第百五十七話 赤い紐をたどって
翌朝の一限目、尽たちは植物実習室で鉢の土を替えていた。
「根は引っ張らない。土のほうを崩して」
ミレイアに言われ、ペペは両手で抱えた鉢を机へ戻した。鉢の中の細い蔓が、彼の袖口を握ったまま離さない。
「先生、この子は僕を選んだようです」
「その子は昨日、私の袖も選びました」
教室に笑いが起きた。尽が蔓の先を指でほどいたところで、廊下から鐘が三つ鳴った。授業の始まりを告げる鐘とは、間隔が違う。
尽の手が止まる。割れた結晶灯の音と、あの時の足音が先に浮かんだ。まだ誰も動いていないのに、扉までの距離を測っていた。
「避難訓練です。鉢は置いて、筆記具だけ持ってください」
ミレイアが落ち着いた声で告げた。予告は掲示板に出ていた。ただ、何限目に鐘を鳴らすかは知らされていない。尽は土のついた指を布で拭く。隣にいたセレーネが、彼の分の鞄を机の下から引き出した。
「階段は、いつものほう?」
「今日は赤い紐」
セレーネが扉の脇を示す。廊下の手すりに赤い布紐が結ばれ、曲がり角ごとに次の紐が見えるようになっていた。校舎の生きた案内葉は、匂いや風で向きを変えることがある。訓練の日だけは、それを頼りにしない決まりだ。
列が動き出すと、鉢の蔓がペペの袖をもう一度つかんだ。彼は振り返って蔓をそっと外す。
「今は一緒に逃げられない。授業が終わったら迎えに来るから」
「鉢まで連れてきたら、点呼で一人増えちゃうよ」
ナナが言った。先頭のミレイアも笑ったが、歩調は緩めない。廊下の窓は開け放たれ、雨上がりの湿った匂いが入っていた。曲がり角で別の教室の列と合流し、靴音が急に大きくなる。
尽は一度だけ後ろを見た。人が詰まり始めると、走って先へ出たくなる。けれど列の最後尾にはリゼッタがいて、遅れた学生の歩幅に合わせている。ユーノは角に立ち、二列がぶつからないよう手で合図していた。
「尽」
セレーネが呼ぶ。彼女は彼の顔ではなく、手すりの紐を指さした。
「次、右。そこまでは一緒」
「うん」
尽は赤い結び目を一つずつ目で追った。今いるのはエルシリンの校舎で、扉の向こうに金色の鎖はいない。そう言葉にするより先に、足が皆と同じ速さに戻った。
食堂へ通じる渡り廊下で、ペペが立ち止まった。低学年の小さな学生が二人、案内葉の矢印に従って列から外れようとしている。葉の先は食堂を向いていた。窓から焼きたてのパンの匂いが流れてくる。
「あっちは朝ごはんの続きだよ」
ペペが二人に声をかける。片方の子が首を傾げた。
「葉っぱは、こっちだって」
「僕もそっちに行きたい。でも今日は紐が先生」
彼は少し先の赤い結び目を示し、二人が見える位置まで一緒に歩いた。追いついた担当教師が礼を言うと、ペペは胸を張って答える。
「パンの誘惑には、僕も勝てませんでした。たまたま紐が見えたんです」
「勝ってから言いなさい」
リゼッタの声が後ろから飛んできた。
中庭の集合場所では、学年ごとに色の違う札が立っていた。上級生の列に迷い込んだリュオが、背の高い学生たちの間から手を振る。ミオが彼の肩を押して低学年の札へ送り、ナナは通りかかった教師に人数を伝えた。
点呼の途中、ペペの袖から細い緑のものが顔を出した。
「鉢を置いてきたんじゃなかったの?」
尽が聞く。蔓の先だけが袖の糸に巻きついて、いつの間にか一緒に来ていた。ミレイアがそっと外して掌に載せる。
「あら、鉢から離れているわ。ここまで連れてきちゃったのね」
「先生、点呼は?」
「学生は全員。蔓は一本」
ミレイアが真顔で答えたので、近くの学生が吹き出した。ペペは蔓の先に小さく謝る。教室で袖を離した時、少し折れていたらしい。午後に挿し木にすることになり、ペペは「責任を取って育てます」と宣言した。
訓練が終わって校舎へ戻る時、尽は渡り廊下の葉を見た。まだ食堂を指している。もう赤い紐を追う必要はない。小さな学生二人がペペに向かって、昼は迷わず行けるね、と笑った。
「君たち、先に行って席を取っておいて」
「まだ二限目があるよ」
リゼッタが言うと、ペペは肩を落とした。尽はその隣を歩きながら、赤い紐の結び目が手すりから順に外されていくのを見ていた。鐘はもう鳴らない。教室では、土を替えかけた鉢が机の上で待っている。




