第百三十四話 風見塔の次に届いたもの
保管庫へ下りる前に、ペペは胸元の花を布で覆った。
「名前が読めません」
入口にいたエルナが言う。
「読めると困る。花粉が落ちるんだ」
「名札は外してください。研究生の札を見せれば入れます」
ペペは肩を落とし、花の咲いた紙をフィオナへ預けた。フィオナはそれを封筒に入れようとして、花がまだ開きかけているのに気づき、窓辺の受け皿へ置いた。
「戻るまでに八つ目が咲きそうです」
「数えないでください」
階段の下はひんやりしていた。セレーネも立会人として同行するが、原簿に触れるのはフィオナだけ。四人とエルナは卓を囲み、手元の写しへ気づいたことを書き込む。ミレイアは温室から来た古い貸出札を持参していた。
「これが棚に残っていた半分。返却のとき剥がす決まりだった札よ」
木札の切れ目は少し毛羽立ち、文字の最後の一画がそこで途切れている。尽は以前この棚を見た日のことを思い出した。黒針の術式保護材を借りた記録。王子が研究会を再編するより前の、二年前の貸出だった。
フィオナが革表紙の原簿を開く。ページの間には細い布の帯が挟まれ、年月ごとに色が違う。エルナが机上の重しを二つ寄せると、紙はようやく平らになった。
「まず日付を」
ユーノは手元の写しと見比べた。
「同じです。研究会名義の貸出は二年前。旧同好会名義の頁は、さらに前です」
「印も同じ?」
リゼッタが聞く。
「形は似ています。ただ、古い方は中央に点がある」
フィオナが二つの印に薄い鏡板をかざした。ユーノの言った点は、小さな針穴のように見える。後の研究会印にはない。
「印章を作り直した可能性があります。引き継いだとも、似せたとも、この二つからは決められません」
エルナはそれぞれの輪郭を別々の紙へ写した。ペペは覗き込み、二枚を重ねようとして手を止める。昨日の授業で紙を擦った者は、今日は手が慎重だった。
港の仲介商会の欄へ移る。写しでは黒い四角に潰れていた印が、原簿には細い枠として残っていた。枠の中には三本の波線がある。その横に、さらに小さな一字。
「『継』」
セレーネが読んだ。
「港で受け取り、次へ継ぎ渡すときの印です」
「じゃあ、商会が買ったわけじゃないのか」
ペペが言う。
「少なくとも、この欄は購入者を記す場所ではありません」
フィオナは原簿の上端を指した。〈仲介搬送〉とある。三本の波線は、風見塔の荷札にも森の網にもついていた。尽は同じ形を思い浮かべたが、今目の前にあるのは、荷物を一度預かった者の印だった。
「受取人はどこに書くんですか」
「次の頁です」
フィオナが頁をめくる。紙の継ぎ目に、小さな布片が挟まっていた。帳簿を補修するときに綴じ直した跡らしい。風見塔の名が載った行はすぐ見つかった。
〈風見塔預け 保護材十二瓶〉
その右に、細い線で消された時刻と、翌朝の時刻が書き足されている。前の時刻の下には、塔の番人が使う四角い受領印があった。
「塔へ届いたのは確かね」
リゼッタが言った。
「でも、翌朝の時刻は?」
フィオナは線をたどった。頁の外側に小さく〈引渡し控え別綴〉とある。綴りの番号は、補修布の下へ続いて読めない。
「控えの番号が隠れています。布を剥がす許可は、今日の立会いには含まれていません」
ペペが口を開きかける前に、エルナが言った。
「重しを外して光を当てても、布の下は見えません。私も試したことがあります」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてありました」
尽は写しの余白へ、塔が最終の届け先とは限らない、と書いた。次に、線で消した。原簿から読めるのは、塔に預けられ、翌朝の引渡し控えが別に作られたことまでだ。誰が受け取ったかも、何瓶だったかも、この頁にはない。
「僕らが森で見た箱と繋ぐには、その控えが要る」
「そうね」
リゼッタが頷く。
昼前、フィオナは原簿を閉じ、照合結果を全員に読み上げた。古い同好会印と後の研究会印には形の違いがある。港の三本波線は仲介搬送の印。風見塔に十二瓶が預けられ、翌朝の引渡し控えが別にある。控えの番号は、補修布に隠れている。
「異議はありますか」
ユーノが一か所だけ訂正を求めた。
「『十二瓶が翌朝引き渡された』とは書かないでください。十二瓶は塔へ預けた数です」
フィオナはその場で文章を直した。
「助かります」
ペペはユーノの肩を小突く。
「授業のときより怖い」
「帳簿の方が怖いです」
階段を上がると、窓辺の受け皿に紫の花が一つ増えていた。ペペは名札を受け取り、九つあるのを数えて立ち尽くす。
「八つ目はいつ」
「さあ」
フィオナは原簿の補修記録を取りに行く前に足を止めた。
「控えの所在は、学院から港の商会とソラヴェインへ照会します。布を外すかどうかも、保存担当と相談します」
「僕たちは?」
尽が聞いた。
「今日の記録を清書してください。午後の授業には間に合います」
ペペは名札を見下ろした。
「これで授業に出たら、また名前を覚えられる」
「もう覚えられてるよ」
セレーネが言う。
その日の清書では、尽は消した一文を戻さなかった。風見塔から先の欄を空け、そこに小さく〈引渡し控え待ち〉と書いた。




