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50.私は無力です。

「あの……」


 陽さん達を連れて朱さんが移動した場所は、私の職場でした。それはまあ、いいです。

 私が帰った後、ここにユズさんが泊まり込んだのかどうかはわかりませんが、ユズさんは普段から私の出勤時間にはもうここにいます。

 以前聞いた話だと、この広い協会本部の敷地内に住んでいるそうです。要するに、ここに寮のようなものがあるんですね。

 話がずれましたが。とにかく、今、目の前に広がっている光景が変です。


「なんですか、これ……?」


 そうとしか言いようがありません。

 入ることが躊躇われて、入り口で立ち尽くす私の後ろから部屋の中をひょいと覗き込んだ陽さんが、その惨状を認めて顔を引っ込めました。

 不穏な空気を感じてそちらを見れば、ポケットから虹さんを取り出して目の前にぶら下げた陽さんが顔を引きつらせています。


「こ、う、ちゃ~ん?」

 問う声には怒りが滲んでいました。

「あはは、は、はぁ……」

 虹さんは笑って誤魔化そうとして失敗したようです。笑い声はため息に変わっていました。そして、獏顔でも顔が引きつっていることがわかるくらいには表情豊かです。

「虹ちゃんが妙な部分で天才なのは知っていたつもりだったけど――」

「嫌~ねぇ。ほめたって――」

「ほめてない!」

 最後まで言わせることなく、陽さんが声を荒らげました。

 なんだか珍しい光景な気がします。確かに叫びたくなる気持ちはわかりますけどね。


「なんで。どうして。悪夢が具現化しちゃっているのよ~」


 ああ~。そういうことなんですね、この異常事態は。

 現実逃避の如く、思わずのんびりと納得してしまいましたが、そんな場合ではないですよね。


「……たぶん、偶然の産物?」


 首を傾げながら答える仕草は可愛いですけど、その言葉は無責任です。偶然の産物でこんなことになるってありえません。

 そう思ったのは、陽さんも同じみたいです。

「あんまりふざけていると、今度は簀巻きにして昼間に軒にぶら下げるよ?」

 声がいつもよりも低いです。ブラブラ揺れる虹さんは、視線をウロウロさ迷わせて、結局やり場もなく身体を縮めました。

「本当に、そんな呪いは盛り込んでないの。原因はしっかり調べてみないとわかんないわ。でも、私はそういうの苦手だから――よろしく、陽」

 しおらしく反省して見えたのは気のせいだったみたいです。虹さんは陽さんに丸投げ発言をかましました。


「…………寿庵の豆大福、で手を打つよ」


 しばし思案するように沈黙した後、陽さんはギブ&テイクな条件の提示をしました。

 それが、豆大福ということのようです。豆大福といえば、豆大福争奪戦を聖くんと繰り広げていた陽さんの姿が思い浮かぶのですが――。

「えぇ~、ここは姉妹のよしみで」

「豆大福。じゃないと、タマちゃんに今回の顛末をあることないこと交えて教えちゃうよ~?」

 やはり豆大福は偉大なようです。というか、なんだか知らない名前が出てきましたが、誰でしょうね。虹さんが必死な様子でバタバタと、たぶん正確には首を横に振っているんだと思います。

