第百六十話 三枚の字
「自分の名前は書かないでください」
記録術の教師が小さな紙を配った。席に着いたペペは、もう筆を持っている。尽が横から覗くと、紙の上に「ペ」と一字だけあった。
「早いよ」
「名前を書かないなら、これは何に使うんだろう」
「消してから聞こう」
ペペは紙の裏へ回し、教師に新しい一枚を頼んだ。教室の前には同じ文を三度書く、と黒板に記されている。最初はいつもの手で。二度目は利き手を替え、最後は立ったまま、板を支えずに書く。書いた紙は混ぜて、誰の字かを当てるらしい。
「立ったままの字なら、すぐ分かるわ」
リゼッタが言った。セレーネは紙を机の角に揃え、筆先の墨を落とす。ユーノだけが、手を替えた時にどの指へ筆を載せるか確かめていた。
今日の文は「東の窓を閉めました」。短い。尽はいつもの手で書き終え、次の紙を引き寄せた。左手に筆を持つと、窓の字の途中で線が曲がる。机を挟んだ向こうで、ペペが自分の左手を右手で押さえつけていた。
「両手を使ってはだめよ」
「左手が逃げるんだ」
教師に注意され、ペペは右手を膝の下へしまった。出来上がった字を見て、リゼッタが笑いをこらえる。最後の「た」は紙の下端へ落ちかけていた。
立って書く番になると、教室は急に静かになった。板を支えられないので、筆を動かすたびに紙も揺れる。セレーネの三枚目は二枚目より大きな字になり、ユーノは最後の句点だけ妙に遠くへ打った。
「そこまで離す?」
ナナが机の横から指さす。
「紙が逃げた」
「ペペと同じこと言ってる」
集めた紙が戻ってくるまで、皆は手の墨を拭いた。ミオは左手の指先だけでなく、顎にも黒い点をつけている。隣の学生に教えられると、顎を拭いた袖へまた墨が移り、今度は頬に一本の線がついた。
教師は三枚ずつまとめた束を各組へ渡した。束の中には、見慣れたリゼッタの字が一枚ある。尽が残りを探すと、字の幅が違いすぎて、同じ人のものとは思えない紙が二枚混じっていた。
「これ、私の。立って書いたほう」
リゼッタが一枚を取り上げる。尽が彼女の字だと思った紙は、実はミオのものだった。二人とも「窓」の最後の払いを短く止める癖があり、墨の濃さまで似ている。
「私が書いたの、そっちよ」
ミオが指したのは、尽がペペの三枚目だと思って端へ除けていた紙だ。ペペは抗議しかけ、自分の紙がまだ束の底にあるのを見つけた。墨が乾く前に重ねたらしく、裏面に小さな「た」が写っている。
「ほら、これは僕だ。間違えようがない」
「当てる手がかりを自分で増やしてどうするの」
セレーネが笑った。教師はその紙を窓辺へ広げて乾かし、誤答も含めて黒板に数を書いた。同じ学生の三枚を揃えられた組は半分ほど。字の形だけを見るより、紙の置き方や墨の重なりに気づいた組のほうが多く当たっている。
尽はもう一度リゼッタの三枚を並べた。急いで書けば字の大きさも変わる。まして一枚だけ渡されて、名前を確かめろと言われたら。ソラヴェインから届いた承認書の写しが頭に浮かんだ。そこにレオハルトの名と印があることは確かだが、誰の手で筆が動いたかは別に調べなければならない。
「何か分かった?」
授業のあと、ユーノが廊下で尋ねた。
「今日の紙だけじゃ、人は決められないってこと」
「先生もそう言ってた」
「うん。承認書も、まだね」
ユーノは頷き、腕に抱えた教本を持ち直した。承認書に名を記された者、実際に第七灯へ材料を塗った者、衝突の日にあの場にいた者。尽はその三つを一人に重ねかけ、やめた。
階段のところでペペが追いついた。最初に「ペ」と書いた紙を捨てそびれ、胸の袋から出して見せる。
「これ、僕の字だと分かる?」
「分かるわよ」
リゼッタは紙を見る前に答えた。ペペが不服そうにすると、彼女は紙をつまんだ指を指さす。墨がまだついていた。ペペは手を裏返して確かめ、あわてて紙で拭こうとした。
「その紙で拭いたら、もっと分かるよ」
尽が止めると、ペペは紙を胸の袋へ戻し、指の汚れだけを布巾に移した。




