第百三十二話 名前を食べる紙
外来研究生になって最初の朝、ペペの机から名札が消えた。
「昨日、ここへ置いた」
本人は机の上に両手を広げた。工具箱、授業用の筆、朝食で残した木の実の殻はある。名札だけがない。
「首から下げているのは?」
ユーノが指した。
「これは研究生の札。探してるのは今日の授業で使う、名前を書く小さいやつ」
授業は古文書の保存実習だった。各自、貸し出された紙箱に自分の名札を添える。失くせば箱を受け取れないと、昨夜の連絡板には書かれていた。
リゼッタが机の裏をのぞいた。尽は椅子をどける。セレーネが開けた窓から、昨夜の雨を含んだ葉の匂いが入ってきた。
「ペペ、ここ」
彼女が指したのは扉の脇だった。新しい札を見せたときに伸びてきた枝が、細い紙片を挟んでいる。
「返して。出席がかかってる」
枝は揺れたが、離さない。
ペペが工具箱から小さなねじ回しを出すと、枝は紙片をさらに上へ持ち上げた。
「脅すからよ」
リゼッタが言った。
「脅してない。説得用の道具を出しただけ」
「しまって」
ペペはねじ回しを戻した。代わりに昨日拾った葉を枝のそばへ差し出す。枝先が葉に触れ、名札が床へ落ちた。
拾い上げたペペが黙る。紙には、昨夜まで確かにあったはずの「ペペ」の二文字がなかった。
教室でその話を聞いたフィオナは、名札を窓に透かした。
「字を消したのは木ではありません。この紙ですね」
保存実習用の机には、木の繊維を漉き込んだ紙、薄い石粉を塗った紙、海草から作った透明な膜が並んでいた。フィオナはペペの名札を一番左の見本と重ねる。
「昨夜、湿った場所に置きましたか」
「机の上。窓の下だけど」
「雨が入りましたね。消える墨で書く札です。名前を何度も書き替えて使います」
「じゃあ、木は犯人じゃない?」
「乾かしてくれたのかもしれません」
ペペは名札と、廊下の方を交互に見た。
「あとで礼を言う」
「ねじ回しを見せたことも謝って」
リゼッタが付け加えた。
全員に紙箱が配られた。中には百年以上前の授業記録を写した練習用の帳面が入っている。今日の課題は、どの行が後から書き足されたかを見つけ、そう判断した理由まで記すことだった。
「色の濃いところ」
ペペが最初に指した行は、紙の裏から別の字が透けていただけだった。
「これは裏のページ」
ミオが箱を傾けて見せる。
「じゃあ、こっち。字が斜めだ」
「書いた人の癖だよ。上の行も同じ傾き」
ナナが言った。ペペは二度目の答えを消し、今度は箱そのものを疑い始めた。
尽の隣では、セレーネが帳面の端を注意深く持っている。尽は灯りにかざす角度を変え、ある行だけ文字の間に細かな砂が残っているのに気づいた。
「これ、消した跡ですか」
フィオナが来て、紙を傷めないよう下から薄い板を差し入れた。
「よく見つけました。ただ、何が消されたかは分かりません。上から書かれた字も、消した人が書いたとは限らない」
尽は解答欄に書きかけた「改竄」の字を消した。「削られた痕がある」と書き直す。
前の席でリュオが手を上げた。彼の帳面には、見事にまっすぐな一列がある。定規で引いたような字だ。
「ここが書き足しだと思います」
「理由は?」
「ほかの行より上手です」
教室のあちこちで笑いが起きた。リュオはむっとしたが、フィオナはその列を指で追う。
「観察としては悪くありません。紙の継ぎ目で筆圧が変わっている。そこも見てください」
リュオは笑った生徒たちの方をちらりと見て、急いで答えを直した。
休み時間、ペペは名札に新しい字を書いた。今度は消えない墨を選んだつもりだったが、ナナが横から瓶の底を見せる。
「それ、雨に当たると花が咲くやつ」
「なんで保存実習の教室にそんな墨があるの」
「記念日に使うから」
ペペは筆を止めた。自分の名前の「ペ」の丸い部分から、小さな紫の花が開いている。二文字目にはまだつぼみが三つあった。
「それで出席を取ったら、先生が覚えてくれるわ」
リゼッタが言う。
「嫌な覚えられ方だな」
午後、フィオナは四人とセレーネを記録室へ呼んだ。地下保管庫ではない。窓のある閲覧室で、机上には港の仲介商会から送られた貸出記録の写しだけが置かれていた。
「原簿の照合は二日後です。それまで、どの箇所を確かめるか決めてください」
フィオナは写しの右端にある小さな四角を示した。数字のようにも、擦れた印のようにも見える。
「写しでは読めません。原簿に残る紙の継ぎ目と、押印の位置を確認します」
ユーノが古い同好会名義の行を指し、リゼッタがその下の研究会名義の行に印を付けた。日付は連続していない。間に何があったかは、この一枚からは分からなかった。
「名前だけで同じ団体にしない。朝の授業みたいに、見えたことを先に書く」
尽が言うと、ペペは自分の解答用紙を折って隠した。
「一時間目の僕には言わないで」
「三回目は当たってたわよ」
セレーネが笑う。
「何を当てたの?」
「箱の裏に先生の名前が書いてあった。百年前の帳面じゃなくて、先週貼った管理札」
ペペはますます紙を奥へしまった。
閲覧室を出たとき、雨はもう上がっていた。ペペは寮の枝に名札を見せ、「朝は悪かった」と小声で言った。枝先が一度だけ紙に触れた。
翌朝までに紫の花がどこまで増えるか、誰も知らない。