 その様子だと立派な脅しとなったようですね~。


 って、そうではなかったです。現実逃避したい気持ちに負けて、本気で目の前の光景を黙殺していました。でも、それではなんの意味もありません。

「お願い。それだけは――。豆大福で手を打つから、陽ぅ~」

 虹さんがプルプルと震えながら、陽さんに訴えています。

「五十個ね~」

 ………。

 にっこり笑っている陽さんが鬼に見えるのは私だけでしょうか。

 その豆大福五十個、もしかしなくても一人で食べる、とか。深く考えない方が良さそうです。想像するだけで胸焼けが――。

「……ぅう~、わかった。だから、お願い」

 唸りながら涙目で条件を飲んだ虹さんの姿がちょっとかわいそうになりました。ま、身から出た錆といえばその通りなんですけど。


「契約成立~」

 そう笑顔で告げた陽さんが、唐突にこちらを見ました。

 え~と、なんでしょうか。何も悪いことはしていないはずなのに、背筋を嫌~な汗が流れるような、そんな気分になりました。

「セリ。虹ちゃんを預かっていて」

 ズイッと差し出された虹さんを反射的に受け取ってから、不思議に思って首を傾げます。

「私はこれから作業に入るけど、セリはあれの傍に来ちゃ駄目だよ? 何があったとして、セリは見物人。傍観者。セリが傍にいると私の作業もやりにくいから――ごめんね、先に謝っておくよ~」

 ひらひらと手を振って離れていく陽さん。なんとも不安になるような言葉を残していきましたけど、これからいったいどうなるというのでしょう。どちらにしろ、あまり良い予感はしません。


「朱さん。何がどうなって、あんなことになっているんでしょう。ユズさんは大丈夫なんですか?」


 実はユズさんの姿が認識できません。モコモコさん達は広い部屋の隅で、香さんと一緒にいました。蓮ちゃんが香さんの頭の上に鎮座して、たまに嘴を突き刺したりしていますが、これも激しい親子のスキンシップかと思えば、ありではないかと思わなくもないです。香さんが笑顔なのもその判断に後押しをしました。

 ……髪の毛を毟られているように見えなくもないですが。あれ、痛くないんでしょか? ハゲになっていないと良いですね。


「今のところ、命に別状はありません。ただ、あれが現れてから意識は一度も戻っていませんから、このままでは――」

 沈痛な面持ちの朱さんに、かける言葉が見つかりません。ですが、手の中の虹さんは至って平常運転でした。

「そりゃ当たり前よ。悪夢が具現化しちゃっているんだから。いくら実体まではない幻だろうと精神の一部を本来ありえない形で削られちゃったら意識なんて保てないわ」


 カラカラと笑いながら解説してくれましたが、元はといえば虹さんの呪いが原因です。彼女が諸悪の根源です。それなのにそんなのんきに笑われると、こう胸の奥がムカッとすると言いますか、ね。

「セリ、よね? ちょっとその怒りの波動は引っ込めてくれない。今の私にはかなり痛いわ」

 虹さんが顔をしかめています。本気で痛そうに見えるのですが、痛いと言われても私は虹さんに対して何もしていません。握っているわけでも締めつけているわけでもなく、やんわりと手の上に持っているだけです。

「無自覚なの? そう。そうね。はぁ~。あのね、陽がなんとかするって言ったら、あの子は言葉通りになんとかする。どうにもできないとわかることは、初めからやらないの。だから、信じて待ちなさい。あなたがこれ以上荒れると、この場が乱れてしまう。そうすれば陽の作業にも支障が出るわ」


 ……私、無意識に何かを放出しているのでしょうか。作業に支障が出るのは困ります。でも、私の何がそうなのか、まったくわかりません。


 困惑しながら虹さんを見つめます。虹さんも私を見ていましたから、自然と見つめ合うような形になりました。

「本当に自覚がないのね」

 そんなあからさまに呆れた顔をしないでください。そして、徐にため息を吐かないでください。

「明は何も言わなかったの?」

 ここで唐突に明さんの名前が出てきて首を傾げます。私の様子に何か結論が出たらしい虹さんがまた、ため息を吐きました。


「まったく。こんな無防備な子、協会なんて魔窟に一人で置いておくなんて。あれだけ明が特別扱いしている割には、解せないのよね。ま、元々、よくわからない奴だけど――」


 虹さんがぶつぶつと呟いています。どうやら私の状況と明さんの対応に何かを思うところがあるようですが、働くことを望んだのは私で、ここで働くことを決めたのも私です。明さんは関係ありません。

