第百四十七話 雲の靴は舞台裏に
「雲って、靴を履くの?」
ペペが台本の一行目を読んだところで、リュオは木箱の蓋を閉めた。
「そこから聞くなら、先に最後まで読んでよ」
「最後の頁にも履いてるって書いてない」
「なくしたから探す話だもの」
放課後の小劇場は、乾いた絵の具と古い幕の匂いがした。リュオが低学年の学生に見せる短い芝居を用意したものの、役者のうち二人が風邪で休みになった。尽たちは手伝いを頼まれ、道具箱の周りに集まっている。
芝居の題は『雲の靴屋』。山へ雨を運ぶ雲が片方の靴をなくし、森の住人に尋ね歩く。最後は靴屋の看板の上で見つかるという。全部で十五分もかからない。
「ペペが雲。ミオが鳥。セレーネは靴屋のおばあさん」
リュオは紙に名前を書き込んだ。
「私、おばあさん?」
「前の役者の台詞を一番早く覚えたから」
「やるよ。でも、この杖は長すぎる」
セレーネが道具箱から出した杖は、舞台の天井近くまであった。ペペが持ち上げようとして、途中で照明の紐に引っかける。幕の裏に吊った小さな星が一斉に揺れた。
ユーノは台本を受け取り、語り手の席へ座った。声に出して最初の二頁を読み、句読点の位置だけ鉛筆で直す。ナナは雨の音を担当することになった。水の粒を器へ落とすと、短い雨音がよく響く。
「尽は風ね」
リュオに言われ、尽は幕の裏へ回った。台本には、雲が山を越える場面で「風が背を押す」とだけある。
「どれくらい押せば?」
「雲が歩きやすいくらい」
「ペペが入ってるんだよね」
「うん」
尽は幕の隙間から、雲の衣装を広げているペペを見た。丸い布に綿を縫いつけたもので、両脇には腕を出す穴がある。衣装の幅は舞台の裏口よりわずかに広かった。
「入る時、横を向いてね」
「分かった」
ペペは返事をしながら正面から裏口へ進み、左右をつかえさせた。
「いま横を向くところだった」
彼を引き戻すのに三人かかった。リゼッタはその間に道具の置き場所を床へ小さく書いた。看板、靴、杖。最後の靴だけ、台本どおり看板の上に載せると落ちやすい。
「紐で結んでおけば?」
セレーネが言う。
「見えてしまう。上の釘へ掛けるほうがいいわ」
リゼッタは靴の踵に細い輪をつけ、釘へ引っかけた。軽く揺らしても落ちない。彼女が位置を確かめている間、ペペは舞台の向こうから「ぼくの靴を知りませんか」と三度声を張っていた。
「知ってるけど、まだ教えられない」
リゼッタが答える。
「お客さんには聞こえないくらいで言って」
リュオが慌てて振り向いた。
通し稽古では、尽の風が最初から強すぎた。雲の布が膨らみ、ペペの顔まで綿に埋まる。彼は台詞を言おうとして、綿を一つ口から吹き出した。
「顔、見えてない」
ミオが肩を揺らしている。
「雲だから見えなくてもいいだろ」
「靴を探してる顔が見えないと困るよ」
リュオに言われ、尽は風を弱めた。今度は雲がしぼみ、衣装の端が床を引きずる。
セレーネが幕の隙間から手を出した。
「上だけ送って。裾はそのまま」
昼の実習で小さな鈴を鳴らした時と似ていた。尽は衣装の上部に縫いつけた綿を見て、そこだけに風を当てる。布が少し浮き、ペペは足元を見ながら歩けるようになった。
「それなら転ばない」
「転ぶ予定はないよ」
彼はそう言った直後、舞台の段差を踏み損ねた。幕の裏だけの出来事で済み、リュオは台本の余白へ何か書き足した。
翌日の昼休み、客席には低学年の学生が二十人ほど座った。前列の子たちは、幕の下から見えるペペの靴を指している。本人は丸い雲の中で聞こえないふりをした。
ユーノの語りで芝居が始まる。ミオは鳥の羽を頭につけて舞台を横切り、ナナの雨は小さな器の中で降った。セレーネが杖をついて出てくると、前列から「おばあさん、走れる?」と声が上がる。
「靴屋は走らないよ。靴を直すんだから」
セレーネが芝居の声のまま答えた。客席はそれで納得したらしい。
雲が看板へ近づく。ペペは落ち着いて台詞を言い、看板の上を指した。
「あっ、あれはぼくの靴!」
リゼッタが裏から靴を外そうとする。踵の輪が釘に食い込んで動かない。ペペは指を上げたまま待ち、セレーネも杖を置かずに待った。客席の一人が先に靴を見つけ、「右だよ」と教えてくれる。
「ありがとう。右の、どこだろう?」
ペペが問い返すと、今度は十人ほどが一斉に右を指した。尽は裏から看板を少し傾ける。輪が釘から外れ、靴がリゼッタの手へ落ちた。
靴屋が雲に靴を渡す場面で、セレーネは片方の靴紐を結ぶふりをした。台本にはない。ペペもしゃがみ、丸い衣装ごと前へ傾く。尽が上部の綿へ風を送り、雲がほんの少しだけ弾んだ。前列の子が拍手をし、後ろの子も続いた。
幕が閉まると、リュオは台本を抱えて走ってきた。
「最後、あのほうがよかった。靴紐を結ぶところ」
「看板の釘は直したほうがいいわ」
リゼッタが靴を持ったまま言う。踵の輪はまだ釘の形に曲がっていた。
「そこも書いた」
リュオが余白を見せる。字の小さな注意書きが増え、台詞より長くなっている。
片づけの最中、ペペは衣装を脱がないまま道具箱を運ぼうとした。また裏口につかえた。今度は誰も引っ張らず、皆で彼が横を向くまで待った。




