第百二十六話 森道の標札は、昨日の向きを覚えていた
研修の中間評価を終えた翌朝、尽たちは森道案内部の実地訓練に参加した。
目的は、学院の外にある道標を確かめ、古くなった札を交換すること。同行するのはセレーネ、イリヤ、ミオ、リュオ、それに一年生が三人。ミレイアも植物の確認役としてついてくる。
「今日は道に迷う実習ではありません」
イリヤが出発前に言った。
「迷わないための実習です」
「迷ったら?」
ペペが聞く。
「地図を見る」
「地図が違っていたら」
「道標を見る」
「道標も違っていたら」
「立ち止まって、案内役を呼ぶ」
ペペは頷いた。
「今日は忙しそうだ」
外周を抜けて森道へ入ると、学院の音が遠くなった。枝の間に朝の霧が残り、道の両側では小さな花が水滴を抱えている。ミオは上空を確かめ、リュオは地図を持った。尽たちは新しい道標と記録札を運ぶ。
最初の札は、歌う泉へ向かう分かれ道に立っていた。木の板は傾き、右と左を示す矢印が反対を向いている。
「これ、昨日からこうだったのかな」
尽が聞く。
「昨日は正しかった」
イリヤが答える。
「木が回したの?」
「根が伸びて、押したのかもしれません」
セレーネは札の根元を確認した。
ペペが新しい支柱を持ち上げる。
「向きを直せばいい?」
「先に、根がどちらへ伸びているか見てください」
ミレイアが言う。
札の根元から、細い根が板の下を通っていた。支柱を抜けば根を傷つける。セレーネは地面へ膝をつき、根の通り道を指で示す。
「札を半歩ずらして、向きを戻しましょう」
尽が風で落ち葉を払う。ペペは新しい杭を打ち、ミオが上から角度を見た。リュオは道標の高さを測り、子どもでも読める位置か確かめる。
「これでいい」
イリヤが頷いた。
新しい札には、道の名前だけでなく、次の分かれ道までの時間も書き足した。歌う泉までは一刻。途中に水飲み場がある。泉の歌を最後まで聞くこと。
「最後の注意は必要ですか」
ユーノが聞く。
「前の札にも書いてありました」
セレーネは答えた。
「消すと、泉が気にするかもしれません」
二つ目の道標は、低い枝の下に隠れていた。枝が伸びて、板の文字を覆っている。ミオは飛んで枝を持ち上げ、リゼッタが剪定鋏を使った。切るのは道へ出た小枝だけ。根元へ近い枝は残す。
「この枝、風苔みたい」
ナナが言った。
「風苔は苔です」
ユーノが返す。
「でも、風で葉が動く」
「枝も動きます」
「じゃあ、枝魚」
ユーノは返事をしなかった。
昼前、道標の確認を終えた一行は小さな広場で休憩した。低学年の一人が、腰の袋から焼き菓子を出す。包みを開けたところで、森の小鳥が近くの枝へ降りてきた。
「あげてもいい?」
「人の食べ物はあげない」
イリヤがすぐ止めた。
小鳥は菓子を見つめ、首を傾けた。ペペは自分の弁当を守るように抱えた。
「あの鳥、僕の方を見てる」
「食べ物を持っているからです」
セレーネが言う。
「分けたら駄目?」
「森の生き物が人の食べ物を覚えると、道へ集まるようになります」
低学年の子は菓子をしまった。代わりに、ミオが木の実を探し、落ちていたものを一つ遠くへ投げる。小鳥はそちらへ飛んでいった。
「それならいいの?」
「木から落ちた実です。鳥が食べるものです」
「よかった。僕の弁当は無事」
ペペは胸を撫で下ろした。
午後の道標は、古い木橋の手前にあった。板は割れてはいないが、文字が雨で薄くなっている。イリヤが新しい案内札を出す間、尽は周囲の風向きを確かめた。橋の向こうから、弱い風が吹いている。
風向記録器の針は北東を向き、すぐ中央へ戻った。
「短い」
ペペが言う。
「道の形で変わっただけかもしれない」
尽は時刻と場所を書き、記録器をしまった。
新しい札には、橋の傷みと迂回路の案内も記された。リュオは札の文字を読み上げ、低学年の子たちに分かるか聞いた。
「迂回路って、遠回り?」
「橋を渡らずに行ける道です」
セレーネが説明する。
「遠回りだけど、安全」
「じゃあ、急いでいる時は」
「橋の状態を案内役に聞く」
リュオは自分で札へ一行加えた。
〈橋を渡る前に、案内係へ確認すること〉
帰り道、最初に直した道標の前を通った。板は正しい方向を指している。ところが少し風が吹くと、矢印がかすかに揺れた。
「また回る?」
ペペが近づく。
「支柱は大丈夫です」
尽が風を止めずに観察した。札は風を受けて揺れただけだった。根も新しい杭も動いていない。
「問題なし」
彼は記録札へ書いた。
「揺れただけで、向きは変わっていません」
「道標も風苔みたいに、風を受けているんですね」
セレーネが言った。
「でも、魚ではありません」
ユーノが念を押す。
学院へ戻ると、森道案内部は記録を地図へ反映した。札の位置、根の向き、橋の迂回路、休憩場所。尽たちは新しい記録を清書し、イリヤへ渡す。
「次に森へ来る人が、同じ場所で迷わずに済みます」
イリヤは地図を巻いた。
「道は、歩いた人が少しずつ直すものです」
夕方、ペペは寮へ戻る前に風向記録器を確かめた。紙には森で測った短い北東の線が残っている。
「温室の風と同じかな」
「まだ分からない」
尽は答えた。
「場所と時刻が違う。記録はフィオナさんへ渡して、比べてもらおう」
ペペは紙を折らず、観察日誌へ挟んだ。
その日の森道案内は、誰も迷わず終わった。帰りの点呼で、リュオは七人の名前を二度数えた。
「一度でいいよ」
ミオが言う。
「靴も全員分ある」
リュオは、最後に自分の足元を確かめた。




