第18話 覚醒
ゆっくりと開いた扉の影には誰かがいました。
それは僕と同じくらいの身長で、おずおずとドアを開けると俺には気が付かないまま隙間から外を窺うように覗いています。
僕からは、それの頭しか見えないが、どうやら、床を見ているようだ。
まだ、扉をノックしてもいないのに住人が扉を開けたことに少し驚いたが、なぜ、この子は下ばかり見ているのでしょう。
床を見たところで、何も落ちてはいないと思うのですが。
小首を傾げたその子は、さらに扉を開き、押された扉が何も履いていない僕の足の指を直撃した。
「痛っ」
僕の声に驚いたのか、開こうとした扉が何かに引っかかったことに驚いたのかわからないが、その子は動きを止めた。
その子は恐る恐る視線を上げてゆき、苦悶の表情を浮かべる僕と目が合うと、少しだけ目を見開いただけで、何事も無かったかのようにゆっくりと扉を閉めた。
ちょっ、えっ?
ニールはどうして良いのか分らず呆然と突っ立っていると、中でぼそぼそと話している声が聞こえた。
しばらくすると、ガチャっと扉を開ける音がして、今度は大人が姿を現しました。
「ごめんなさいね、もしかして、今日から一緒になる子かしら?」
扉の向こうから現れたのは、群青の着物を着た黒髪の女性でした。
金色の瞳でこちらを見つめる女性に、ニールは頷くことしかできませんでした。
何も言うことができないニールを見て、女性は一瞬だけ悲しい顔をし、そして、苦笑した。
「そこに立っていても仕方が無いですし、入ってきたらどうです?」
女性に手招きされ、促されるままに部屋の中に入った。
すでに日沈んでいたが、室内に明かりはなく薄暗い。
部屋に入ると、短い廊下があり、右手の扉の向こうは洗面所とトイレがあった。
短い廊下の先には8畳ほどのスペースがあり、左右にロフトの二段ベッドが設置されている。
その風呂キッチン無しのワンルームは、まるで学生寮の一室のようだ。
女性は部屋の入り口で立ち止まっているニールを尻目に窓際にあった椅子に座ると、月明かりが彼女を照ら出します。
薄暗くて気が付きませんでしたが、月明かりでほんのりと明るい部屋には帽子を被った子供がいました。
先に扉を開けたのは、この子だったようですね。
薄い水色の浴衣を着た子供は、帯の下に狐の尻尾のような飾りを巻きつけ、それを取られないように必死に守っているようでした。
僕の視線に気がついたその子は、燃えるような真っ赤な瞳を伏せ、ニールの目から逃れるように女性の影に隠れました。
群青色の着物を着た女性は、そんなことを気にすること無く開いた窓から外を眺めていました。
風が入り込むたびに、肩口で切りそろえられた濡れ羽色の艶やかな髪はサラサラとゆれます。
闇夜を照らす月明かりに包まれた彼女は、空を見上げています。
それは、まるで外の世界にあこがれる籠の鳥のようでした。
少し影を落とした女性の姿は、ニールが今まで出会った中で一番美しかった。
髪とは相反する白い肌、何かを愛でるように細められた金色の瞳、少し低いがすーっと通った鼻筋、綻んだ薄い唇の間から見える少し鋭い犬歯、シャープな顎のライン、そして、頭の上の―――
「女性をジロジロ見るのはあまり感心しないですね。何か言いたいことがあるのでしたらはっきり言ってはどうですか」
美女の言葉にハッとして、我に返りました。
どうも、あまりに無遠慮に見過ぎていたようです。
美女が不快感を表してニールをにらみつけ、その後ろでは子供がコクコク頷いていた。
やってしまいました。
でも、どうしてもあれが気になるのです。
「ごめんなさい」
頭を下げて謝ると、美女は部屋に入ってから初めてニールのことをしっかり見た。
「頭を上げてください」
美女の許可を得て顔を上げると、美女と目が合ってしまいました。
その黄金色の瞳には、まるで何でも吸い込んでしまいそうな力があるようです。
やばいです。
この人綺麗過ぎます。
それに…。
再び彼女に釘付けな自分に気がついて、顔が熱くなるのを感じました。
「分ってくださればいいです。私達獣人にも感情はありますので。それで、何か私に用ですか」
「あの、えーと…」
言っちゃってもいいのかな。
でも、初対面の人にこんなことお願いしてもいいのかな?
