第百九話 紙魚は、読まれたくない頁から先に食べた
資料保全会の部室は、声を出すとすぐ注意される。
だからペペが扉を開けて「ここ、静かすぎる」と言った瞬間、部室の奥から六人の視線が向いた。
ユーノはすでに机へ座り、破れた帳簿の頁を細い刷毛で撫でていた。机の上には糊、水を入れた小皿、薄い紙、文字を拡大する水晶。窓は半分だけ開き、外から入る風で紙がめくれないよう、重しの石が置かれている。
「小声で」
ユーノが言う。
「まだ何も壊してないよ」
ペペも小声にした。
「壊す前に言ってる」
資料保全会の部長、エルナが近づいてきた。細い眼鏡をかけた精霊族の三年生で、紙を持つ手だけが妙に速い。
「今日は、地下保管庫の貸出記録の写しを直します。元の帳簿はフィオナさんが持っている。皆さんには、傷んだ複写を扱ってもらう」
尽たちの前には、一冊の薄い帳簿が置かれた。二年前の貸出記録を写したもので、ソラヴェイン王立術具研究会という文字がある頁だけ、端が細かく欠けている。
「紙が古いから?」
尽が聞く。
エルナは首を横に振った。
「紙魚です」
リゼッタが帳簿へ顔を寄せた。
「虫?」
「紙を食べる小精霊。古い紙の中でも、甘い墨を好む」
「甘い墨?」
ペペが聞く。
「術式の印を写す時に使う墨です。古い記録ほど食べられやすい」
ナナが嬉しそうに机の下を覗いた。
「紙魚、見たい」
「見つけても追いかけないで」
エルナは即答した。
「紙の間へ入られると、三日分の仕事が増えます」
作業は細かかった。ユーノと尽は欠けた頁の裏へ薄い紙を当て、糊を少しずつ塗る。リゼッタは文字のある部分へ糊が染みないよう、細い針で紙の端を押さえる。ペペは最初、何も触らず見ていたが、すぐに紙を乾かす小さな枠を作り始めた。
「風を当てると、紙が波打つ」
ユーノが言う。
「知ってる。だから、風を通さない枠」
ペペは木の棒と薄布を使い、小さな箱を作った。中へ頁を置くと、上の穴からだけ少し空気が抜ける。
エルナが箱を確認した。
「悪くないです」
ペペは顔を上げた。
「今、褒めた?」
「悪くないと言いました」
「褒めた」
彼はすぐ二つ目を作り始めた。
帳簿の中央には、紙魚に食べられた細い穴が続いていた。穴はたまたまではなく、ある文字の上を選ぶように並んでいる。
〈保護材 十二瓶〉
〈港の仲介人 受取〉
〈研究会印 確認済〉
ユーノが拡大水晶で穴の周りを見た。
「ここだけ墨が違います」
「別の日に書き足したのかもしれない」
エルナが言う。
「元の帳簿で確かめます。複写を直す前に、写した人の癖を読まないと」
リゼッタは、研究会印の文字を指した。
「確認済と書いた人は、誰」
「署名はない。記録係の印だけ」
尽は少し黙った。研究会の名を使った人がいた。王子が代表になる前の話だ。そこへ港の仲介人が入り、黒針の保護材が動いている。
でも、誰が何を知っていたのかは、帳簿だけでは分からない。
「ここに書いてないことは、書かない方がいい」
ユーノが言った。
「記録にするなら、分かったことと分からないことを分けます」
エルナは満足そうに頷いた。
「資料保全会へ向いています」
その時、ナナが机の下で小さな声を上げた。
「いた」
皆が見ると、紙魚が一匹、帳簿の端から顔を出していた。米粒ほどの体に、紙の切れ端のような羽がある。紙魚は帳簿へ近づかず、ナナが持っていた甘い飴の包み紙を見ていた。
「食べる?」
ナナが包み紙を差し出す。
「だめ」
エルナが言う。
しかし紙魚は、すでに包み紙へ飛びついていた。小さな口で端をかじり、紙ごと机の下へ運ぼうとする。
「そっちはいいの?」
ペペが聞く。
「帳簿よりは」
エルナはため息をついた。
ナナは机の下へ小さな紙片を置き、紙魚をそちらへ誘導した。紙魚は甘い包み紙を離さなかったが、紙片の上へ乗ると、ナナの青い火に照らされて羽を震わせた。
「捕まえた」
「捕まえてはいません。外へ出します」
エルナは紙片を窓辺へ運ぶ。紙魚は最後に一度だけ帳簿を振り返り、外の枝へ飛んでいった。
午後、補修が終わった頁を乾燥箱から出すと、穴の一つの下から薄い文字が見えた。
〈旧名義 ソラヴェイン術具同好会〉
研究会が正式に作られる前、同じ名前に似た同好会があったらしい。そこから何人が残り、誰が印を引き継いだのか。新しい記録が一つ増えた。
エルナはその文字を写し、フィオナへ渡す封筒へ入れた。
「今日はここまで。続きを追うのは、また許可が出てから」
ペペは自分の乾燥箱を抱え、部室を出る前に振り返った。
「紙魚、また来る?」
「甘い墨を使わなければ」
「飴の包み紙は」
「持ち込まないで」
ナナは黙って、残った飴をポケットの奥へしまった。
廊下へ出ると、尽の鞄の中で風苔が小さく揺れた。今日は風が弱い。風向記録器の針も動かないだろう。
それでも尽は、部室を出た時刻と、帳簿に残った旧名義を観察紙の端へ書き足した。




