第百三話 温室当番は、朝から三回名前を呼んだ
翌朝、尽は自分の名前で目を覚ました。
「風間尽さん。温室当番の時間です」
枕元の壁から声がした。
尽は飛び起きた。部屋に人はいない。窓の外はまだ薄暗く、鳥の鳴き声も始まったばかりだ。壁へ近づくと、木目の間に小さな蕾が一つあり、蕾が口のように開いていた。
「風間尽さん。温室当番の時間です」
「起きてます」
「一回目です」
尽は着替えながら、昨日のミレイアの言葉を思い出した。
白糸の件で温室地下が閉鎖されたため、学生の出入りが減った。代わりに、地上の鉢と水路を毎朝確認する当番が必要になった。尽たちの班は、観察日誌が他の班より二倍あるという理由で、最初の当番へ選ばれた。
部屋を出ると、廊下の向こうでペペが扉へ肩をぶつけていた。
「僕の部屋、三回呼ばれた」
「まだ二回目です」
壁の蕾が言う。
「数えなくていいよ」
ユーノはすでに廊下の長椅子に座り、当番表を読んでいた。紙には水路の水位、鉢の葉色、根のにおい、怪しい物の有無と並んでいる。
「根のにおいは、どう書くんですか」
ペペが聞く。
「甘い、湿っている、土っぽい。昨日ミレイア先生が例を言っていました」
「土っぽい根なら、普通じゃない?」
「普通かどうかを比べるためです」
尽が苦笑していると、リゼッタの部屋の扉が開いた。彼女は髪を整え、外套の襟まできちんと留めている。
「朝から騒がしいわね」
「壁が」
ペペが言う。
「三回目の呼び出しをしてきた」
その瞬間、廊下の蕾が一斉に開いた。
「リゼッタ・アルヴァさん。温室当番の時間です」
「今、出たでしょう」
「三回目です」
リゼッタは蕾をじっと見た。
「数え間違いよ」
「記録は正確です」
蕾は胸を張るように揺れた。
温室の入口では、ミオが枝に逆さまにぶら下がって待っていた。朝の風を受けて翼を広げ、眠そうな目をしている。
「飛んで来れば早かった」
彼女は言う。
「飛べない人へ配慮して、階段を使ったの」
リゼッタが答えた。
「優しい」
「違うわ。私も飛べない」
ナナは温室の扉の前で、当番札を一枚ずつ数えていた。彼女の青い火が札を照らすたび、葉の紋が淡く光る。
「全員いる。六人」
「セレーネさんは」
尽が聞くと、ナナは奥を指した。
セレーネはすでに水路の端にしゃがみ込み、昨日まで閉じていた地下へ続く扉を見ていた。今日は王女の外套ではなく、袖をまくった学院の作業着だ。手には小さな板と、土の色を比べるための紙束を持っている。
「おはようございます」
彼女は振り返った。
「フィオナさんから連絡がありました。根菜の中の糸は、今のところ動いていません。地下は引き続き封鎖です」
「じゃあ、当番は上だけ?」
ペペが聞く。
「上だけです。でも地下へ水が流れ込まないよう、水位を二回記録します」
ミレイアが温室の中から出てきた。今日は授業用の長衣ではなく、土のついた前掛けをつけている。
「役目を決めます。セレーネとミオは高い棚の葉色。尽とユーノは水路。リゼッタとペペは鉢の底と根の匂い」
ペペが小さく手を挙げた。
「根の匂いを嗅ぐんですか」
「鼻で確かめず報告、と昨日言われたばかりです」
ユーノが言う。
「匂い袋を使う。根へ顔を近づけない」
ミレイアは布で包んだ小さな器を渡した。
「ここへ空気を集めて、色で見るの」
ペペは器を覗いた。
「鼻の代わりに器が嗅ぐんだ」
「器は文句を言いません」
リゼッタが言う。
「ペペは言う」
