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第十五話 魔法回路は電線ではない

次の双曜潮が過ぎたあと、メルダは尽の左膝から短い固定板を一度外した。


曲げる。


止める。


伸ばす。


もう一度止める。


痛みはある。


腫れは前より少ない。


尽が自分で歩くところを、治療区の回廊で二往復確認する。杖なしでは左へ傾く。杖があれば、ゆっくりなら転ばない。


メルダは許可札へ条件を追加した。


工房上階まで。


手すりを使う。


荷物は背負わない。


痛みが三角なら、その場で座る。


工房と市場を同じ日に往復しない。


弟子になったから治療が終わるわけではない。


尽は一つずつ読み、読めない箇所をティムに尋ねた。


最後の一行だけ、どうしても意味が取れない。


ティムは匙、皿、口を描く。


食事を抜くな。


「そこまで書かれる患者って、信用ないんかな」


メルダは日本語を理解しないまま、強く頷いた。


荷物はティムが持った。


家の鍵と白紙だけは、尽が上着の内側へ入れる。鞄を他人に運ばせることより、その二つを手放す方が落ち着かなかった。


工房上階の共同室には、寝台が四つあった。


一つはティム。


一つは空き。


残る二つは、別の交代時間に働く弟子が使っている。片方の棚には鳥の羽根を束ねた筆。もう片方には、角へ塗る油と細い櫛が置かれていた。


人間、矮人、羽族、角族。


同じ部屋を同じ時間に使うとは限らないが、同じ棚と洗面台を分け合っている。


窓はない。


天井に鉱石灯。


寝台ごとに厚い遮光布。


氷風城の外が赤くても碧くても、布を閉じれば眠れる。逆に、鐘が作業時間を告げれば、空がどう見えても起きる。


尽は止まった腕時計を棚へ置いた。


地球の一日は、ここでは役に立たない。


それでも針を十七時四十二分から動かさなかった。


壊れているからではない。


最後に母と話した頃の時刻を、勝手に進めたくなかった。


共同室の規則も文字札だった。


濡れた靴は下段。


刃物を寝台へ持ち込まない。


力石は蓋付き箱。


食べ物は共同棚。


他人の工具を無断で使わない。


遮光布を開ける前に声を掛ける。


最後の規則を、尽は二度読んだ。


窓のない部屋で、遮光布が個室の扉代わりになるのだ。


規則を読んでいる途中で、奥の遮光布が開いた。


白い翼を背中へ畳んだ女が、眠そうな顔で起き上がる。棚に羽根筆を置いていた弟子だった。


名はフィオ。


細い魔力紋を彫る刻紋工の見習いで、赤光が弱まる時間に働く。翼の羽根が炉粉を吸いやすいため、重鍛造区へ入るときは背中まで覆う布を着るらしい。


フィオは尽の銅札を見て、短く祝ったあと、寝台脇の床を指した。


そこには尽の杖が、通路へ半分はみ出していた。


翼を広げる者には、足元の細い棒が見えにくい。


尽はすぐ壁際へ寄せ、杖置きの輪を作業札へ追加した。


しばらくして、もう一方の寝台へ角の太い青年が戻る。


名はバルク。


炉壁粘土と耐熱石を扱う弟子で、碧光が太る時間が勤務終わり。彼は尽の止まった腕時計を手に取りかけ、他人の物へ触れる前に許可を求める札を思い出して手を止めた。


尽が渡すと、バルクは耳へ当てる。


音がしない。


故障品だと思い、工具を持ってこようとする。


尽は首を振った。


時計、電話亭、家族の簡単な絵を描く。直してほしくない、と示す。


バルクは完全には理解しなかった。


それでも時計を元の位置へ戻し、修理待ちではないことを示す白布を下へ敷いた。


同じ部屋でも、起きる時刻も、身体の大きさも、危険になる物も違う。


共同室の規則は礼儀の一覧ではなく、四種類の暮らしがぶつからないための設計だった。


ティムは空き寝台の木札へ、現地文字の〈ジン〉を刻んだ。


尽も自分で同じ字をなぞる。


荷物を置き終わると、休む間もなく下の工房へ戻された。


弟子の最初の講義が始まる。


グランドーガが机へ置いたのは、壊れていない鉱石灯だった。


外殻を外す。


中の部品を五つの区画へ分ける。


光を蓄えた小さな力石。


銀色の導路。


光を広げる乳白板と発光紋。


余りを戻す黒い返流石。


開閉つまみと、過剰時に切れる細片。


ティムが一つずつ名前を言う。


尽は単語帳へ、日本語の仮名と絵を並べた。


力源。


導路。


負荷。


返流。


停止。


電池。


電線。


電球。


戻り線。


スイッチとヒューズ。


似ている。


尽は、地球の簡単な回路図を描いた。


電池の長短二本線。


導線。


豆電球。


開いたスイッチ。


ティムが興味深そうに見る。


