44 沼より出でし者
淵から少し離れ、沼の水面を皆でじっと睨む。先ほどから同じ場所からぽこ、ぽこと不気味な音をたてて泡が浮いては消えるを繰り返している。
リュウの「何かいる」という言葉がなければユウリは気づかなかったかもしれないが、言われてみればその泡は不自然に湧いているように見える。自然のものであれば一ヶ所からではなく複数の箇所から湧くものだろう。
警戒しながらしばらくそのまま見ていると。
ゴボッ。
ひときわ大きな泡が弾けたかと思うと、その場所からぬるりと何かが出てきた。
「いやぁぁぁぁあっ」
叫んだのは陰から様子をうかがっていたアイリだ。ユウリの羽織をぎゅうぅっと掴む。ユウリは後ろ手に宥めるように背中をさすりながらその物体を凝視する。
出てきたのは泥にまみれた頭のようだった。生身ではなく、防水の全身スーツのようなものを着ているようだ。上半身が出てきたところでぴたりと動きが止まる。沼地の中でなぜそのような芸当ができるのかは謎だ。
その者が動きを止めたのは、リュウの手元が見えたからだろう。いつの間にかリュウは自身の武器である短弓を構えていた。狙いは今しがた出てきたそれにピタリと定められている。
「どうかその物騒なものをしまっておくれでないかい?お嬢さん」
服には通気口があるらしく、そこからしゃがれた声が聞こえてきた。リュウをお嬢さん呼ばわりする者は初めてだ。しかしリュウは構う様子もない。
「そうしたいのは山々だけどな。アタシも殺しは専門外だしね」
弓をさらに引き絞るギリギリという音が響く。得体の知れない者は命の危機を感じてはいるようだが、泥の中に逃げ戻るようなことはしない。この状況に怯えきっているアイリが震える声でつぶやく。
「に、んげん、な、の……?」
その声が聞こえたかどうかは定かでないが、泥の中の者は防水服の頭部を開いて顔を出した。真っ白い髪と真っ白い髭が、皺の深い肌に湿気で張り付いている。老爺はリュウを睨み返して言った。
「こんな老いぼれ、わざわざ手にかけずともすぐお迎えが来るわい」
泥の沼から這い出た老爺はキジと名乗った。正体を明かすため、泥だらけの防水服を脱ぎ、普通の身なりに着替えた。都の老人がよく来ているゆったりとした一枚物の服だ。留めている帯が特徴的で、飾り紐が何本も巻かれたデザインになっている。
「あんなところで、アンタ一体何してたんだ?」
さすがにもう弓は構えていないが、警戒を解かないままでリュウが問う。人に聞かれてはまずい話をしていたから、中央に関係する者だったら困る。しかしキジは。
「逆に何だと思われたのか訊きたいがね。わしはただ日課で、あの沼を調べとっただけだが」
「沼の底からいきなり現れたら普通は隠密の類だと思うもんだよ」
警戒しなければならない状況だったから余計に、盗み聞きに対して敏感になっていたというのもある。アイリの話が念頭にあったので、最悪、暗殺者かもしれないとまで考えて短弓を構えた。もし妙な動きをしていたらためらわず射抜いていた。それを聞くとキジはぶるっ、と身震いした。
「おぉ、恐ろしや。なかなか血気盛んな若者だのう」
「アタシだって自分の命は惜しいからな。危険と感じれば自己防衛くらいするさ」
リュウはふん、と鼻を鳴らす。普通は人がいないところから急に現れたのはキジの方だ。こちらだって恐ろしい思いをさせられたのだ。アイリなど半べその状態だ。ユウリが背中をさすっていたのと、どうやら人間らしいことがわかったのとでようやく落ち着いた。そうするとアイリの性格から、キジに興味が湧いたようだ。
「おじいちゃんは、あの沼で何を調べてたの?」
問われるとキジは破顔した。孫かひ孫かというような年頃のアイリを怯えさせてしまったのはしのびないと思っていたようで、自分からは声をかけようとしなかったのだ。
「わしの専門は歴史学でな。遠い遠い昔、この沼はかつて、ここに都ができた頃には絶えず水の湧く、それはそれは美しい泉だったんじゃ」
いくらキジが高齢であっても、その頃にはまだ生まれていないはずだ。にも関わらずキジはまるで見てきたかのように語る。話振りも相まって、まるでストーリーテラーのようだ。
沼の方を見つめながら語るキジに、口を挟んだのはロウシュだった。
「それは、マナがこの国に取りこまれるより前ということか」
「そう、マナ……おや、あんたさんはマナのお人か」
「いかにも」
ロウシュがいつものように少し鼻にかかる態度で応える。するとキジはわずかに首を傾げてはて、としばし考えこんだ。何か変なことを言っただろうか、と思っていると。
「それでは、あんたさん方も異変を調べにこちらへ来なすったのかね?」
緩み始めていたその場の空気が再び張りつめた。




