第百十六話 木の実粥は、火加減より相談が長かった
風向記録器の紙は、朝一番にフィオナへ渡した。
尽は配達札の写しも添え、封筒が落ちた時刻と場所を説明した。記録器は北東を指したが、配達中の風は橋の上から吹き抜けていた。温室から来たと決めるには、まだ材料が足りない。
「この記録は、授業の線と分けて保管します」
フィオナが言った。
「場所も高さも違います。同じ風だったと扱うのは、もう少し待ちましょう」
「はい」
ペペは記録器を机へ置き、針が動かないことを確かめた。
「今日は静か」
「授業中に鳴らないといいですね」
「鳴らない方がいいの?」
「先生の話を聞けます」
フィオナは封筒を閉じ、配達記録と一緒に棚へ収めた。
午前の授業は、寮の食堂で行われる調理実習だった。精霊学院では、薬草や根菜の扱いも学ぶ。ミレイアは学生たちを大きな調理台の前へ集め、今日の課題を書いた。
〈木の実粥を作る。焦がさず、鍋から逃がさず、全員で味を整える〉
「鍋から逃げるんですか」
ユーノが聞く。
「この鍋は、火が強いと歩きます」
サラナ寮監が答えた。
ペペは鍋の脚を確かめた。四本とも床についている。ところが火を入れる前から、鍋は少しずつ調理台の端へ寄っていた。
「脚が短いのかな」
「鍋が緊張しているのです」
セレーネが言う。
「鍋も?」
ナナが鍋へ手を振った。
「大丈夫。おいしくなるよ」
鍋は一度だけ、こつんと鳴った。
班ごとに材料が配られた。木の実、乾燥した夕暮れ草、根菜、塩、それに小瓶の甘い蜜。リゼッタが材料の量を帳面へ書き、ユーノは手順を読み上げる。ペペは鍋の下へ滑り止めの板を入れ、ミオは換気窓の近くへ立った。
「風が強くなったら教えて」
尽が頼む。
「鍋が飛んだら先に教える」
「飛ぶ予定はないよ」
火を入れると、鍋はすぐに動き出した。
最初は小さく左右へ揺れるだけだった。根菜を入れた途端、ふたが跳ね、鍋が調理台の上を数寸進む。
「押さえます」
ペペが取っ手を掴む。
「素手で?」
リゼッタが聞く。
「熱くない」
「鍋が逃げる理由は、熱さではないのかも」
セレーネが木の実を一つずつ入れた。鍋の揺れが少し収まる。ナナは夕暮れ草を細かく砕き、青い火で乾いた葉を温めて香りを出した。
「火を近づけすぎないで」
ミレイアが言う。
「大丈夫。今日は鍋を焼かない」
リゼッタは炉の火を見た。
「鍋は焼いてもいいけれど、粥は焦がさない」
「どちらも焼かないでください」
ユーノが鍋の中を木べらで混ぜる。粥はとろみを増し、木の実がゆっくり回り始めた。ミオが窓から入る風を翼で弱め、尽は鍋の周りに空気の輪を作って、湯気が一方向へ流れるよう整える。
「もう少し塩」
リゼッタが言う。
「蜜を先に入れます」
セレーネが答える。
「塩が先」
「甘さを見てから」
「塩を入れないと味が決まらないわ」
鍋が、調理台の端へまた少し進んだ。
「二人とも、鍋が逃げてる」
ペペが言った。
皆が手を止める。鍋は確かに、先ほどより端へ寄っている。底の滑り止め板は動いていない。鍋の脚が、台の木目に沿って少しずつ歩いていた。
「相談が長いから?」
ナナが聞く。
「鍋に聞いてみます」
セレーネは木べらを持ち、粥を一度だけ混ぜた。
「塩を少し。蜜は最後に」
リゼッタは一拍おいて頷く。
「それでいきましょう」
鍋の脚が止まった。
ミレイアは何も言わず、学生たちの記録札へ小さな印をつけた。
「今、鍋が聞いていたのかな」
ペペが囁く。
「たまたまです」
ユーノは答える。
「たまたまでも、記録には書く」
尽が言った。
粥が出来上がると、班ごとに味見をした。ナナの青い火で香りを移した夕暮れ草が、木の実の甘さを少し引き締めている。リゼッタは塩加減を確かめ、セレーネは最後に蜜を一滴だけ落とした。
「おいしい」
ミオが言う。
「鍋が逃げなかったから」
ペペは胸を張った。
「押さえていたのはあなたです」
ユーノが言う。
「僕が押さえたから逃げなかった」
「相談が終わったからでしょう」
セレーネは鍋の取っ手を撫でた。
「どちらもです」
寮生たちは昼食に粥を分け合った。鍋が歩く班もあれば、ふたが歌い出す班もあり、食堂の床には片付け用の布が何枚も並んだ。サラナ寮監は床を拭きながら、次回は「歩かない鍋の使い方」を授業に追加すると決めた。
午後、尽たちは調理実習の記録を提出した。鍋が動き出した時刻、材料を加えた順、火の強さ、鍋が止まった時のやり取り。フィオナは記録を受け取ると、最後の欄を指した。
「『鍋が相談を聞いた可能性』」
「観察したことです」
ユーノは言った。
「断定はしていません」
フィオナは少し考え、紙を返した。
「なら、そのまま残しましょう」
夕方、風苔の葉は窓の外から入る弱い風に揺れていた。隣に置いた記録器の針は動かない。
ペペは鍋の実習で余った滑り止め板を、記録器の下へ敷いた。
「これで、風がなくても動かない」
「鍋とは違うのよね」
リゼッタが言う。
「試してみないと分からない」
彼が記録器へ息を吹きかけると、針は北東へ少しだけ動いた。板は机に留まり、記録器は静かに紙へ線を引いた。