「なんでしょう」
どうしよう、言ってしまってもいいのかな。
怒られないかな。
でも、本人が言っているんだし、言うだけならただですよね。
断られたら、少しへこむかもしれませんが、言わなかったら何も始まりませんしね。
よし、腹をくくりました。
さあ、言ってやるのです。
いえ、その前に自己紹介が先でしょうか、社会人として。
そうですね、それがいいです。
まずは、軽く挨拶、その後で何気なく切り出すのがよいでしょう。
「耳を触らせて下さい!!!!」
「……え?」
ニールは地面に頭をぶつけるのでは無いかというくらい頭を下げた。
あれー、自己紹介どこ行った?
衝動が理性をぶっちぎってしまいました。
がんばれ僕の自制心。
しかし、それもさもありなん事です。
だって、黒髪の美女の頭の上には猫のような大きな耳が乗っているのです。
ケモノノミミですよ。
風が吹くたびにピクピクと動き、不快感を表すと言葉とは裏腹にいきり立っています。
絹糸のようにサラサラと流れるような黒髪の中にあって、モフモフとした耳毛のなんと柔らかそうなことでしょう。
初めて扉から彼女が現れた瞬間から、ニールの心は美女の猫耳に釘付けだった。
猫の耳がついてますよーー!!
ニールは心の中で絶叫するあまり返事が出来ず、目の前の美女に何か勘違いをされていたことにも気がついていなかった。
そういう装飾品をつけている女性は前世で何度か見たことがありましたが、まったく惹かれることは無かったのに。
むしろ、あんなものをつけて何が楽しいのか、くらいに思っていたのに、この美女の耳からは目が放せない。
人工物と天然物にはこんなにも差があったのですね。
寿司屋で大将に「天然と養殖の味の差なんて大したこと無いですね。…鯛だけに。」なんて下らないことを言ってしまったことを、今更になって猛省する次第であります。
私はなんて愚かな人間だったのでしょう。
大将、人工物と天然物には、言うも愚かな歴然とした差が存在しました。
あの耳毛はどれくらい柔らかいのだ。あれは暖かいのかのかな。きっと良い匂いなんだろうな。サラサラなのかなそれともゴワゴワなのかな。齧りたいです。触りたいです。匂いを嗅ぎたいんですーー。
あああああああああ!!!
こんな感覚はいつ以来でしょうか。
もしかしたら、初恋のあの子に会ったとき以来、否、それ以上の衝撃かもしれません。
なんて言えばこの気持ちを伝えられるのだろうか。
初めて感じたこの衝撃。
無理やり言葉で表すのなら、そう……………。
モフモフしたい。
そうです、愛でて愛でて愛で尽くしたい。
モフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフモフ…………。
はっ!
どうしたことでしょう?