「あの、虹さん」

 まだ何事か考えながらぶつぶつと呟いている虹さんに、私は呼び掛けます。

「なぁに?」

 不思議そうに傾げられた首と、キュルンとした瞳に私はうっと言葉を詰まらせました。うっかり何を言おうとしていたのかさえ忘れるところでしたよ。

 可愛いです。グリグリと撫で回したい可愛さです。こんな状況でなければ――と、そうです。のんきにおしゃべりしている状況ではなかったんです。


 例の悪夢はどうなったのでしょうか――。

「………」

 絶句するってこういうことを言うんだと思います。私が虹さんと会話しているほんの少しの間に何が起こったのでしょうか。

「あ~、始まったわね。久しぶりに見るわ、陽の本気」

 のんきそうな虹さんの声が聞こえます。

「こ、ここ、虹さん」

「ちょッ、苦し、い……」

 思わず力加減もせずにぎゅむっと握り締めてしまったようです。

「すみません。でも、私にもわかるように状況を説明してください」

 慌てて手から力を抜き、謝罪もそこそこに説明を求めます。そろそろ私の許容量もギリギリです。


 いつの間にか現れた巨大な獏が悪夢に対峙していました。しかも、大きな、これでもかと言えそうなほどの大口を開けて――。


 虹さんは大半が黒地で白斑の獏ですが、あの巨大な獏は大半が白地で黒斑の、虹さんとは対照的な感じです。色々な意味で。

「あの巨大獏さん、食べてますよ~!?」

 ユズさんの悪夢は白い手の集合体です。何本もの手がうねうねと空中をうねっていました。腕から先の胴体がついていない手ですが、不気味としか言いようがないです。

 それを巨大な獏が吸い込んでいます。まるで素麺をすすって食べているような光景ですが、モノがモノだけにシュールです。どこからわき続けているのか、白い手はなかなか途切れません。


「食べてないわよ。陽は、悪夢は食べない。一度、体内に取り込んで、分別してから吐き出すつもりなんでしょうよ。だから、攻撃なんてしないでよね。もししたら私があなたを殺すわよ?」

 初めは私に説明してくれていたのでしょうが、後半の言葉が妙に物騒です。

 私、そんなことしませんよ。そもそもできませんし。

 あの巨大獏は陽さん、という認識でいいのでしょうか。あれが陽さん。並行世界の不思議現象にもある程度慣れたつもりでしたが、まだまだのようです。

 虹さんの視線は私を通り越して、その後ろに向かっていました。視線をたどれば――険しい顔をした朱さんがいます。

「ユズに何かあれば、私があなた達を殺します」

 先程の言葉は朱さんに向けられたものだとわかりましたが、その言葉に対する返事がそれですか。とても殺伐とした言葉の応酬です。


 ……間に挟まれている私の身にもなってください。


「虹さんも朱さんも落ち着いてください。二人共、発言が物騒です。仲良く――できないんですね」

 どちらの視線も険しいままです。そして、それらは延長線上の私にも向けられます。

 私だって、ため息を吐きたくなる時があるんですよ。

「……陽さんは、悪夢は食べないんですか? 虹さんは悪夢を食べるんですよね?」

 私にはどうにもなりそうにない空気なので、気分的に避けておくことにしました。

 私はな~にも感じていません。空気読みませんよ~。もう、それでいいです。だから、疑問の答えをください。

「陽は夢族だから良夢を。私は夢魔族だから悪夢を。種族によって糧とするものが違うのよ。夢族が悪夢なんて食べたら、お腹を壊すのがオチね」


 ああ、なるほど。夢族と夢魔族の違いはそういうところなんですね。


「それならばなぜ、体内に取り込む必要があるのですか。ユズの心まで持っていかれては、あの子が廃人になってしまいます」

 そう問う朱さんの声は険を含んだままです。


 ……そうですよね。そんな事実があるのなら、和やかな会話を求める方が間違っていました。すみませんと心の中で朱さんに謝っておきます。とても今、口に出して謝罪していられる空気ではないので。


