第百四十四話 雨の日の盤上戦争
午後から降り出した雨は、夕食が終わっても止まなかった。
寮の談話室では、外に出られない学生たちが窓際の長椅子を占領している。雨粒が枝葉を打つたび、部屋の隅の鉢植えが葉を震わせた。窓を閉めていても、森の匂いが薄く入り込んでくる。
尽は図書室で借りた植物図鑑を開いていた。文字は目に入るのに、さっき読んだ頁へ何度も戻ってしまう。エウリスの手紙にあった王子の名が、頭のどこかに残っていた。
「そこ、三回目」
隣からセレーネが頁を押さえた。
「覚えたい植物があるんだ」
「その頁は食堂の裏で育ってる草だよ。毎朝見てる」
尽は図鑑を閉じた。向かいの卓では、ペペが木箱を抱えて席を探している。箱の蓋から小さな青い旗が突き出していた。
「雨の日はこれだって、リュオに借りてきた!」
ペペが箱を開けると、丸い盤と木製の駒が出てきた。塔、橋、舟、それに帽子をかぶった小さな旅人。盤上には川が一本走り、両岸に色の違う家が並ぶ。
「精霊棋?」
セレーネの声を聞いたリゼッタが、卓に近づいてきた。
「難しいものじゃないよ。旅人を橋の向こうの宿まで運べば勝ち。舟は一度だけ使える」
「私もやる」
「ルールを最後まで聞いてからにして」
セレーネは笑い、盤の横に三枚の札を並べた。晴れ、雨、強風。手番の始めに一枚めくり、天気に合わせて動かせる駒が変わるという。
「雨なら舟でしょう」
リゼッタが言った。
「雨だと川が増水して、舟は出せない」
「なら晴れの日に舟を使うの?」
「そう」
「その舟、必要?」
「使ってみると分かるよ」
ユーノが椅子を引いた。彼は盤を一目見て、四つある橋のうち一本だけ欄干の色が違うことに気づいたらしい。
「これが落ちるのか」
「そこまで先に言わないで」
ペペが抗議した。
最初は尽とセレーネ、リゼッタとユーノの二組に分かれた。ペペは旗を持つ審判役を買って出たが、三手目で札をめくる順を間違え、全員の舟を岸へ戻した。
「今のは無効」
「審判なのに?」
「審判だから無効を宣言できる」
もっともらしく旗を振るペペの背後で、ミオが吹き出した。通りがかりに覗いたはずの彼女も、そのまま卓の端に腰を下ろす。
リゼッタは初め、駒を動かすたびに相手の経路を塞いだ。橋の上に塔を置き、尽の旅人が一歩進むと、その先にもう一つ障害を作る。
「味方の旅人、まだ出発してないよ」
セレーネが指摘する。
「先に道を確保するの」
ところが次の札は強風だった。盤に彫られた樹の梢がざわめき、橋の上の塔がひとます滑る。空いた道を尽の旅人が通り抜けた。
「待って。塔は固定じゃないの?」
「強風の日だけ動くんだ」
「最初に言って」
「言ったよ。ペペが舟を持ち上げてた時に」
「聞こえるわけないでしょう」
リゼッタの抗議はもっともだった。ペペはその時、舟の底に本当に水が入っているかを調べていた。卓に一滴垂らしてサラナに叱られたので、皆そちらを見ていたのだ。
対局は二度やり直しになった。一度目はペペの手違い、二度目は談話室の鉢植えから伸びた蔓が盤の端を引っ張り、川が机から落ちかけたためだ。サラナは鉢を窓際へ戻し、「遊びたいなら学生用の駒を借りなさい」と葉先を軽く叩いた。
三度目の盤では、リュオも加わった。持ち主なので手加減すると言いながら、最初の晴れ札で舟を使い、旅人を川の曲がり角まで運んでしまう。
「早い」
尽が盤を見直す。
「舟は岸から岸へ渡るためのものじゃないの?」
「曲がり角までなら行けるよ。岸の向こうに宿があるから、降りたあと二歩で着く」
リュオは指で道を示した。言われてみれば盤に細い足跡が彫ってある。セレーネも知っていたらしく、涼しい顔で頬杖をついている。
「知ってたなら教えてくれよ」
「自分で見つけるのが楽しいんだよ」
「さっき僕には落ちる橋を教えてくれなかったじゃないか」
ユーノが言うと、セレーネは視線をそらした。
リゼッタは盤に顔を寄せた。研究室で術式を読む時より真剣かもしれない。リュオの旅人が宿の一歩手前に来たところで、彼女は川べりの小さな塔を動かした。
「その塔、僕の駒だよ」
「強風の札なら、近くの塔を一つ動かせる。持ち主とは書いてない」
リュオが規則の紙を確かめる。確かに書いていない。リゼッタは塔を宿の入口に据え、リュオの旅人を止めた。
「すごい」とミオが言いかけた時、次の手番でペペが晴れの札をめくった。宿の屋根に描かれた小鳥が羽ばたき、入口の塔を庭へつまみ出す。
「宿の前を塞ぐと、鳥が片づけるんだ」
リュオが申し訳なさそうに言った。
リゼッタはしばらく口を開かなかった。それから、盤の鳥へ指を突きつける。
「その規則も、最初に説明して」
談話室の端まで笑い声が届いた。窓際で宿題をしていたナナまで顔を上げる。尽も笑ってしまい、閉じた図鑑の上に手を置いた。さっきまで同じ頁を見つめていたことを、少しの間忘れていた。
結局、最初に宿へ着いたのはリュオでもリゼッタでもなかった。皆が入口の塔と舟を争っている間に、ミオが自分の旅人を遠回りの石畳へ進めていた。彼女は最後の一歩を置き、青い旗をペペから受け取る。
「審判、見てなかったの?」
「全部見てたよ。止める理由がなかった」
ペペは胸を張った。少し悔しそうだった。
雨はまだ降っている。サラナが消灯まであと半刻と告げると、ミオは旗をリュオへ返した。リゼッタは規則の紙を借り、宿の鳥について書かれた小さな一行を見つける。
「もう一局」
「消灯までに終わらないよ」
「短い盤にすればいい。舟なし、塔二つ」
「それ、別の遊びになってない?」
セレーネの問いには答えず、リゼッタは駒を並べ始めた。尽は図鑑を鞄にしまい、彼女の向かいに座り直す。次の対局では、鳥のいる宿に塔を置かない。それだけはもう覚えた。




