第百四十六話 泥の上に三枚の板
寮の談話室に写影板を飾った翌日、ペペは朝からその前を三度通った。四度目には足を止め、自分の像の膝を指でなぞる。
「ちゃんと十まで座った証拠だ」
「証拠が必要なの?」
尽が尋ねると、ペペは板の右端を示した。手鏡に映ったミオの顔の横で、自分の片方の靴だけが少しぼやけている。
「九で立ちかけた」
「座ってたって言ってたじゃないか」
「十までは、だいたい」
セレーネが笑い、尽たちは朝の運動実習へ向かった。
昨夜までの雨で、練習場の半分は泥になっていた。教師は乾いた側へ学生を集め、ぬかるみの向こうに置かれた白い旗を指す。距離は十五歩ほど。間には幅の狭い木板が三枚ある。
「四人一組で旗を取って戻ります。板は動かして構いません。飛行と、仲間を丸ごと運ぶ術は使わないこと」
「泥を踏んだら?」
「戻って、やり直しです」
教師の足元には洗い桶が二つ置かれていた。昨日の受講生は全員一度は使ったという。
尽、リゼッタ、ペペ、セレーネで一組になった。ユーノはミオとリュオ、ナナの班に入る。向こうの班はすでに板の長さを測り始めていた。
「私たちは最初に二枚を渡して、最後の一枚を引き寄せる」
リゼッタは地面に小枝で線を引く。先頭のセレーネが板に乗り、尽が風で空いた板を送る。ペペは最後尾で板を回収する役になった。
「僕、最後でいいの?」
「先頭に立つと、旗を取りに走るでしょう」
「走れるなら走るけど」
「だから最後なの」
最初の七歩はうまくいった。セレーネが板を渡り、尽が次を寄せる。足の下の板は湿っていたが、滑らないよう表面に細い溝が刻まれている。リゼッタは一歩ずつ位置を確認し、ペペに板を上げる時刻を指で知らせた。
「いま」
「まだ僕の足が乗ってる!」
「指一本だけでしょう」
「足の指も足だよ」
ペペがつま先を引くのを待ったせいで、尽の送った板が斜めになった。セレーネは旗の前で振り向き、笑いをこらえながら板を直す。
隣の班は別のやり方を選んでいた。ユーノが板を一定の間隔に置き、ミオが羽で弱い風を送る。リュオとナナは一枚ずつ運び、後ろの板を前へ回す。速い。
「負けるわ」
リゼッタがつぶやいた。
「競争じゃないって先生が言ったよ」
「あちらは競争してる顔よ」
確かに、ユーノは無表情のまま歩幅を少し広げていた。
尽たちの班は、旗まであと三歩のところで止まった。板が一枚、後ろに残っている。回収役のペペが手をかけたが、板は持ち上がらなかった。
「風で引ける?」
「板が泥にくっついてる。持ち上げれば来るけど、誰かが乗ってる」
尽が言う。板の上にはリゼッタが立っていた。彼女は下を見た。
「私が動けばいいのね」
隣の板へ足を伸ばす。届くか届かないかの距離だ。ペペが腕を差し出し、セレーネが反対側から支える。リゼッタは二人の手を借りて渡り、尽が空いた板を風で浮かせた。
「はい、前へ」
セレーネの声と同時に、ペペが板を受け取る。ところが彼は自分の立つ板へ重ねて置いた。三枚あるのに、二枚しか道がない。
「前って、旗の方」
「分かってる。持ち替えただけ!」
やり直す間に、向こうの班が旗を取った。ユーノが持って戻るところを見て、ペペは板を急いで前へ差し出す。
「急がなくていい」
「あっちは帰ってきてるよ」
「競争じゃないんだろ」
尽がさっきの言葉を返すと、ペペは口を尖らせたまま板を置いた。四人は旗まで渡りきる。セレーネが白い布を外した途端、リゼッタが板の順を入れ替えた。
「戻りは私が最後。道を作る人と回収する人を、途中で替える」
「最初からそうすればよかったのに」
「行ってみて分かったの」
帰りは少し速かった。尽が板を浮かせる時には誰も上にいない。ペペは口数を減らし、前の人が足を離したのを確かめてから板を渡した。
残り一歩。岸へ飛べる距離になって、ペペが肩を回す。
「走らないで」
三人の声が重なった。
「まだ何もしてない!」
彼は大げさに歩いて岸へ降りた。教師が泥の付いていない靴を見て、合格の印をつける。四人の板は三枚とも戻っていた。
隣の班も終わっていたが、洗い桶のそばでリュオが片足を拭いている。帰路の最後で旗をユーノへ投げようとして、軸足だけ板から落ちたらしい。ミオが羽を広げて助けかけたものの、飛行禁止を思い出して畳んだという。四人はそこからやり直し、今度は旗を投げずに渡ってきた。
「勝ったのはどっち?」
ペペが教師へ聞いた。
「両方、合格です」
「でも速さなら」
「泥を踏まずに帰った班が一つだけありますね」
リュオが洗い桶から顔を上げた。ユーノは旗を彼に渡し、「投げる必要はなかった」と静かに言う。
昼休み、ペペは自分たちが泥を踏まなかった話を三度した。四度目に入る前に、サラナが談話室の写影板を指す。
「今朝から右端に泥の指跡がついています。手で触るなら、先に拭いてください」
全員がペペを見た。彼は自分の靴を見下ろし、それから写影板の中の、少しぼやけた足を見た。
「あれは昨日の僕だよ」
「今日の指の跡の話です」
サラナが布を渡す。ペペは反論せず、板の縁を拭き始めた。




