第百四十五話 写影板の中の遅刻者
翌朝、リゼッタは朝食の席で精霊棋の規則を読んでいた。
「昨夜の短い盤なら、私が勝っていたはずよ」
「最後に僕の旅人が宿へ入ったよ」
ユーノは茶を飲みながら答えた。
「塔を二つに減らした場合、宿の鳥は動かないって書いてある」
「その規則は、誰が作った?」
「私」
ペペがパンを持ったまま笑い出した。リゼッタは規則の紙を畳み、彼の皿の横に置く。朝食のあいだはもう読まないつもりらしい。
雨の上がった学院では、渡り廊下の板がまだ湿っていた。尽たちが午後の選択授業へ向かうころ、窓から差す光で床の水筋が銀色に見えた。教室の前には「写影術」と書かれた札が掛かっている。
「写真を撮る授業?」
尽が尋ねると、セレーネは首を傾げた。
「写真って、そっちの世界の呼び方? こっちは光を薄い板に留めるんだ。今日は人を撮るはず」
教室には木枠の写影板が六つ並んでいた。薄い銀葉を張った板の裏に光の術式が刻まれている。講師は窓の鎧戸を開け、朝から乾かしておいた葉を学生へ配った。
「十数えるあいだ、被写体は動かないこと。術者は明るさを一定に保つこと。どちらかが失敗すると、余計な手足が写ります」
「余計な手足って何本まで?」
ペペの質問に、講師は板を一枚持ち上げた。去年の受講生が写した例らしい。椅子に座る少年の右腕だけが、肩から先で三つに分かれていた。
「この学生は、写った自分に握手を求められたそうです」
教室が少し静かになった。
「冗談ですよ。板の中の腕は動きません」
講師が笑うと、今度は皆が安心した顔で騒ぎ始めた。
四人は一組になり、撮る役と写る役を交代することにした。最初の被写体はペペだ。彼は椅子を斜めに置き、片膝へ肘を乗せた。
「もっと普通に座って」
リゼッタが板を構える。
「研究生らしい姿勢だよ」
「研究生は、そんなふうに頬杖をつかない」
「じゃあ工房の先輩らしい姿勢」
「工房の先輩でもないでしょう」
言い合ううちに、リゼッタの術式が光を拾った。尽が十まで数える。八でペペが立ち上がった。
「今、撮った?」
「まだ二つ残ってる!」
現れた像では、ペペの上半身は椅子に座り、足だけが戸口へ向かっていた。ミオが覗き込み、「これなら遅刻しても、半分は教室にいるね」と言う。ペペはしばらく自分の足を見つめていた。
次はユーノが撮る役になった。彼は写影板を窓から少し遠ざけ、リゼッタと尽を並べる。セレーネが椅子の背へ手を置いた。
「光が足りないんじゃない?」
「大丈夫。窓の近くだと雲が通るたびに変わる」
十数える間、尽は正面を向いた。セレーネは途中で彼の襟が折れているのに気づき、手を伸ばしかけて止めた。リゼッタは最初から最後まで動かなかった。
板に浮かんだ三人を見て、ユーノが黙る。リゼッタだけがくっきり写り、尽とセレーネの輪郭はうっすら二重になっていた。
「僕ら、動いた?」
「二人とも目線が合ってない。尽は窓、セレーネは尽の襟」
「目だけでこんなになるの?」
ユーノは板の端を示した。そこに小さな注釈が浮き出ている。撮る人が数を途中で忘れた時にも、像が重なると書いてあった。
「九の次に、九って言った」
「言ったな」
「君が?」
「僕が」
ユーノは板を机へ伏せた。ペペが笑う前に、自分から次の銀葉を取りに行く。
休み時間には、ほかの班の失敗作が黒板の前へ集まった。ナナの像は椅子だけが写り、本人は透けている。水の精霊が体の輪郭を薄くしたまま座ったせいだった。ミオの班では、羽を畳んだはずの彼女が板の両端にもう一人ずつ写っている。
「三人いれば、片づけ当番が早く終わるのに」
「写影板の中から出てこないよ」
尽がそう返すと、ペペは例の足だけ先へ出た板を持ち上げた。
「僕の足なら出そう?」
「出てきたら自分で捕まえて」
最後に、講師が一組につき一枚だけ、寮へ持ち帰ってよいと言った。撮り直す時間は残りわずかだ。セレーネが板の前に椅子を四つ並べ、ミオに撮影を頼んだ。彼女の方が雲の動きを見るのが得意だという。
「四人だけでいいの?」
尽が聞く。
「私も入る。ミオも、撮ったあとに写す」
「どうやって?」
セレーネは小さな手鏡を取り出し、机の端へ立てた。鏡には板を構えるミオが映る。講師は仕上がりに責任を持たないと念を押してから、鏡の角度だけ手伝った。
尽、リゼッタ、ペペ、ユーノ、セレーネ。五人が肩を寄せた。ミオが窓の雲を見て合図を出す。数える声は今度こそ途切れず、ペペも十まで椅子に座っていた。
銀葉の表面が乾くのを待ち、皆で覗き込む。五人の姿は一枚に収まっている。机の端の鏡にもミオが小さく写った。ただ、セレーネが置いた鏡の縁で、尽の左耳だけが見事に隠れていた。
「もう一回?」
セレーネが申し訳なさそうに聞いた。
「時間切れだよ」と講師が告げる。
尽は板を持ち、耳のあたりを確かめた。隣でペペが得意げに座っている。昨夜の棋盤では勝てなかったリゼッタも、今日は少し笑っていた。
「これでいいよ。ミオまで入ってる」
「じゃあ、寮の談話室に置こう」
セレーネが言った。教室を出る前、ユーノは自分が二度九を数えた板を回収しようとしたが、講師に止められた。次の授業で失敗例として使うそうだ。リゼッタはその横で、自分だけ鮮明な像を一度見てから廊下へ出た。




