第百六十二話 白い塔へ戻る
エルシリンを発つ朝、ペペは焼き菓子の包みを鞄へ押し込んでいた。四人分の荷物はもう馬車に載っている。尽が寮の階段を下りると、リュオとミオが門のところで手を振っていた。
「帰ってきたら、そでを見てね」
リュオが言う。温室の挿し木にはまだ根が出ていない。ペペが長々と水の量を頼もうとすると、ミオに「ミレイア先生もいるよ」と笑われた。
出発を決めたのは、調理実習の翌日に届いた王宮の回答だった。手配そのものは残る。けれど指定街道の往復と、ソラヴェイン魔法学院内での二日間の立会いに限り、四人を拘束しない。両学院長と王宮監査官の署名が揃い、エルシリンからはフィオナが記録係として、ナディアが道中の護衛として同行する。セレーネも学院側の立会人に名を連ねた。決められた経路を外れれば、保証は及ばない。
「帰りの道も同じなの?」
尽が馬車のそばで尋ねると、ナディアが頷いた。
「北の林道は使いません。閉鎖中ですから」
例の罠箱の調査は森守が続けている。尽たちの行き先は、ソラヴェインの実習室だった。セレーネは幌の下に乗り込み、向かいの席を手で叩いた。
「遅れると、また皆に手を振られるよ」
尽は門を振り返ってから馬車に乗った。
国境までの道は、逃げた時と同じ森の縁を通った。三日目に大きな根が街道の石を持ち上げた場所を越え、四日目の朝、王国側の検札所が見えた。そこには古い手配書がまだ貼られていた。文字の下に描かれた四人の顔は似ていなかったが、人数だけは合っている。
検札の兵が紙から顔を上げ、尽のほうを見た。ナディアが馬車から降りて通達を差し出す。兵は封の印を確かめてもすぐには道を空けず、詰所の監査官を呼んだ。四人は荷台で待った。ペペが焼き菓子の包みを開きかけ、リゼッタに肘で止められる。
王宮監査官が来て、通達の番号と四人の名を読み上げた。彼は帰路の通行欄まで確認し、門番に通すよう命じた。
「掲示はそのままですか」
尽が尋ねる。
「手配は取り下げられていません。今回の立会いに必要な保護だけが、別に出ています」
監査官はそう答え、馬車の後ろへ乗った。ペペは包みを閉じ、膝の上に置いたままにした。
国境からさらに数日。王都へ入ると、尽は白い塔をまっすぐ見た。逃げた朝には荷台の幌の隙間から、遠ざかる塔を見ていた。今は近づくたびに、窓の形が一つずつ分かる。学院の西門で馬車が止まった。
エウリスが門の内側に立っていた。教授は四人の顔を順に見て、最後に尽へ言った。
「荷物は預けろ。立会いの時間が先だ」
「先生、ただいま」
尽の声に、エウリスは一度だけ頷いた。ペペが横で何か言おうとしたが、教授は先に「食べ物は実習室へ持ち込むな」と釘を刺す。鞄のふくらみを見られていた。
実習棟までの道には、王宮監査官とナディアがついた。学生たちが通り過ぎる足を緩める。尽は誰にも声をかけなかった。実習室の扉だけが、記憶より狭く見えた。
中の机は新しいものに替わっている。床の鎖痕には薄い板が被せられ、壁の第七灯があった場所は空いたままだった。フィオナはまず保全札の番号を読み上げ、エウリスが当日の記録と照らす。監査官が二重の封を確認してから、破片を入れた箱が開かれた。
尽は箱へ身を寄せた。鏡板の大きな欠片に、金の鎖が当たった箇所の欠けが残っている。エウリスが小さな灯を横へ置くと、鏡板の縁に、細い曇りが浮いた。上から見ていた時には分からなかった線だ。
「試験簿で塗った位置は、ここですか」
リゼッタが写しを開く。フィオナが図の矢印と破片の向きを確かめた。線は、塗布位置として記された縁に沿っている。ただし途中で切れ、鎖の痕に隠れるところもある。
「保護材かもしれない」
ペペが言った。
「灯の製造時についたものかもしれません」
エウリスは欠片に触れずに答える。試験後に拭き取った記録がないからといって、曇りの正体まで決まるわけではない。フィオナは、灯を傾けた時だけ線が見えると記し、鎖痕との位置関係を帳面へ描いた。
ユーノが灯を持つ教授へ尋ねた。
「このまま、成分を調べられますか」
「できる。表面を削る前に、他の破片も見よう。比較する場所が要る」
エウリスは灯を消した。尽の目には、先ほどの曇りがもう見えない。今ここで分かったのは、試験簿に記された縁に線が残っていることだけだ。誰が塗ったかも、衝突の日まで同じものが載っていたかも、まだ確かめていない。
監査官が次の箱の封を切る。蓋の内側には、当日の保全時刻とエウリスの署名が並んでいた。教授は鏡板の別の欠片を白い布の上へ置き、縁ではない面を小さな灯で照らす。
「そこにも同じ曇りがあれば、製造時の加工を疑える」
尽はフィオナの帳面に空けてある二つ目の欄を見た。リゼッタが試験簿の写しを押さえ、エウリスは灯の向きを少しずつ変えた。




