第百七話 森道案内の地図は、迷子の靴だけ知っていた
森道案内部の見学日は、朝から雨だった。
雨といっても、エルシリンの森では地面まで落ちてこない。葉と葉の間で細かい粒になり、枝の先から時々まとめて落ちる。尽たちが部室へ着いた時には、肩は濡れていないのに靴だけ泥だらけだった。
「今日は中止ですか」
ペペが聞く。
部長のイリヤは、地図の束を机へ載せた。背の高いエルフの三年生で、濡れた外套から雨粒を払っている。
「雨の日ほど、道を覚える」
「嫌な答え」
ペペが言う。
「今日の見学は、学院の外周を一周するだけです。新入生が迷いやすい場所へ印を付け、案内札が読めるか確かめる」
セレーネは、壁の地図を真剣に見ていた。地図には学院の建物だけでなく、歌う泉、根が低く張る道、風が急に強くなる谷の入口まで書かれている。
「この道は、去年まで通れたはずです」
彼女が言う。
イリヤは頷いた。
「大樹が根を伸ばした。地図は毎年変わる」
「地図なのに」
「森ですから」
案内役はイリヤ、セレーネ、そして見学者の尽たちだった。今日の目的地は、学院から歩いて二刻ほどの小さな展望台。途中にある札の文を読み、危ない場所を覚え、帰りは別の道を使う。
ミオは雨の日でも翼を濡らしたくないらしく、頭から大きな葉を被っている。ナナは葉の縁に溜まった雨粒を青い火で弾いて遊び、何度もイリヤに注意された。
「火で雨を消さない」
「道が乾く」
「乾いた道には小さな虫が来る」
「虫も来る」
ナナはすぐ火を引っ込めた。
最初の案内札は、分かれ道の根元に立っていた。
〈右は歌う泉。水を飲む者は、歌を最後まで聞くこと〉
「何で最後まで」
ペペが聞く。
「途中で飲むと、泉が拗ねます」
セレーネが答える。
「三日くらい、靴を濡らしてくる」
ペペはすぐ左の道へ行った。
二つ目の札には、〈帽子を枝へ投げない〉と書かれていた。
「これは分かる」
尽が言う。
「寮の木と同じ理由?」
「たぶん」
イリヤは札の下に小さく付け加えた。
〈投げた場合、樹上配達部へ依頼すること〉
ミオが嬉しそうに羽を広げる。
「仕事が増える」
雨は昼近くに止んだ。森の匂いが濃くなり、道の上を小さな霧が流れている。尽は風苔を持ってきていた。観察日誌に、雨の後の葉の開き方を書く必要がある。
風苔は雨の間ずっと丸まっていたが、日が差すと少しずつ葉先を伸ばした。尽が立ち止まって紙へ書いていると、セレーネが隣に来た。
「学院の中でも、記録を続けるんですね」
「ミレイア先生が、毎日書けって」
「嫌ではありませんか」
尽は少し考えた。
「前は、記録って誰かに見せるためだけに書くと思ってた。でも、書いておくと、自分が何を見たか忘れない」
セレーネは地図へ目を落とした。
「私も、道を知っているつもりでした。けれど、去年の道を案内したら、今年の新入生は根に引っかかるかもしれない」
「だから、見に来た?」
「はい」
彼女は少し笑った。
「案内役は、先に着く人ではなく、全員を連れて帰る人だとイリヤ先輩が言いました」
展望台の手前で、イリヤが急に立ち止まった。
「人数を数えます」
尽、リゼッタ、ペペ、ユーノ、ミオ、ナナ、セレーネ。七人。
イリヤがもう一度数える。
「一人足りない」
部室で一緒に出発した一年生のリュオがいない。小さな角を持つ少年で、出発の時から地図を裏表へひっくり返していた。
「さっき、歌う泉の札を読んでた」
ナナが言う。
「その前じゃない?」
ペペが言う。
「いえ。帽子の札のところで、靴紐を結んでいました」
ユーノは正確だった。
イリヤはすぐ地図を広げた。
「全員で戻らない。ミオ、上から道を見て。セレーネと尽は、帽子の札まで。リゼッタとペペは歌う泉へ。ユーノとナナはここで待機し、見つけたら笛を三回」
セレーネは走り出しかけ、尽の方を見た。
「一人で先へ行かない」
尽が言うと、彼女は頷いた。
「一緒に行きます」
帽子の札まで戻る途中、ぬかるみに小さな足跡があった。片方の靴跡だけが深く、もう片方は途切れている。
「靴が脱げた」
尽が言う。
風を低く流すと、木の根の向こうから小さな声が聞こえた。
「返して」
リュオが、枝へ引っかかった靴を見上げていた。片足は靴下だけで、泥の上に立っている。どうやら近道をしようとして根を越え、靴を飛ばしてしまったらしい。
「木が返してくれない」
リュオは言った。
「投げた?」
セレーネが聞く。
「引っかかったから、叩いた」
枝は靴をさらに高い場所へ動かしていた。
尽は笑いそうになったが、リュオの顔が真っ青なのでやめた。セレーネは地図を広げ、靴がある枝の番号を記す。
「樹上配達部へ頼みましょう」
「今?」
「今です。案内札にも書いてありました」
尽は笛を鳴らした。短く二回。少しして、上の枝からミオが降りてくる。
「靴?」
「靴」
「今日は依頼が多い」
彼女は翼を広げ、靴を取ると、ついでに枝へ引っかかった古い手袋まで持って降りてきた。
リュオは靴を受け取り、何度も頭を下げた。
「迷惑をかけました」
「次は、札を読んで」
セレーネが言う。
「近道は、誰かと一緒に通る時に探す。今日はみんなが待っていたから」
リュオは頷いた。
展望台へ着いたのは、予定より少し遅かった。けれど全員の靴は揃っている。雨上がりの森の向こうに、学院の大樹が見えた。枝の間から温室の屋根が光り、遠くの橋を学生たちが歩いている。
イリヤは最後に、今日の地図を更新した。
帽子の札の横へ、小さく書き足す。
〈靴も投げない〉
ペペがそれを見て、声を上げた。
「僕、工具箱も書かれそう」
「もう書いてある」
ミオが地図の端を指した。
〈工具箱は、寝る前に片付けること〉
帰り道、風苔の葉は、見慣れないくらい大きく開いていた。尽は観察紙へ、雨の後、展望台の風、靴を取りに来た時刻を書いた。
セレーネが隣から覗き込む。
「靴のことも書くのですか」
「今日、道を覚えた理由だから」
彼女は少し考えてから、地図の余白へ同じ時刻を書いた。