いつの間にか気を失っていたようです。
なんで、自分は涎を垂らして突っ立っているのでしょうか。
何があったのか思い出せません。
なにが起こったのかわかりませんが、あまりの衝撃にセーフティーがかかったのかもしれません。
目の前には、キョトンとしてこちらを見ている二人がいた。
顔が熱い。
なぜでしょうか、この美女を見ると心がざわつきます。
あまりの美しさのせいでしょうか。
それとも、アノ、オミミノ、セイ、オミミ、ミミ、ミミ、ネコミミ…。
モ、モフ、モフ、モ、モフモフ……。
はっ。
また何かが起こってしまったようです。
いけませんね。
もしかしたら、身内に売られたという事実が自分が思っている以上に心にダメージを与えているのかもしれませんね。
ふぅ、よし、落ち着け自分。
そう言い聞かせようとしても、どうしてか目の前の美女の顔を見ると顔が熱くなります。
おそらく今自分の顔は誰が見ても分るくらい真っ赤になっていることだろう。
思わず手で顔を覆ってしまった。
これでは、まるで乙女じゃないですか。
すると、クスクスと笑い声が聞こえてきた。
恥を耐えるように指の間からチラ見します。
目の前の美女は口元に手を当てて笑っていた。
「いやー、ゴメンね。君が獣人に敵愾心を抱いていないのは分ったんだけど、まさか耳を触りたいなんてね」
そういえば、そんなことを口走っていましたね。
大丈夫です、もう落ち着きました。
今はもう大人な、もとい、老成したはずの大人メンタルを取り戻しました。
何も無かったかのように冗談で誤魔化してしまいましょう。
さあ、一息ついて、私は愉快なジェントルマンですよ。
「ダメですか」
…あれ?
大人な自制心は発揮されず、子供ボディーからは本音がダダ漏れでした。
子供ニールは何気なく聞き返したつもりだったが、美女からは上目遣いでお願いされているように見えた。
「んー、触っちゃダメってわけじゃないんだけどね」
人差し指を顎にあて、少しだけ考えた美女はにっこりと微笑みました。
「じゃー、触ってみる?」
本当ですか?
触っちゃっていいんですか?
勢いで舐めちゃっても許されますか?
いやいや、それは人としていかがなものか。
しかし、子供の悪戯なら…。
いけませんいけません。
何か、よくないものに流されるところでした。
しかし、折角なのですから…。
心の中では常識老人と好奇心老人が言い合っていましたが、いつの間にかニールの右手はピクピクと誘うように揺れる美女の耳に伸びていた。
「ダメーーーー!! 獣人が自分の耳と尻尾を触らせて良いのは好きな人だけになの!」
右手に導かれるままに歩を進めると、今まで隠れていた帽子を被った子が美女の前に立ちふさがりました。
今まで黙っていた子が突然叫んだことにびっくりしたが、美女にとっても意外なことだったようで、目を見開いています。
そんなに珍しいことだったのでしょうか。
一瞬だけ驚いた様子を見せた美女だったが、すぐに何かを思いついたのか怪しい笑みを浮かべています。
「あら、どうして?」
「…耳はとっても大切だから?」
子供はどうして触らせてはいけないのかという事までは知らないのだろう、小首をかしげて疑問調になっていた。
「べつに、私の耳なんだから良いじゃない?」
「ダメなのーー!!」
「じゃあ、エルンのならいい?」
「エルンのもダメ!」
エルンと呼ばれた子は帽子の上から頭を押さえた。
どうやら、あの帽子の下にも耳があるようです。
じゅるり。
おっと、いけません。
紳士のよだりが出るところでした。
「そっかー、じゃあ、もうエルンのこと撫で撫で出来ないのね」
美女が寂しそうに呟くと、エルンはお預けをくらったワンコのようにうなだれた。
「…ウィムお姉ちゃんは良いの」
「あら、どうして?」
「ウィムお姉ちゃんは好きだからいいの!…ウィムお姉ちゃんは、エルンのこと、嫌い?」
「いいえ、もちろん大好きよ」
不安げに上目遣いでチラチラ見上げるエルンをウィムは抱きしめ、頭を撫でた。
エルンの腰に巻きついていた狐のような尻尾はいつの間にかブンブンと揺れている。
あの尻尾も本物のようですよ。
なんてモフモフしているんだ。
どうにかして、触らせていただけないものでしょうか。
目の前で繰り広げられる三文芝居を見つめながらも、相変わらずニールの目はその耳と尻尾に夢中だった。
「ごめんね。やっぱりダメみたい」
「そう、ですか…」
ニールは決勝戦敗退で甲子園行きを逃した高校球児のようにその場に崩れ落ちた。
その様子を、ウィムは面白いものを見るようにクスクスと、エルンはゴミを見るような冷たい目で見ていた。




