第百三十六話 道案内は一人ずつ
「先生、風の教室はどちらですか」
朝の渡り廊下で、尽は知らない一年生に袖を引かれた。片手に新しい教科書、もう片方の手に、寮で受け取ったばかりらしい丸いパンを持っている。
「僕は先生じゃないよ」
尽が胸の札を見せると、一年生は首を傾げた。
「外来研究生。研究って書いてあるから」
「最後に生がつく」
後ろからユーノが言った。
その子は慌てて頭を下げた。尽は笑って、教科書の表紙を確かめる。基礎風術。場所なら昨日、紙舟を流した水路の向こうだ。
「そこへ行く途中だから、一緒に歩こう」
「助かります。北の林道が使えなくて、昨日は暗くなってから寮に着いたんです」
森の道の話に尽は少しだけ足を止めたが、一年生はパンの包みを直すのに忙しい。今朝は初めての授業に遅れないことで頭がいっぱいなのだろう。
セレーネとリゼッタも合流し、五人で廊下の案内札を見た。葉の形をした矢印が、右へ向いている。
「こっちね」
リゼッタが先に曲がる。すぐにペペが工具箱を抱えて追いついた。
「工房、今日は左じゃなかった?」
葉の矢印がくるりと回り、左へ向いた。
「ほら」
「今、変わった」
ユーノが指すと、矢印は右へ戻る。次に、焼きたてのパンの匂いが流れてきた。案内札は廊下の奥にある食堂を指した。
一年生は自分の手の中のパンを見下ろす。
「僕のせいですか」
「お腹がすいてる?」
セレーネが尋ねた。
「少し。でも、ちゃんと持ってます」
その返事を聞いた途端、矢印は食堂から基礎風術室の方へ戻った。ペペが工房を思い出すとまた左を向く。尽はようやく、この札が集団の行き先を決めてくれるわけではないと気づいた。
「ペペ、先に行って」
「僕がいなくなれば直る?」
「たぶん。道は知ってるし」
ペペは不服そうに左へ曲がった。矢印は彼を追いかけ、角を過ぎたところで止まる。ところが次は、一年生の足元でパンの包みが鳴っただけで、また食堂へ向いてしまった。
「食べながら歩くの、だめですか」
「食べてから行きましょう」
セレーネは窓辺の長椅子を指した。一年生は二口でパンを食べた。急ぎすぎて頬が膨らみ、リゼッタから水筒を渡される。
「鐘まではまだ少しあるわ」
尽は案内札の下に刻まれた小さな文字を読んだ。〈行き先を一つ、声に出して〉。四人とも、そんな決まりを気にしたことがなかった。普段は一人で通る廊下だったからだ。
「基礎風術室」
一年生がはっきり言うと、矢印が右へ向いた。
「よし。誰もほかの場所を考えないで」
「それは難しいです」
ユーノが言った。
「昨日の清書に、抜けがあったかどうか考えていました」
「考えるだけなら、矢印は動かないみたい」
セレーネが笑う。
水路を渡ったところで、一年生はようやく教室の戸を見つけた。戸口にはローデンが立っている。
「案内役が四人も?」
「途中で道が変わったので」
尽が答えると、ローデンは廊下の案内札を振り返った。
「あれは昨日、初等部から移した。話しかけた人ごとに向きを変える。誰か、説明札を付け忘れたな」
「下に書いてありました」
ユーノが言う。
「小さすぎます」
ローデンはしゃがんで文字を見た。
「本当だ。私も読めない」
一年生が吹き出した。教室へ入る前に、ローデンはその子の教科書を受け取り、名簿に印を付ける。
「初日から道を覚えたな」
「たぶん」
「帰りは?」
一年生の顔が曇った。尽が寮までの曲がり角を紙に描こうとすると、セレーネが先に言う。
「授業が終わるころ、この廊下を通るよ。寮の方へ行くなら一緒に帰ろう」
「ありがとうございます、先輩」
教室の中から呼ばれ、一年生は振り返りながら駆けていった。
「先輩だって」
リゼッタが尽を見た。
「僕はまだ、ここの道で迷うのに」
「それは一か月経っても変わらないわね」
彼らは次の授業へ向かった。エルナの資料保全会では、補修用の糸を染める実習が待っている。原簿の継ぎ目を傷めず調べるには、まず布の種類を覚える必要があると、昨夜フィオナから聞いたばかりだった。
午後、出し終えた照会状の控えが四人の机へ届いた。港の商会へは引渡し控えの所在を、ソラヴェインへは風見塔側の受領記録を尋ねてある。いずれも学院名で送り、返答先はフィオナの記録室だった。
尽は控えを観察日誌へ挟み、乾きかけた風苔の鉢に水を足した。窓の外を、朝の一年生がセレーネと歩いていく。今度は案内札に頼らず、水路の橋を渡れたらしい。
その後ろからペペが走ってきた。工房へ置き忘れた工具箱を抱え、矢印の前で立ち止まる。
「寮!」
葉の矢印は素直に寮を指した。ペペは少し得意そうな顔で、二人を追いかけた。




