第百十話 歌う泉の昼食は、一曲終わるまで開けられなかった
植物術の野外採集実習の日、ペペは弁当を三つ持ってきた。
「一つは僕の」
彼は指を折る。
「一つは途中でお腹が空いた時の僕の。もう一つは、帰り道でお腹が空いた時の僕の」
「全部、あなたのね」
リゼッタが言う。
集合場所の学院門には、二年生と研修生を合わせて二十人ほどが集まっていた。ミレイアは大きな籠を背負い、学生へ布袋と採集札を配っている。
「今日集めるのは、夕暮れ草と雫苔。根を抜かない。花を全部摘まない。手に取った物の名前を知らなければ、袋へ入れない」
ミオが小さく手を挙げた。
「名前を知らないけど、きれいなものは」
「見て終わり」
「食べられそうなものは」
ペペが聞く。
「見て終わり」
ミレイアは答えた。
今日の採集地は、学院から北へ少し歩いた歌う泉の周りだった。森道案内部で見た札の場所でもある。道へ入る前に、イリヤが班分けをする。
「尽、リゼッタ、ペペ、ユーノ、セレーネ、ミオ、ナナ。七人で一班」
「人数が多くない?」
ペペが言う。
「一番心配な人が多いから」
イリヤは誰の名前も言わなかった。
七人は顔を見合わせた。
歌う泉へ着くと、石の間から澄んだ水が湧いていた。泉は本当に歌っている。水が石へ当たる音が、低い声と高い声に分かれ、聞いているうちに短い歌のように繋がる。
ナナは泉の縁へ座り、耳を澄ませた。
「今日は眠い歌」
「朝から雨だったからかも」
セレーネが言う。
「泉にも気分があるの?」
「あります。だから最後まで聞いてから水を飲む」
ペペは弁当を抱え直した。
「お昼も?」
「お昼も」
採集は思ったより難しかった。夕暮れ草は朝のうち、ただの細い草にしか見えない。葉の裏を光へかざすと、端だけが薄く紫になる。雫苔は岩の陰に生え、水を含んだ時だけ青く光る。
ユーノは見つけるたび、採集札へ場所と時刻を書く。尽は風を弱く流し、葉の裏をめくる。リゼッタは摘んだ草を布袋へ入れ、数を数えた。
「一株だけ」
ミレイアの声が遠くから飛ぶ。
「分かってる」
リゼッタは言った。
手には二株ある。
「一株、返して」
彼女は仕方なく、元の場所へ一株を戻した。
ペペは、雫苔の近くで小さな実を見つけた。丸くて赤く、陽に当たると透けて見える。
「これは」
「見て終わり」
尽が先に言う。
ペペは手を引っ込めた。
「まだ聞いてない」
「顔が食べる顔だった」
ミオが枝の上から言った。
昼になり、班ごとに泉のそばで休むことになった。ペペはすぐ一つ目の弁当を開けようとしたが、セレーネが首を振る。
「歌が終わっていません」
「泉の歌って、いつ終わるの」
「今日の分が終わるまで」
泉は、同じ節を何度か繰り返していた。ナナは手拍子を始め、ミオは枝の上で羽を整える。ユーノは採集札を整理し、リゼッタは弁当の包みを睨んでいる。
「歌の終わりを知っている人は」
誰も手を挙げなかった。
尽は泉の音を聞いた。低い水音が三回、高い水音が二回。少し間が空く。何度か繰り返すうちに、最後だけ高い音が一つ増えることに気づいた。
「次で終わるかも」
尽が言う。
皆が静かになった。
低い音が三回。高い音が二回。間。
最後に、高い音が一つ。
泉の水面が、丸く揺れた。
「終わりました」
セレーネが言う。
ペペは弁当を開けた。
中には焼き根菜、果実、硬いパン、そして今朝食堂からもらった木の実パンが入っている。ペペは一口食べ、少し黙った。
「今日は、しょっぱい」
「今朝から、採集で食べるなと言われ続けたからでは」
リゼッタが言う。
「食べてない」
「だからよ」
ナナの弁当には、青い葉の形をした菓子が入っていた。彼女は一枚をミオへ渡し、一枚をユーノへ渡し、最後の一枚を風苔の小鉢へ置こうとする。
「植物に菓子は駄目」
尽が止める。
「魚だから」
「苔です」
食後、ミレイアは学生たちを集め、採集した草を一つずつ確認した。間違った草を取った者は、名前と理由を書く。量を取りすぎた者は、返した場所を地図へ記す。
ペペの袋から、赤い実が一つ転がった。
全員が黙る。
「食べてない」
ペペは先に言った。
「採った」
ミレイアが言う。
「落ちてた」
「袋に入れた」
ペペは赤い実を見た。朝、手を引っ込めたはずだ。どうして入っているのか分からない。ミオが枝の上で、そっと顔を逸らしている。
「ミオ」
セレーネが呼ぶ。
「落ちそうだったから、入れた」
「なぜペペの袋へ」
「一番食べそうだった」
ペペは何も言い返せなかった。
赤い実は、ミレイアの指示で泉から遠い場所へ戻された。ペペには、採集札へ大きな字で書く課題が出た。
〈拾った物も、名前が分かるまで袋へ入れない〉
帰り道、尽は風苔の観察紙へ泉の歌の終わりを書いた。ナナは隣で、泉の音を丸と線で描いている。
「次も聞きたい」
ナナが言う。
「次は、歌が終わる前に弁当を開けないでね」
リゼッタが言う。
ペペは二つ目の弁当を抱えたまま、真面目に頷いた。




