第百十一話 風苔の競走会は、魚なのに走らなかった
風苔の観察が始まって十日目、ミレイアは突然、教室の机を全部端へ寄せた。
空いた床へ細い木の板を並べ、曲がりくねった道を作る。途中には小さな橋、背の低い壁、水を張った皿まで置かれていた。
「今日は競走会です」
ミレイアが言う。
学生たちは一度、風苔の鉢を見た。
「苔が?」
ミオが聞く。
「苔が」
「走る?」
「走りません」
ミレイアは答えた。
「だから、走らせるのではなく、苔に合う風を見つけます。鉢を揺らさず、葉を傷めず、決められた場所まで移動させる。速さと、苔の状態で点を付ける」
ペペが風苔の札を見た。
〈風苔 別名:魚〉
「魚なのに走らない」
「苔ですから」
ユーノはいつものように言った。
班ごとに風苔の鉢を一つずつ借りる。尽たちの鉢は、夜市の後から育てている小さなものだった。葉は薄青く、風が強いとすぐ丸く縮む。
スタート地点の前で、ペペが工房の風向記録器を取り出した。
「これ、使っていい?」
ミレイアは見たことのない道具を眺めた。
「自作ですか」
「工房研究会と一緒に」
「釘は飛びませんか」
「飛ばない」
ペペは少しだけ自信なさそうに答えた。
記録器を床の近くへ置くと、針が教室の窓を指した。今日は南から弱い風が入っている。尽が掌で少し風を足すと、針は東へずれた。
「橋の手前は、風を弱く」
ユーノが地図へ書く。
「水皿の前は、ミオが羽で上から押さえる」
「鉢の後ろから押すの?」
ミオが聞く。
「横から」
「細かい」
「苔が水へ落ちます」
リゼッタは、鉢の底へ小さな滑り台を付けていた。
「これなら、少ない風でも進む」
「燃えない?」
ペペが聞く。
「燃やす理由がないでしょう」
ナナは鉢の前に、青い小旗を立てた。
「魚の道」
「苔の道」
尽とユーノの声が重なった。
最初の班は、風を強くしすぎて鉢を壁へぶつけた。二番目の班は、苔を守ろうとして全く動かない。教室のあちこちで、小さな風と悲鳴が起きる。
「葉が閉じた」
「開くまで待つ」
「時間が」
「待つ」
ミレイアは椅子へ座り、記録板へ何か書いていた。
尽たちの番になった。
ペペが鉢の後ろに滑り台を置く。ミオが橋の向こうへ立ち、翼を少しだけ開く。ナナは旗を持ち、風の向きが変わったら色で知らせる役だ。セレーネは鉢の葉を見て、尽へ頷いた。
「今なら大丈夫です」
尽は床すれすれに風を流した。
鉢が、ゆっくり進む。
最初の曲がり角は順調だった。滑り台の下を風が抜け、鉢が木の板の上を滑る。二つ目の角で、窓から強い風が入った。風苔の葉が丸まり始める。
「青」
ナナが旗を振る。
ミオが翼を広げ、窓からの風を受け止めた。尽は自分の風を弱くし、鉢の横へ回す。鉢は止まったが、葉は閉じきらなかった。
「次、橋」
ユーノが言う。
橋は板一枚分の細さしかない。ペペの滑り台が少しでもずれれば、鉢は横へ落ちる。リゼッタが指先に火をともす。
「何をするの」
尽が聞く。
「板の端を温めて、滑りを良くする」
「苔は」
「鉢の底だけ」
火は本当に小さかった。板の表面が少し乾き、鉢は橋の上を滑る。ミオが風を止め、尽が後ろから押す。
橋を渡り切った瞬間、教室の外から別の風が吹いた。
工房の記録器の針が、急に北東へ振れた。
誰も窓を開けていない。なのに床の上の紙が一枚、温室の方角へ滑る。
風苔の葉が、一斉に東を向いた。
「今は、競走会」
セレーネが小さく言った。
尽は頷いた。気になる。けれど鉢はまだ道の途中だ。
「続けよう」
最後の水皿の前で、ナナが旗を金色へ変えた。
「魚、泳ぐ」
尽が風を水面の上へ流す。水は揺れるだけで、鉢には届かない。ペペが滑り台の角度を少し変え、鉢は水皿の縁をゆっくり回った。
ゴールの札に触れた時、教室から拍手が起きた。
尽たちは一番速くはなかった。葉が一枚だけ縮んでいたため、点も満点ではない。
「三位」
ミレイアが発表する。
ペペは少し肩を落とした。
「魚なのに」
「苔です」
ユーノが言う。
優勝した班は、風を使わず、細い糸で鉢をゆっくり引いた。苔の葉は最後まで開いたままだった。
「それ、風の競走会?」
ナナが聞く。
「苔に合う風を見つける競走会です」
ミレイアは答えた。
放課後、尽たちは記録器の紙を外した。競走会で吹いた風の線と、途中で急に北東へ振れた線が残っている。
ユーノは時刻を書いた。
「温室の地下が封鎖されている時間です」
「明日、フィオナさんへ渡そう」
尽が言う。
ペペは記録器の針を見た。
「釘は飛ばなかった」
リゼッタが小さく頷く。
「そこは、三位より大事ね」




