第百三十九話 倒れない棚の、逃げ足
「入会の課題は、これ」
ヴァルドが作業台の上に陶器の杯を置いた。杯には半分ほど水が入っている。すぐ横には、脚の長さが違う木製の小棚が一つ。
「この棚に杯を載せて、私が台を揺らす。一滴もこぼさず十数えたら合格」
「脚を揃えたら終わりじゃない?」
ペペが言うと、ヴァルドは棚を指で押した。脚は揃っていた。床板が柔らかく、踏むたびに傾くのだ。
「寮や温室の根は勝手に伸びる。ここで使える仕組みにして」
研究会の正式な参加札を受け取って以来、ペペが工房へ来るのはこれが初めてだった。尽たちは見学者として奥の長椅子に座っている。ユーノだけは最初から棚の下をのぞき、許された範囲を確かめていた。
「見学者は手を出さないでね」
ヴァルドに言われ、ユーノは椅子へ戻った。
「出しません」
「顔がもう出してる」
ペペは薄い板と小さなばねを借りた。杯を載せる皿だけが水平を保つよう、棚の上に揺れる台を作る。三本のばねを取り付けたところで、リゼッタが首を傾げた。
「その台、手で触るとずっと揺れるわよ」
「揺れても杯は真ん中にいる」
「まず水を入れて試して」
ペペは杯を載せ、指で棚を押した。皿が跳ねる。杯は落ちなかったが、水がきれいな弧を描いてペペの鼻先へかかった。
「一滴目」
ミオが数えた。
「数えなくていい」
「何滴だったか記録した方が」
ユーノが言いかけ、ペペの顔を見て口を閉じた。セレーネが布を差し出す。
隣の作業台では、リュオが棚の脚を根で床へ縛っていた。ヴァルドが板を揺らすと、棚ごと床の一部が持ち上がる。
「棚は倒れません」
「床を直す当番になるよ」
リュオは根を緩めた。机の向こうでナナが、動く棚の脚へ小さな靴を履かせている。左右の高さが違う靴だ。
「片方だけ厚くしたら、まっすぐ立つ」
「床が変わったら?」
「脱がせる」
靴を脱がされた棚は、ナナを追いかけるように少しだけ滑った。彼女は嬉しそうに二歩下がる。
ペペはばねを一本外し、皿の下へ布を挟んだ。揺れを殺せば、水は跳ねにくくなるはずだ。試すと杯は安定した。しかし台を傾けたとき、棚の脚がするりと床板から離れた。
「待って」
棚が作業台の端へ向かう。尽が風で止めようと立ち上がるより先に、ヴァルドが片手で受け止めた。杯の水は半分ほど残っている。
「杯だけ守って、棚が逃げた」
「そこまで軽いと思わなかった」
ペペは棚を抱えて戻した。ヴァルドは床板を一度押し、木が沈む量を見せる。
「棚を押さえる重りを下に置けば?」
「重くしすぎると、寮の木に嫌われる」
「寮へ持っていく予定?」
「いつか、部屋の杯を守るのに」
ペペは言いながら、工具箱の底を探った。薄い金具を一枚取り出し、棚の脚に固定する。金具の両端は床に触れるが、釘を打ち込まない。根が伸びれば、金具は少し浮いて逃がす。
「それなら、床を傷めないね」
セレーネが言った。
「ばねは?」
尽が聞く。
「一本だけ残す。たぶん、今度は水が飛ばない」
ヴァルドが棚を三度揺らした。皿は少し傾き、戻る。杯の水面に輪ができたが、縁までは届かなかった。
「四、五、六」
ミオが声を出して数える。ペペは息を止め、ユーノは自分の膝の上で指を折っていた。
「九、十」
ヴァルドが手を離す。杯は棚の中央に残り、水もこぼれていない。
「合格」
ペペは両手を上げた。次の瞬間、皿の下に挟んだ布がゆっくりずれ、杯が一寸だけ傾く。全員が黙って見守った。水は縁に届かず、また真ん中へ戻る。
「十まで数えた後なので、合格は取り消さないでください」
ペペが言う。
「取り消さないよ。使う前には、布を留め直すこと」
ヴァルドは工房研究会の小さな札を渡した。ペペが外来研究生の札の隣へ付けようとすると、留め具が互いに引っかかる。
「二つ並べると音がする」
「もう一つ作れば、風鈴みたい」
ナナが笑う。
授業の後、ユーノはようやく作業台へ近づいた。棚の下を見てから、ペペへ紙を渡す。
「最初の図です。脚の長さが違うと思っていました」
「僕もそう思った」
「床の方が動きました」
「あれはずるい」
ペペは図の端に、ヴァルドが床を押した位置を描き足した。そこへナナが寄ってきて、余白に靴を履いた棚を描く。ユーノは消さなかった。
夕食へ向かう途中、尽はペペの胸で二枚の札が小さく触れ合う音を聞いた。ペペはその音が気に入ったらしく、階段を下りるたびに少し跳ねていた。




