第百六話 会計班の黒字は、木の実パン一個で崩れた
リゼッタが夜市会計班の見学へ行った翌日、尽たちは食堂の端の卓へ呼び出された。
卓の上には帳簿が六冊、短い鉛筆が十本、そして半分に割れた木の実パンが一個置かれている。
「このパンが問題です」
リゼッタは開口一番に言った。
向かいには、会計班の二年生が二人座っていた。昨日掲示板の前で声をかけてきた、丸眼鏡のソフィと、背の高い角持ち族のブラムだ。二人はパンを前にして、ひどく困った顔をしている。
「次の休息日に、小さな義売を開くの」
ソフィが説明する。
「売り上げは、温室地下の封鎖で増えた鉢の移動費に使う。学生が作った物を売るから、材料費は少ない。でも食堂のパンを仕入れようとしたら、値段が決まらなかった」
「気分で味が変わるから?」
尽が聞く。
「味で値段を変えると、朝から機嫌の悪い学生が得をする」
ブラムが言った。
「機嫌のいい学生が損をするのは不公平だ」
リゼッタは帳簿を開く。
「なら、味ではなく重さで売ればいいわ」
「重さは同じです」
「では、パンを食べた人の満足度で」
「会計が終わらない」
尽は割れたパンを見た。片方は少し酸っぱく、もう片方は甘い匂いがする。どうやら、割った瞬間に食べる人の気分で変化したらしい。
「パン以外を売れば」
ペペが言った。
「工具とか」
「誰が買うの」
「僕」
リゼッタは、しばらくペペを見た。
「その案は保留」
会計班は義売の内容を決めきれず、助けを募っていた。尽たちは授業が終わってからなら手伝える。リゼッタは即座に帳簿の端へ予定を書き、ソフィへ質問を始めた。
「材料費はどこまで払ったの。鉢の移動費はいくら。値札を書く人はいる。釣り銭は」
「まだ」
「まだ?」
リゼッタの声が一段低くなる。
ソフィとブラムが揃って背筋を伸ばした。
放課後、中庭の一角に義売のための机が運ばれた。ミオは樹上配達部から借りた紐を使い、看板を高い枝へ吊るす。ナナは値札の紙に小さな花の模様を描いていた。
「値段が読める大きさで書いて」
リゼッタが言う。
「花も大きくする」
「数字が見えなくなる」
「じゃあ、数字に花を巻く」
ナナは楽しそうだった。
ユーノは資料保全会から借りた厚紙を切り、売れた物と残った物を記録する札を作った。字は細いが読みやすい。ペペは工房研究会の先輩から余った金具をもらい、募金箱の鍵を直している。
「鍵は、絶対に開かないように」
リゼッタが言う。
「開ける人がいるの?」
「いる前提で作るの」
「じゃあ、僕でも開けられない」
「それは困る」
尽は風苔の鉢を、机の端へ置いた。風が強く吹くと葉が縮むため、義売の屋根が飛ばないかを見てほしいとミレイアに頼まれたのだ。
「風苔まで当番?」
ペペが言う。
「風を見る係」
「魚なのに」
ナナが札を指した。
義売で扱う物は、学生が持ち寄った小さな品だった。夜市で余った色板、鳥人族の羽根で作ったしおり、温室で採れた香り袋、根の形をした木彫りの笛。食堂は、気分で味が変わるパンを売らず、その代わり固い木の実の飴を出してくれた。
「売り上げ、これで出る?」
ブラムが聞く。
リゼッタは帳簿を閉じた。
「最初から黒字にしようとしすぎないこと。移動費の一部が出ればいい。残った物は次の夜市へ回す」
「それでいいの?」
「義売でしょう。利益を取りに行く店ではないわ」
尽は少し驚いた。リゼッタが一番、値札に厳しかったからだ。
彼女は視線に気づいたらしい。
「材料費を回収できないと、次に作る人が困る。そこは別の話よ」
準備が整う前に、寮の小さな子たちが集まってきた。ナナの花付き値札を眺め、木彫りの笛を吹き、ミオが吊るした看板を指差している。
「まだ始まってない」
ブラムが慌てて言う。
風苔が、ぴたりと葉を閉じた。
尽は顔を上げた。中庭を抜ける風が急に強くなり、机の上の札が舞い上がる。ミオはすぐ飛び、看板の紐を掴んだ。ペペは募金箱を抱え、ユーノは帳簿を押さえる。リゼッタは売り物の飴を布で覆った。
「風、止められる?」
セレーネが聞く。
「弱くする」
尽は掌を上げ、風を屋根の内側へ逃がした。全部を止めれば、周りの木々に負担がかかる。机の間を抜ける流れだけを、枝の上へ押し上げる。
札が一枚、ぎりぎりのところで戻ってきた。
ナナがそれを掴む。
「花、無事」
「数字は」
リゼッタが聞く。
「半分」
始まる前から、値札を書き直すことになった。
義売が始まると、予想より多くの学生が来た。夜市の光の魚を見た低学年の子たちが、風苔の鉢を覗き込む。鳥人族の学生は羽根のしおりを選び、寮監サラナは木彫りの笛を三つ買った。
「寮で吹くんですか」
ペペが聞く。
「夜の見回り用よ」
「夜に?」
「遅くまで騒いでいる部屋の前で」
ペペは、自分の工具箱を思い出したように黙った。
午後になり、木の実飴が残り三つになった頃、食堂の店員が例のパンを一籠持ってきた。
「余ったから、義売へ出していい?」
ソフィとブラムが固まる。
「値段は」
リゼッタが聞く。
「好きな分だけ」
「それは会計じゃないわ」
店員は笑う。
「代わりに、食べた人が寄付する。今日は地下の鉢のためだから」
パンの籠には、小さな札が下がっていた。
〈今朝、少し落ち込んだ人へ〉
最初に買ったのは、夜市で赤い魚を見た低学年の子だった。子はパンを一口食べ、目を丸くする。
「甘い」
次の学生は、同じパンを食べて首を傾げた。
「しょっぱい」
誰がいくら入れるか分からないまま、募金箱の中の硬貨は増えていった。
日が傾く頃、リゼッタは全部の帳簿を並べた。売れた品、残った品、寄付の額、移動費の見込み。ソフィとブラムが左右から覗き込む。
「黒字?」
ブラムが聞く。
リゼッタは計算を終え、少しだけ息を吐いた。
「移動費の半分には足りない。でも、今週の温室当番の道具代は出た」
「失敗?」
「違うわ」
リゼッタはパンの籠を見た。
「次に何を残して、何を増やすかが分かった。帳簿は、そのためにあるの」
ソフィが嬉しそうに頷く。
その直後、ペペが募金箱を持ち上げた。
「鍵、開かない」
「作ったのはあなたでしょう」
「開かないように作ったから」
リゼッタは額を押さえた。
結局、工房研究会の先輩を呼び、夕食の鐘が鳴るまで三人で鍵と格闘することになった。
風苔は、空になった飴の皿の横で、夕方の風に合わせて静かに揺れていた。




