第百四十一話 静かにと言ったのは誰だ
「今日の温室では、話す前に考えてください」
ミレイアの注意が終わるより早く、ペペは隣の小鉢を指した。
「これ、食べられる?」
薄茶色の茸が、傘を一度だけ震わせた。
「食べられません」
ミレイアが答える。少し間を置いて、茸の方から小さな声がした。
「これ、食べられる?」
ペペは椅子を引いた。茸は彼の声の高さまでそっくりだ。
「返し茸は、湿った間に聞いた声を短く覚えます。乾けば忘れるので、保存には使えません。今日は、どの鉢がいつ言葉を返すか記録してください」
机には同じ形の鉢が四つ並んでいる。土の湿り具合は少しずつ違い、傘を見ただけでは区別がつかない。ミレイアは全員に観察紙を配り、砂時計を逆さにした。
「声を足すほど難しくなりますよ」
リゼッタがペペの口元へ指を立てた。ペペは手振りで「分かった」と示すつもりだったが、その動きが大きすぎて、向かいのリュオまで真似を始める。
ユーノは観察紙に〈一番左、朝の水やり済み〉と書いた。尽が二番目の土へ目を寄せると、表面にまだ水の跡がある。三番目は乾いている。四番目は鉢の底から細い滴が落ちていた。
ミオは翼を畳み、椅子へ浅く座っている。羽が揺れるだけで、茸の傘が風を聞き違えるという。セレーネは腕の中の風苔を窓辺へ置き、茸の陰に入らないよう少し離した。
砂時計の砂が半分落ちたとき、一番左の茸が「食べられません」と言った。
ミレイアの声だ。ユーノが時刻を書こうとする。すると四番目から、ペペの声が重なった。
「これ、食べられる?」
ナナが笑いをこらえて肩を震わせた。その音を拾ったのか、二番目の茸が小さく「ふっ」と鳴る。
「笑い声も覚えるのね」
リゼッタがつい口にした。
「今のも」
尽が囁くと、三番目の傘が傾いた。ユーノは二人へ観察紙の裏を見せる。そこには太く〈黙ってください〉と書いてあった。
ペペが頷いた。次の瞬間、一番左の茸がユーノそっくりの声で言った。
「黙ってください」
「書いただけなのに」
ユーノが驚いて紙を見下ろす。さっきの言葉を、書く前に小声で口にしていたらしい。
教室のあちこちで笑いが広がり、茸はその笑いまで拾い始めた。ミレイアは砂時計を止めず、黒板に一行だけ書く。
〈自分の声も観察対象〉
ナナは青い火を指先へ出し、鉢の陰を照らした。少し乾いた三番目の茸だけが、傘の縁を閉じている。尽は記録紙に、三番目はまだ声を返していない、と書いた。確かめようと身を寄せると、セレーネがそっと袖を引く。
「風が入る」
彼女は声に出さず、唇だけ動かした。尽は窓を閉める代わりに、二人で机の位置を変えた。茸の前を通る風が弱まり、傘の縁がほどける。三番目は一度だけ震えたが、何も言わなかった。
砂が落ち切ると、ミレイアは生徒たちの紙を集めた。尽の班は、四つの鉢の湿り気と発声の順をだいたい書けている。ただ、二番目の〈ふっ〉が誰の声かで、皆の意見が割れた。
「ナナです」
ミオが言う。
「あなたも笑ってた」
ナナが返す。
「私は翼を畳んでたよ」
「翼と口は別」
ミレイアは二人の紙を見比べ、どちらにも印を付けなかった。
「分からなかったら、分からないと書きます。声の持ち主を当てる授業ではありません」
ペペは手を上げる。
「最初の僕の声は、当てられますよね」
「全員が聞きました」
「じゃあ、あれだけ満点」
「質問は茸を食べられるか、でしたね」
「食べないです」
ペペは手を下ろした。教室の後ろから、まだ湿っていた茸が同じ声で「食べないです」と返した。
昼休み、ナナは温室で乾きかけた鉢へ水を足した。朝の実習で使った茸を片づける当番だからだ。ペペは食堂の列に並びながら、「また僕の声が残ってたら嫌だな」とぼやく。
「昼には忘れるって、先生が言ったでしょ」
リゼッタが答えた。
「でも、次の授業で誰かが水をかけたら」
「また新しく聞いた声を覚えるだけです」
ユーノが言う。ペペはそれでも、自分の皿を受け取るまで茸の方を何度か振り返った。
その日の午後、尽は第六二号の写しを一度だけ見直した。講義が始まる前に鞄へしまう。教室の窓は開いていて、外の木々が揺れていた。前の席では、ペペの二枚の札がまた小さく鳴り、ユーノが黙って片方の留め具を直していた。




