエルシリン学院の立会人です。見たことを記録に残します」
セレーネは破片のそばを離れなかった。王子はそれ以上彼女に話しかけず、尽へ視線を移した。
レオハルトの口元が強張る。廊下を通りかかった学生が二人、角で足を止めた。尽は胸の奥が冷たくなるのを感じたが、ここで黙っていれば、あの朝と同じく王子の声だけが残る。
「第七灯は、研究会が試験に使いました。鏡板の縁へ保護材を塗った記録があります」
尽は言った。
「僕たちは、その跡が残っているか調べています」
「そんなもの、試験の後に拭き取ったはずだ」
王子はすぐに返した。フィオナの筆が止まる。試験簿の返却欄には、拭き取ったという記載はなかった。
「そう報告されたのですか」
監査官が尋ねる。
「研究会の備品だ。手順を知っていてもおかしくない」
「誰からの報告かを、後で伺います」
王子は答えず、尽を見た。以前のように「渡せ」とも「命令だ」とも言わない。代わりに、鏡板の欠片へ視線を戻す。
「その線が何か、まだ分からないのだろう」
「はい」
尽は短く答えた。そこだけは王子の言うとおりだった。
監査官が扉を閉めるようエウリスへ合図した。レオハルトは廊下の学生たちを一瞥して去る。靴音が階段へ遠ざかるまで、ペペは机に置いた手を動かさなかった。
「今の言葉も残して」
リゼッタがフィオナに言う。
「もちろん。ただ、消した作業を見たかどうかは、まだ聞いていません」
フィオナは王子の発言をそのまま書き、時刻を添えた。エウリスは比較用の鏡板を明朝までに用意すると告げる。試験後、研究会の棚へ戻したと記録された瓶についても、監査官が現物の所在を照会することになった。
尽は白布の上の欠片を見た。線は小さな灯を横へずらすだけで消えた。フィオナの帳面には、王子の「拭き取ったはず」という言葉が、まだ乾かない墨で残っていた。




