第五部 トロープに罪はない、大抵の場合
トロープは受け手、つまり、読者や観客のためのものです。
受け手の自尊心を称揚する、応援する、そういう性質を持つものです。
聖書に描かれる良き人々が救われることが約束されるなら、その良き人々に自己を同一化している人は自尊心を強化します。
白人と黒人の間の上下関係が公然と描かれることが当然の時代には、白人が黒人をぞんざいに扱う描写の作品を見て白人は自尊心を強化します。
ブスでも恋愛を成就できることを描く作品を見れば、自分をブスだと思っている人は自尊心を強化します。
そういうものです。
そして、ここにはラインが引かれます。
ポリティカルコレクトネスによるラインです。
そのトロープが誰かの自尊心をどれだけ強化しているかにかかわらず、誰かの自尊心を差別構造の強化によって傷つけているかどうかだけが問題にされます。
ポリティカルコレクトネスが見逃していることがここにあります。
もちろん、差別の抑止は重要です。
規制しなければならないトロープも実在するでしょう。
しかし、どのようなトロープであっても差別構造に加担する限りそれは規制されるべきだという姿勢には自分は反対です。
前話で取り上げたボーンセクシーイエスタデーを例にしましょう。
先に言及した動画内で動画作成者はボーンセクシーイエスタデーに対し全面的な否定を表明していましたが、もちろんボーンセクシーイエスタデーにも差別構造の強化だけではない、自尊心強化効果もあります。
女性を傷つける可能性よりも、モテない男性の自尊心を強化する効果の方を私は重視します。
このように、どのようなトロープにも二面性があります。
誰かの自尊心を強化する効果と、差別構造を強化する効果です。
これまで見た通り、トロープは常識でできています。
つまり、人間の予断と偏見に基づくものなのです。
異化しようとすればそこから出ることができる可能性もありますが、もちろんそういう作品ばかりではありません。
異化とは驚きであり、驚きとは刺激であり、刺激とはダメージです。
作品の刺激に十分耐えられる人しかダメージの大きい作品は楽しめません。
例えば、うつ病の人にエキサイティングな作品を楽しんでもらうのは難しいでしょう。
ダメージのない、つまり、既存のトロープを異化しない、偏見を再生産する作品も必要なのです。
優しい作品です。
自尊心を強化される立場の人間にとっては優しく、そうではない立場の人間にとっては優しくない作品です。
そこに必要なのはゾーニングだと思います。
トロープそれ自体が悪いわけではありません。
あまりに甚だしい場合もありますが……。
基本的に、私はポリティカルコレクトネスによる差別構造強化可能性のあるトロープの一律的規制には反対の立場です。
言いたい事は以上でした。
お読みくださりありがとうございます。