温室の朝は忙しかった。水路の表面には、夜の間に落ちた花びらが集まっている。尽が弱い風で花びらを端へ寄せ、ユーノが細い棒で水位を測る。昨日の穴があった場所には立会札が立ち、根の周りへ黄色い糸が渡されていた。
「水位、昨日の夕方より一指ぶん低いです」
ユーノが紙へ書く。
「雨は降ってない」
尽は水の流れを見た。
「上流の鉢が多く吸ったのかもしれない」
「確認します」
ユーノはすぐに上の棚へ行こうとして、ミオに止められた。
「飛ぶ人がいる」
彼女は翼を広げ、二階の棚へ軽く上がった。セレーネと並んで鉢を一つずつ覗き込み、葉の色を呼び上げる。
「月草、葉先が黄色」
「夜蜜花、元気」
「眠り苔。……寝てる」
「苔は寝るの?」
ペペが聞く。
「朝は寝る」
ミオは真顔で言った。
リゼッタとペペの担当は、入口近くの鉢だった。匂い袋を根元へかざすと、袋の端に淡い色が浮かぶ。リゼッタは色見本と見比べ、ペペは鉢の底へ小さな鏡を差し込んだ。
「これ、便利」
「昨日の工具箱から出したの?」
「うん。木に取られた物を、ちゃんと使ってる」
鏡に映った鉢の底には、細い根が何本も伸びている。白糸は見えない。ペペが安心して器を引こうとした時、鉢の下から小さな石が転がった。
ころり、と尽の足元まで来る。
尽が拾うと、それは温室の肥料に混じる白い軽石だった。片面に、爪で引っかいたような三本の線がある。
「これも商印ですか」
ナナが近づいて聞く。
尽はすぐに頷かなかった。三本の線は、子どもが描いた傷にも見える。昨日までなら、印だと決めつけていたかもしれない。
「記録して、ミレイア先生に見せよう」
彼は言った。
ミレイアは軽石を受け取ると、作業台の上の別の肥料と並べた。
「同じ石です。温室では昔から使っています」
ペペが肩を落とす。
「じゃあ、ただの石」
「ただの石にも、どこから来たかはある」
ミレイアは軽石を指で転がした。
「地下の件と繋がる証拠にはならない。でも、温室の肥料が港から来ていることは分かるでしょう」
尽は記録紙へ、石の形と見つけた場所を書いた。白糸を見つけた時ほど胸は騒がなかった。代わりに、こういう小さな記録が後で役に立つのかもしれないと思った。
当番が終わる頃、ミレイアは六人の日誌を受け取り、一枚ずつ確認した。
「水位の記録はよい。鉢の状態もよい。ペペさん」
「はい」
「根のにおいの欄に、『普通の根より根っぽい』と書いた理由は」
ペペは紙を見下ろした。
「分かりやすいかなと」
「分かりません」
ミオが枝の上で笑い、ナナもつられて青い火を揺らした。
ミレイアは書き直すための紙を一枚渡す。
「記録は、後から来た人にも同じ物が見えるように書く。あなたたちが森で見つけた箱も、そうやって残したのでしょう」
尽は頷いた。
温室を出ると、記録官のフィオナが待っていた。彼女は六人ではなく、尽たち四人へ新しい札を差し出す。
「仮滞在は今夜で終わりです。学院長たちは、七日間の記録を読んでいます」
ペペが札を見た。
「これ、追い出される札ですか」
「明朝、結論を伝えます」
フィオナは答えた。
「今夜まで、いつもの学生として過ごしなさい。提出物も忘れずに」
リゼッタが観察日誌を抱え直す。
「結論の前に、日誌があるのね」
「学生ですから」
セレーネは、温室の入口で尽たちを待っていた。彼女も明日の結論を知っているのか、尽には分からない。
ただ、いつものように言った。
「一限に遅れます」
六人は走った。