「それは仕方ないわよ。夢っていうのは、精神と密接に繋がっているものだもの。その境目は私達でも区別することが難しい。それが具現化しているとなればいっそうね」

 ミニ獏姿で器用に肩を竦めてみせた虹さんは、少し同情するような眼差しを朱さんに向けます。

「陽はね、自分に掛かるリスクを承知で、あの具現化した悪夢を自分の中に取り込んでいるの。それが一番、対象者の負担にならないから。それが一番、対象者を助けられる可能性が高いから。あの状態を作り出してしまった私が言うのはお門違いでしょうけど、あの子のやさしさを無下にしないでちょうだい。私達を信じて、と言っても無理でしょう。でも、セリならどう? セリの顔に免じて、今はその感情を抑えなさい」


 なんともミスマッチな虹さんの言葉です。獏の姿もですが、人型の姿を知っているだけに、妙な気分になりました。

 虹さんが大人みたいです。ここでは外見で年齢を判断してはいけないとはわかっているつもりですが、今までの発言が発言だけに意外でした。

 今の発言は先達者が年下の者を諭すものです。いえ、外見はかわいいミニ獏姿のままですが。人型になれば、ゴスロリ風な少女なんでしょうが。

 そこは気にしたら負けですね。


「それで悪いんだけど――そこの先祖返りのあなた、私を陽の所まで連れていってくれない?」


 予想外の言葉に驚きました。

 え? どうしてですか?

「それなら私が連れていきますよ?」

 現在、虹さんがいるのは私の手の上です。朱さんに頼まなくてもこのまま私が連れていけば済むことだと思うんですが。

「セリはここで待機。というか、ことが終わるまでここから先に進んじゃ駄目よ。陽の言葉を忘れたの?」

 いえいえ、忘れたわけではありませんよ。よく意味はわかりませんでしたけどね。私が側にいると作業の邪魔になるらしい、その理由が意味不明です。

 どうにも納得できなくて首を捻ります。たぶん、私の顔は消化不良な気分がそのまま表れているでしょう。

「とにかく、セリはここで待機。それがあの悪夢の持ち主と陽の命を救うと思いなさい。のんびりしている暇はないの。予想よりも状況が良くないわ。私を陽の傍まで早く連れていって」

 心持ち険しく見える虹さんの顔と真剣な声に、私はその身を朱さんに差し出しました。


 今は私の感情はそれほど重要ではありません。わからないことだらけで納得できないことが積み重なって消化不良になっていようと、それは私だけの問題です。命にも関係ありません。

「よろしくお願いします」

 虹さんは私の手から朱さんの手へと移動しました。

 私は無力です。何もできません。

 そのことに凹んでがっくりと項垂れていると、朱さんに運ばれていく虹さんから声が掛けられました。

「何かしたいと思うなら、そうね。セリは願っていなさい。悪夢の持ち主と陽が無事であることを」

 私にできることは、それだけなんですね。とても歯痒いです。


 どうして私には力がないんでしょう。いえ、明さん曰く、力はあったはずです。ただそれを使うことができないだけで――。でも、それでは無いのと同じです。役立たずです。


 と、今はそんな感情に囚われている場合ではないのでした。

 私にできることが願うことだと言うのなら、二人の無事を願いましょう。


 どうか、どうか、二人が無事でありますように。五体満足でありますように。

 神さまでも仏さまでも他の何かでもいいです。ユズさんを助けてください。陽さんを手助けしてください。お願いします。


 無意識に手を握り締めて、私は状況が良い方へと進むことを願いながら、視線の先にある悪夢を飲み込み終えた陽さんとそのお陰で見えるようになったユズさんの姿、その傍に立つ朱さんとその手の平の上にいるだろう虹さんの姿を見つめていました。




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