第百三十八話 糸の色は、頁の年を覚えている
エルナが染料の壺へ糸を浸すと、ペペの袖口から細い緑の線が伸びた。
「動いてる」
「糸が?」
リゼッタが見るより早く、糸はペペの手首を一周した。結び目を作る気はないらしい。ただ、壺へ戻る道を探している。
「染まると元の木を探すんです」
エルナは糸を指で押さえ、木枠へ巻き直した。
「昨日の実習では、こんなに動かなかった」
「昨日は水で洗っただけです。今日は染めています」
資料保全会の部室には、樹皮から取った染料の匂いが満ちていた。原簿の補修に使われた布の種類を見分けるため、四人は見本の糸を染め、乾いた後の色を比べている。元の原簿はここにない。手元にあるのは、エルナが以前作った練習用の綴じ本だけだ。
ユーノは染料の濃さを記録し、セレーネは糸の一本を木枠から外さずに結び直した。尽の担当は、乾燥棚の札を入れ替えること。ペペが二本目の糸に手を伸ばすたび、エルナはその手を見張った。
「壊しませんよ」
「糸が逃げたら、探すのは私です」
「さっきのは僕を捕まえた」
「それならペペさんを探せば済みます」
ナナが机の下で笑った。昨日の借り物競走で使った花咲く紙を、今日は栞にして持っている。ペペは何か言い返そうとしたが、手首の緑糸がまた壺へ向かって伸び、そちらを押さえるので精いっぱいだった。
昼休みの終わりに、フィオナが部室を訪ねた。机に置いたのは、厚さの違う二冊の修補台帳だった。
「保存担当から許可が出ました。原簿の布は剥がしません。綴じ直したときの記録を、皆さんにも見てもらいます」
エルナが糸を乾燥棚へ移し、作業台を空けた。
「原簿の年代は二年前。布を当てたのは、その翌年です」
フィオナは頁を開く。記録には、古い帳簿の背が割れたため、外側から補強布を足したとある。布の色は、いま乾燥棚で揺れている見本とよく似ていた。
「わざと番号を隠したわけじゃなかったのね」
リゼッタが言った。
「ここに補修前の写しがあります」
台帳の後ろに、薄い紙片が綴じられていた。破損箇所を記録するため、補修前に原簿の端だけを写したものだ。風見塔の行、引渡し控えの小さな字。その後に続く二桁が、ようやく読めた。
〈第六二号〉
「六十二」
ユーノが控えへ書き込む。フィオナはもう一冊の台帳を開き、番号を照らした。引渡し控えそのものはここにはないが、控えを送り出した先を記す索引が残っている。
「北門検札所」
尽は顔を上げた。昨日の一年生が、北の林道を通れず遠回りしたと言っていた。風見塔からの荷が、その道へ向かったのか。
索引の文面は短い。〈第六二号 北門検札所へ照会。原控え、港仲介商会保管〉。荷を北門へ運んだとは書かれていない。
「照会しただけかもしれません」
尽は口にしかけた言葉を引っ込めた。
「そうです。検札所へ何を尋ねたのか、この索引からは読めません」
フィオナは頷く。
ペペが机の端に、昨日の紙舟の図を描いた。港、商会、風見塔。北門の名をその先へ書き足しかけ、指を止める。
「矢印、まだ引けないな」
「照会の線だけなら引けます」
ユーノは北門と風見塔の間に細い点線を引いた。ペペはそれを見て、鼻を鳴らす。
「目立たない線」
「今はそれで十分です」
フィオナは修補前の写しを記録室で複製すると約束した。番号が分かったので、港へ出した照会には追記できる。北門検札所にも、学院から別に問い合わせるという。
「僕たちも北門へ行けますか」
尽が尋ねると、セレーネの手が台帳の上で止まった。
「今は行きません」
フィオナが先に答えた。
「林道は閉鎖中です。学院の研究許可は、通行許可ではありません。検札所の記録は、守備隊がこちらへ送れます」
「分かりました」
尽は椅子へ座り直した。森で罠にかかったときの、濡れた糸の感触が指に残っている気がする。あの場所まで急げば何か見つかるのでは、と考えたのはほんの一瞬だった。
窓の方で、ペペが小さく「あ」と言った。手首を離れた緑糸が、いつの間にか彼の髪に結びついている。
「引っ張らないで」
エルナが椅子を寄せ、結び目をほどいた。ペペはじっとしているつもりで何度も首を動かし、リゼッタに額を押さえられる。
「今度こそ、僕が木に返されるのかと思った」
「原料の木は乾燥室にあります。そんな遠くまで歩かせません」
エルナは最後の輪を外し、糸を木枠へ戻した。端だけが少し撚れている。
夕方、尽は第六二号を観察日誌へ書いた。その下に、北門検札所へ何を照会したのか未確認、と添える。机の向かいでセレーネは学院の地図を畳み、立入禁止の赤い線が入った北の林道を、折り目の内側へしまった。




