第百一話 地下書庫の根は、遅刻した学生だけをくすぐった
地下保管庫の扉は、記録官が三枚の札を重ねてから開いた。
一枚目は学院長の許可札。二枚目は衛林隊の立会札。三枚目は、尽たち四人が見つけた木箱の番号を書いた照合札だった。
札が重なるたび、根に覆われた扉の隙間から冷たい風が漏れる。最後の一枚が淡く光ると、根がゆっくりほどけた。誰かが扉を押したわけでもないのに、内側から重い音がした。
「中で見たことは、ここで話すまで口外しないように」
記録官のフィオナが言う。
「写しを作る時は、必ず私か学院の書記が立ち会います。棚の根へ触れない。引き出しを勝手に開けない。迷子になっても、走らない」
「地下で迷子になる人がいるんですか」
ペペが聞く。
「毎年います」
フィオナは答えた。
中は冷えていた。天井から細い根が下がり、棚と棚の間を縫うように伸びている。根には小さな光の粒がつき、足元をぼんやり照らしていた。木の箱、革張りの帳簿、封をしたガラス瓶。どれも同じ形に整えられているのに、棚の奥は森の中のように複雑だった。
尽は風晶片を持ち込んでいない。あれは別の机で保管され、今日は記録だけを追う。証拠を手にしていると、つい答えを急いでしまう気がした。
「三本の波線が刻まれた箱を探します」
フィオナが帳簿を開いた。
「谷で見つけた木箱は、温室地下の保管庫へ入ったことがある。外へ出た記録が残っていれば、借りた人間の名も分かるでしょう」
ユーノが棚番号を読み、リゼッタが帳簿の年月を追う。ペペは同じ箱の金具を探し、尽は書架の隙間にある札を見落とさないよう目を配った。セレーネはフィオナの横で、借用記録の索引をめくっている。
最初の一時間で見つかったのは、似た箱ばかりだった。
薬草保存用。冬眠獣の毛。雨水を吸った苔。誰かが百年前に貸し出し、返却期限を三十年過ぎてから返した「歌う石」。
「三十年は、延滞金が高そう」
ペペが言う。
「歌う石は返却後も歌い続けたので、持ち主が逃げたそうです」
フィオナは帳簿をめくらずに答えた。
「延滞金を取りに行けなかったのでは」
リゼッタが言う。
フィオナの眼鏡の奥で、目が少しだけ笑った。
昼の鐘が近づく頃、ユーノが一つの空棚の前で止まった。
「ここです」
棚板の端に、古い札を剥がした跡がある。根が半分を覆っていたが、鏡板の光を当てると、薄い刻印が浮かんだ。
〈温室地下・外来種子と術式保護材〉
その下に、貸出札の切れ端が残っていた。
「切り取られています」
尽が言う。
「切り取った者がいるのではありません」
フィオナは根元をよく見た。
「返却時に、記録札の半分だけを剥がす規則です。残りの半分は、別の帳簿に移されます」
彼女は棚の隙間から細い木札を取り出した。長い年月で色が変わっているが、文字はまだ読める。
「持ち出しは二年前。借りた名は、ソラヴェイン王立術具研究会」
小屋の中で聞いた時とは違う重さで、名前が落ちた。
リゼッタは日付を帳簿へ書き写した。次に、ソラヴェインでレオハルトが研究会を再編した年を記した紙と並べる。
「王子が研究会の代表になったのは、その翌年」
彼女は言った。
「この時点では、本人の名も署名もない」
「王子本人とは限らない」
尽は答えた。
「研究会の名前を借りた人間か、名前を使える人間がいた」
セレーネは木札の端を指した。
「貸出を申請した窓口は、王宮ではありません。港の交易商会が仲介しています」
三本の波線を使う商会。谷の箱にあった印。風見塔の荷札。別々だったものが、紙の上で隣り合った。
ユーノは鏡板を使い、木札の消えかけた文字を写している。
「持ち出したものは、外来種子、根の養分、眠り草の加工液。あと、黒針の術式保護材」
「黒針」
尽の指先が冷えた。
「保護材だけなら、針そのものではない」
フィオナが言う。
「でも、黒針を扱う術式がここへ来たことは記録に残ります」
空棚の奥には、古い植物図が一枚だけ取り残されていた。温室の地下へ伸びる排水管、外来の種子を隔離する棚、根の養分を流す細い水路。地図の隅には赤い印があり、そこだけ紙が擦れている。
「この場所は」
尽が聞く。
「温室地下の古い隔離区画です」
セレーネが答える。
「今は使っていません。根が増えすぎて、学生を入れなくなりました」
「黒針の保護材が出た場所と、白い糸が出た温室は繋がっていますか」
「分かりません」
フィオナは地図を巻き戻した。
「分からないことを、今は分からないまま書きます」
その言い方に、尽は少し救われた。王子の書状には、分からない部分が最初からなかった。ここでは、空欄を空欄のまま残せる。
記録を写しているうちに、午後の鐘が鳴った。
ペペが顔を上げる。
「授業」
フィオナは壁の時計を見た。
「走っても、植物術には間に合いません」
「走らないでと言ったのはフィオナさんです」
「地下で、と言いました」
根が尽の靴首へ、するりと触れた。
「くすぐったい」
フィオナは眼鏡の奥で眉を上げる。
「根は、急ぐ人を嫌います」
「今まで急いでいません」
尽が言った途端、二本目の根が靴紐へ絡んだ。
ペペが笑いかけ、すぐ自分の靴へ目を落とす。彼の靴紐にも根が巻きついていた。
「僕も?」
「さっきから時計を見ていました」
フィオナの言葉は容赦がない。
地下を出る頃には、尽たちはしっかり遅刻していた。寮を越え、橋を渡り、校舎の階段を駆け上がる。根は入り口まで追ってこなかったが、靴紐に細い葉を一枚残していった。
最後の段でペペがつまずいた。
工具箱が開き、留め具と小さなねじが廊下へ転がる。ミオが教室の窓から顔を出し、翼を羽ばたかせて、飛びそうになった金具を壁際へ寄せた。
「遅刻ですか」
植物術のミレイアが扉から尋ねた。
「根が」
「根のせいにしない」
教室の中で何人かが笑った。ペペは床へ這いつくばり、金具を一つずつ拾う。
「今日は班で一鉢の苔を育てます」
ミレイアは黒板を指した。
「水をやりすぎれば腐る。光を集めすぎれば乾く。手をかけすぎて駄目にする物もあります」
リゼッタが水差しを持ったまま止まる。
「今日は急がせない」
皆が見守った。
彼女は一滴だけ水を落とした。苔は何も変わらない。
「遅いわ」
「正常です」
ミレイアが答える。
セレーネは苔へ小さく歌い、ミオは翼で窓からの強い風を遮る。尽は土の湿り気を見て、ユーノは鏡板で葉の色を測った。ペペは拾い集めた金具の中から平たいものを選び、鉢が傾かないよう下へ置く。
「それ、工具ですよね」
ナナが聞く。
「支え」
「植物に?」
「鉢に」
放課後、苔は少しだけ明るくなっていた。
「売れないわね」
リゼッタが言う。
「苔ですから」
ユーノが答えた。
尽は鉢を覗いた。
小さな緑の間に、白い糸が一本だけ混じっている。糸は土の上で、三本の波線に似た形を作っていた。