グランドーガは、力石と発光紋をその図の上へ置いた。


次に、導路を逆向きへ置く。


地球の導線なら、材質と太さが同じなら向きで形は変わらない。


この銀導路には、小さな三角紋が連続して刻まれている。


向きを逆にすると、力石の光は発光紋へ進まず、入口で青い霧になった。


グランドーガがすぐ停止片を抜く。


霧は消えた。


導路は、ただの金属線ではない。


材質。


太さ。


刻まれた紋。


向き。


赤光と碧光。


触れる者の魔力。


全部が流れ方へ関わる。


尽は回路図の線へ、矢印と材質欄を追加した。


グランドーガは別の灯りを出す。


同じ力石。


同じ導路。


発光紋だけが違う。


人が触ると白く光る。


角族の職人が触ると青い。


ティムでは黄みが強い。


尽が触れても、最初は何も起きなかった。


旧銀戒が胸元で温かくなる。


発光紋が一度だけ、赤と碧の二色へ割れた。


尽は手を離す。


グランドーガも即座に停止片を抜いた。


再試験はしない。


老人は灯りへ赤札を付ける。


尽が触れたこと。


指輪が発熱したこと。


二色へ分かれたこと。


一回だけ。


原因未確認。


尽は、指輪の力を見せれば特別な弟子になれるとは思わなかった。


未確認の入力を持つ作業者。


工房から見れば、危険条件が一つ増えただけだ。


その日の実習では、尽は力石へ直接触れないことになった。


代わりに、低い力しか持たない練習石を木枠へ固定する。


発光紋も、光が爪先ほどしか広がらないもの。


導路は銀ではなく、錫色の薄板。


失敗しても火傷しない範囲から始める。


課題は、つまみを開けば光り、閉じれば消える灯りを作ることだった。


尽は地球の回路と同じ形へ並べる。


力源から導路。


発光紋。


返流石。


停止片。


つまみ。


木板の上で接続する。


つまみを開く。


光らない。


導路を確認。


切れていない。


力石も光っている。


ティムが返流石を指す。


向きが逆だった。


尽は黒石を回す。


もう一度つまみ。


発光紋が光る。


消す。


消えない。


つまみを閉じても、弱い光が残る。


尽は停止片を抜いた。


完全に消えた。


開閉つまみが故障しているのではない。


返流石に残った力が、発光紋へ戻っている。


地球の電気なら、コンデンサの残留電荷に似ている。


ただし黒石は、余りを蓄えるだけでなく、力石の状態に応じて戻す方向を変える。


尽は〈返流〉を、単なる戻り線と書くのをやめた。


〈余りを受け、条件で戻す部品〉


ティムは、もっと短い現地語を教えた。


尽にはまだ発音できなかった。


次は、つまみを閉じたとき返流石から発光紋へ戻らない位置へ、細い片流石を加える。


再試験。


開く。


光る。


閉じる。


少し遅れて消える。


停止片を抜く。


再び開いても光らない。


三つの操作を順番を変えて行う。


全部、意図した通り。


グランドーガは完成の丸を付けず、板を赤い鏡箱へ入れた。


赤光では発光が強くなり、消灯まで長くなる。


碧い暗箱では弱いが、閉じた瞬間に青い霧が出る。


一条件だけで動いたものは、氷風城では完成ではない。


尽は、昨日と同じ誤りをした。


材料ではなく、今度は返流の条件を見落とした。


片流石には赤向き、碧向き、中立の三種がある。尽が使ったのは赤向きだった。


中立片へ交換する。


三光で再試験。


消灯時間に差はあるが、霧は出ない。


許容札の内側。


ようやく練習灯一つが完成した。


尽は単語帳の最初の回路図へ、大きなばつを付けた。


その横へ、新しい図を描く。


力源。


導路。


働く部分。


余りを受ける部分。


逆流を止める部分。


異常時に人が抜ける停止片。


電気回路に似ている。


同じではない。


似ているからこそ、分かったつもりになるのが危ない。


作業を終え、共同室へ戻る頃には、左膝が三角になっていた。


尽は階段の途中で座る。


ティムは先に上がらず、手すりへ背を預けて待った。


助け起こそうとはしない。


尽が自分で休むと決めたからだ。


痛みが丸へ戻ってから、一段ずつ上る。


遮光布を閉じる。


天井の光が消える。


氷風城へ来て初めて、自分で作った暗さの中に横になった。


外では鐘が鳴り、別の交代組が起きる。


誰かにとっての仕事始めが、尽にとっての眠り始めだった。


この世界には夜がない。


それでも、人は暗くしなければ眠れない。


尽は止まった腕時計を枕元へ置き、目を閉じた。

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