第百二話 苔の糸は、温室の先生を先に怒らせた
尽が白い糸を抜こうとすると、植物術のミレイアがすぐ手首を掴んだ。
「勝手に触らない」
「すみません」
「謝る前に、何が変か言いなさい」
声は大きくなかった。だから教室中の学生が黙った。
尽は苔の鉢を指した。小さな緑の間に混じった白糸。土の表面から鉢の縁へ続く細い穴。糸が描いた三本の波線。そして、昨日まではなかったはずの薄い湿り気。
「谷の網と同じ糸に見えます。水を通ってきたのかもしれない」
「見える、では足りません」
ミレイアは手を離し、苔の葉を一本だけ持ち上げた。
「形、匂い、土の温度。気づいた順に言いなさい」
尽はもう一度鉢を見た。
「糸は普通の根より白い。乾いているのに、周りの土だけ冷たい。苔は枯れていません」
「よろしい」
ミレイアは鉢を持ち上げ、底の穴を覗いた。そこにも白い糸が一本、ぴんと張っている。
彼女の表情が変わった。
「温室地下の排水管を見ます。授業はここまで」
教室が少しざわついた。
「やった、早く終わった」
ミオが翼を伸ばしかける。
「課題が増えます」
ユーノが言った。
その通りだった。ミレイアは棚から小さなスコップ、布袋、土の色を記録する紙を取り出した。学生全員へ一つずつ配る。
「これは遠足ではありません。水路の異常を探す実習です。苔の植え替えをしている班は、どの水を使ったか思い出して」
後ろの席から、誰かが小さく呻いた。
「穴を見つけても入らない。白い糸を見ても引かない。変な匂いがしたら、鼻で確かめず報告」
「それ、前に誰かやったんですか」
ペペが聞く。
「毎年います」
ミレイアは答えた。
「今年の担当にならないように」
温室地下は、朝に入った保管庫よりずっと暖かかった。地上の陽を集めた根が土の中で熱を抱えている。低い天井から根が垂れ、その間を細い水路が何本も走っていた。古い鉢が棚に並び、葉の大きな苗が水を吸っている。
ミレイアは学生を二人ずつに分けた。
「床の色、水の流れ、根の向き。どれか一つを見落としても、勝手に進まない。見つけた物は布袋へ入れ、札に場所を書いてください」
尽はリゼッタと同じ班になった。ペペはユーノ、ミオはナナと組む。セレーネは別の精霊族の学生と、水路の上流へ向かった。
「火は使わないで」
尽は先に言った。
「言われなくても分かっているわ」
リゼッタの指先には、もう小さな火がついていた。
「それは」
「明かり」
「根が燃えたら」
「燃やさない」
彼女は火を指の腹ほどまで小さくした。確かに、その灯りがあると水路の底の色がよく見える。尽はそれ以上言えず、代わりに風を低く流した。
水路の壁には、古い苔が貼りついている。風が通ると、何か細いものが一度だけ揺れた。
「あそこ」
排水管の脇に、白糸がある。
尽たちは近づかず、場所を書いた札を立てた。リゼッタが火を少し上げると、糸の周りに小さな穴がいくつも見えた。水の流れは穴の方へ吸い込まれ、土の下へ消えている。
「温室の水を、どこかへ抜いているのかしら」
「逆かもしれない」
尽は言った。
「何かを水路へ入れるために、穴がある」
白糸の先を目で追っても、根と土に隠れて見えなくなる。二人はミレイアを呼ぼうとした。
その時、隣の通路からミオの声がした。
「動いた」
翼が羽ばたく音。次に、ナナの青い火が跳ねる。
尽たちが曲がり角を回ると、ペペが水路の前で両手を上げていた。
「僕、触ってない」
「まだ何も言ってないわ」
リゼッタが言う。
「先に言っておこうと思って」
ミオの足元で、白糸が水の中へ引っ込んでいく。すると土の隙間から、小さな根菜がころりと転がり出た。丸い根菜には土がついておらず、皮に細い穴がいくつも開いている。
ペペが反射的に手を伸ばした。
「食べない」
ミレイアの声が地下へ響いた。
「食べません」
ペペは両手を上げたまま固まる。
「少し甘い匂いがしただけです」
「鼻で確かめない」
ミレイアが根菜の前へしゃがみ込む。布袋ではなく、硬い蓋つきの容器を取り出した。
根菜の穴から、白糸が何本も伸びている。糸は根のように見えるのに、鉢の苔へ触れた時と違い、先端を水路の暗い方へ向けていた。
「栽培記録にない品種です」
ユーノが鏡板を近づけた。
「糸の中に、弱い術式の反応があります。谷の網より小さい。でも、似ています」
ナナが根菜を覗き込む。
「これ、歩くの?」
誰もすぐに答えられなかった。
根菜が、ころりと一度だけ転がった。
ペペが後ろへ飛び退く。
「歩く」
ミレイアは容器の蓋を閉じた。
「記録官を呼びます。全員、地上へ戻りなさい。今日の実習はここで終わり」
「課題は」
ナナが聞く。
「提出する」
温室の出口で、学生たちの肩が一斉に落ちた。
記録官のフィオナが到着した頃には、白糸の穴の周りに立会札が立てられていた。尽たちは見つけた場所、土の色、水の温度を一枚ずつ書き、ミレイアへ渡す。フィオナは根菜の容器を見た後、尽へ短く言った。
「地下保管庫の記録と照合します。ここから先は、学生の手を離れます」
尽は頷いた。勝手に糸を抜かず、先生へ話した。今はそれでいい。
夕方、セレーネは寮の食堂で皆へ温かい木の実粥を配った。
「地下の根菜ではありません」
「分かってる」
ペペは匙を持ったまま言う。
「でも、甘い匂いは少し気になる」
「気にしないで」
ミオが言った。
「食べる気だった?」
「食べる前に先生が叫んだよ」
リゼッタは粥を一口食べ、黙った。
「今日は甘いわ」
「気分のパンではありません」
ユーノが言う。
「粥も、気分で味が変わったら面白いのに」
ナナが言うと、ペペはすぐ匙を置いた。
「それは遠慮する」
尽は笑った。地下の白糸が何を運んでいたのかは、まだ分からない。
けれど明日も授業がある。ミレイアは最後に、苔の観察日誌を二倍にして返した。




