第百十七話 温室公開日は、説明より先に鉢が走った
精霊学院の温室公開日は、低学年の学生が植物を見学できる日だった。
ミレイアは朝から札を並べ、入口に注意書きを貼っていた。
〈鉢に触れる前に、係の学生へ聞くこと〉
〈光る茸を食べないこと〉
〈走らないこと〉
「三つ目は、植物のためですか」
ユーノが尋ねる。
「見学者のためです」
ミレイアは答えた。
尽たちは公開日の案内係を手伝うことになった。セレーネとミオは入り口で班を誘導し、ユーノは植物の説明札を確認する。ナナは風苔の鉢の横に立ち、ペペは通路の柵を点検した。リゼッタは案内札の配置を見て回り、尽は風向記録器を持って温室の中央にいた。
「今日は鳴らないといいですね」
ユーノが言う。
「鳴ったら記録する」
ペペは記録器の脚を触り、滑り止め板があることを確かめた。
開門と同時に、低学年の子どもたちが列になって入ってきた。先頭の子は、入口の札を全部読み終える前に、赤い実のなる蔓へ向かって走り出す。
「走らない」
ミレイアの声が温室に響く。
子どもは止まった。背中の小さな翼が勢いで一度だけ開く。
「あの実、食べられる?」
「係の人に聞いてから」
セレーネが答える。
「これは展示用です。食べられる種類もありますが、似ている実が多いので、見分けるまでは口に入れません」
子どもは少し残念そうに頷き、セレーネの隣へ並んだ。
温室の中には、夜だけ花を開く蔓や、音に合わせて葉を閉じる草が並んでいた。ナナは青い火を小さくして、風苔の葉が開くところを見せる。
「風が来ると、魚みたいに泳ぐの」
「苔は泳ぎません」
ユーノが説明札を直した。
「でも、魚に見える」
ナナは札の裏へ、青い魚を一匹描いた。
見学の子どもたちは、風苔の鉢の前で順番に手をかざした。強く吹きすぎて葉を丸めた子には、尽が風の作り方を教える。
「手のひらを少しだけ開いて。息を吹くより、風が通る場所を作る感じ」
小さな風が苔を揺らし、葉先がゆっくり開いた。
「できた」
その子は嬉しそうに笑った。
別の場所では、ペペが柵の前で立ち止まっていた。柵の留め金が緩み、子どもが押せば開きそうになっている。
「ここ、直す」
彼は工具を取り出し、工房研究会で作った簡単な留め具を取り付けた。
「すぐ直った」
見学の子が言う。
「見つけるのが早かったから」
ペペは工具をしまった。
「家でも直すの?」
「直すよ。壊れた物は、だいたい直せる」
「友達も?」
ペペは少し考えた。
「友達は壊れないと思う」
「でも喧嘩したら」
「話す」
子どもは納得したように頷いた。
ミオは高い棚の植物を案内していた。翼を広げて鉢の高さまで上がり、葉の裏側を見せる。子どもたちが真似しようとして、何人かがその場で跳ねた。
「飛べない人は、階段を使うよ」
「飛べたら早いのに」
「早くても、鉢を落としたら遅くなる」
ミオは、先日の配達部で聞いた言葉を使った。尽は離れた場所でそれを聞き、少し笑った。
昼前、公開日の一番人気は、花の香りを色に変える水盤になった。リゼッタが会計班の見学で覚えた方法を使い、材料費と手入れ当番の札を並べている。
「香りは無料です」
彼女が説明する。
「でも、花を持ち帰るのは有料?」
「持ち帰りは禁止です」
「じゃあ、何にお金を払うの」
「温室の鉢を増やすための寄付です」
子どもは硬貨を一枚、寄付箱へ入れた。
「お花が増えるなら」
「ありがとう」
リゼッタは帳面に金額を書いた。
その時、温室の奥で鉢が動いた。
小さな根菜の鉢が、通路の真ん中へゆっくり進んでいる。見学者たちがざわめいた。
「走らないで」
ミレイアがすぐ声をかける。
鉢の底には、車輪など付いていない。ペペが留め具を持ったまま近づき、尽は風向記録器を見る。針は南を指していた。温室の上部から、細い風が流れている。
「風で動いてる?」
セレーネが聞く。
「鉢の底が滑っているみたい」
ペペは床を確かめる。
鉢は少しずつ曲がり、子どもの列へ向かった。尽は風を強く当てず、横からそっと押し返す。ミオが上の葉を押さえ、リゼッタは通路の子どもたちを一歩下がらせる。
「鉢の前を空けてください」
セレーネが案内する。
ユーノは鉢の底へ紙片を差し入れた。底に絡んだ根が、床の木目へ沿って動いている。
「水路の方へ向かっています」
「水が欲しいのかな」
ナナが言う。
「鉢の土は乾いています」
ユーノが答えた。
ペペが水差しを持ってきた。ミレイアが量を確認し、鉢の根元へ決められた分だけ注ぐ。根はぴたりと止まった。
見学の子どもたちから、小さな拍手が起きた。
「植物は、歩くことがあるんですか」
一人が聞いた。
「種類によります」
ミレイアが答える。
「だから、勝手に引っ張らず、係の人を呼びます」
温室公開日は予定より少し遅れて終わった。見学者が帰った後、案内係の六人は椅子へ座り込み、ミレイアから温かい飲み物を受け取った。
「鉢が走ったのは、風向記録器に残った?」
セレーネが聞く。
「残ってる。南からの風だった」
尽は紙を見せた。
「温室の通気路の記録とは別です。今日は鉢が動いた時間と、風の向きを一緒に書いておきます」
「記録官へ渡しますか」
「鉢が止まった理由も書いてから」
ユーノが言った。
ペペは工具箱を閉め、満足そうに伸びをした。
「今日は釘も飛ばなかった」
「鉢は動いたけれど」
リゼッタが言う。
「鉢は飛んでない」
その日の観察日誌には、風向、鉢の移動、土の乾き、水を与えた量が並んだ。最後にナナが、動いた鉢の横へ小さな魚を描いた。
ユーノはその絵を見て、今回は消さなかった。




