36.初出勤は保護者同伴でした。
私のこちらでの初出勤は、妙な幕開けとなりました。
まず、なぜか保護者同伴出勤です。まさか明さんが一緒に行くとはまったく考えてもいなかった私です。常識的に考えて、就職した先に保護者同伴で出勤する社会人がどこにいますか?
ありえないです。おかしいです。どこまで過保護なんですか!
抵抗しましたが、明さんはどこまでも明さんでした。そして――私が負けました。結局、折れたんです。
押し問答している時間が、出勤時間ギリギリまで続きました。いないものとして扱おうとしても、勝手に後についてくる者を押し止めるすべなど私にはありません。
……口も歩幅も体力も耐久力もすべて、明さんの方が上でした。無念です。
結局、押し問答再開となりましたが、それが協会本部の待合室まで続いていれば、本当に不毛としか言いようがないですよね。
私では契約内容に妙な文言や仕掛けが混ざっていても気づかないから、とか言われましたけど、文面の判断くらいできます。共通語といわれる物は日本語ですから、普通に読み書きできます。書類関係は、人間の生活圏の場合、共通語だって教えてくれたのは明さんですよ。忘れたんですか?
暖簾に腕押し、糠に釘。そんなわけで、明さんは私の隣で不遜に座っています。そして、テーブルを挟んだ向かい側には朱さんがいました。
はっきり言って、とても居心地が悪いです。
どちらも笑顔なのに、全然笑っている雰囲気がないってどういうことですか。二人の間で見えない吹雪が吹き荒れている状態です。これを私にいったいどうしろと言うんでしょうね。心臓に悪いので、止めてください。
「こちらがセリさんとの契約書になります」
そう告げて、朱さんはなぜか明さんにその書類を差し出します。
え~と。それは、私の契約書ですよね? それなのになぜ、私ではなく明さんに差し出すんでしょう。そして、なぜ明さんはさも当然というように、それを受け取っているんでしょうね。
一瞬、二人の間に火花が散ったように見えました。
火花を発生させるものはありませんし、私の目の錯覚ですよね?
私が瞬きを繰り返して見え方の確認をしている間、サラリと書面に目を通していた明さんが――それをなんの躊躇いもなく破きました。
「……ッちょ、明さん!」
さすがに、色々な意味でこの暴挙には黙っていられません。
心の中では色々思っていようとも、私はこの場で朱さんと対面した時から沈黙して場の様子を窺っていました。場の空気が悪過ぎて、私が口を開けるような雰囲気が皆無だったという我ながら情けない理由もあるのですが。
なぜだか理由はわかりませんが、朱さんは明さんが一緒にいることに何も言いませんでしたし、私と一緒に明さんがいることがわかっていたような態度をずっと取っていました。
初出勤に保護者同伴で、朱さん的には問題なかったようです。私としてはありえないことですし、本当に情けないことなんですけどね。
破られた契約書は明さんの手の平の上で炎に包まれ、消し炭すら残さずに消えました。
契約書に対する扱い方に文句はありますが、今はそれよりも明さんの手です。火種がどこだとかいう疑問は後回しにして、炎が手の平の上にあったのですから、普通に考えれば手が火傷しているはずです。
この場の状況もなんのその。明さんの手を掴んで確認します。私の手よりもずいぶんと大きな男らしい明さんの手ですが、別段変わった様子はありませんでした。火傷などまったくしている様子もなく、すべらかな肌があるだけです。
私が見た炎はいったいなんだったんでしょう。幻ですか?
でも、そうすると燃えて跡形もなく消えてしまった契約書の説明がつきません。
「俺は自分が作った炎で火傷するほど間抜けじゃない」
明さんが声同様に、呆れた顔をしています。
「自分で作ったって……そんなこともできるんですか?」
あれも魔術の一種ですか。空間転移同様、無動作無詠唱なんですね~。
先程、明さんの手の平の上にあった炎は、淡い緑色をした炎でした。あんな状況でなければ、または事情を知っていれば、のんびり眺めていたかったくらいにきれいなものだったんです。
それならそうと先に教えておいてください。本気で火傷の心配をしてしまいましたよ。
「できるが、それは今どうでも良い。それよりも正式な契約書を出せ」
明さんが上から目線で朱さんに鋭い視線を向けます。一端は緩んだはずの明さんの周りの空気が、氷点下な冷気に再び包まれました。
それなのにそれを向けられた方の朱さんは、にこやかな笑顔を崩しもしないで泰然とした様子で明さんに対峙しています。
段々、この場に私がいることが間違っているような気がしてきました。当事者の私を蚊帳の外に置いて、表面では私の契約書の話をしていますが、背面では何か別のやり取りをしています。
はっきり言って怖いです、二人供に。もっと穏やかな空気で、穏便な話し合いはできないんですか?
「お気づきでしたか?」
朱さんが静かに告げます。それは明さんの言葉を肯定するもので、差し出した契約書が偽物だったこと認める言葉でした。
本当になんでしょうね、このやり取りは。狸の化かし合いをしているようなやり取りは止めてください。せめて、私と関係無いところでやってください。
今、私の顔は引きつっていると思います。
「どうせ俺が一緒に来ることを見越して、そのための契約書を作っていただろう。俺があの一文に気づかずにセリにサインさせたならそれはそれで良し。気づいたとしても、それはそれで目的は達せられたから良し。そういうところだろうが、甘い。俺自身は協会に関わる気は微塵もない。俺を試しても無意味だ」
いったいあの破られた契約書には何が書かれていたんでしょう。明さんがガラ悪く鼻で笑います。
朱さんは笑顔を崩さないまま、新たに契約書だろう紙を取り出して、これまた明さんに差し出しました。受け取った明さんは先程と同じようにサラリと書面を確認した後、今度は私にそれを渡してくれました。
どうやらこれが、明さん曰く、正式な契約書のようです。文面をしっかり目でたどって、先日の話と齟齬がないか記憶と照らし合わせていきます。
最後まで読み終わっても、変な文章もないですし余分な文章が足されているということもありませんでした。
「これで大丈夫だと、思います?」
語尾が疑問系になったのは、明さんが意味ありげな笑みをその顔に浮かべたからです。
「わかったか?」
朱さんに向かってそう問い掛けた後、明さんは私の手から契約書を奪うと、これまた破って燃やしてしまいました。
って、ぇえ? あれが正式な契約書ではないんですか?
驚きに目を見張った私を他所に、二人は勝手に話を進めていきます。明さんはほらみろと言いたげな笑顔で、朱さんはそれとは反対に残念そうな顔をしてため息を吐いていました。
「ええ。どうやら本当にセリさんは力が使えないのですね。はっきりしましたから、諦めもつきました。試してすみません」
……二人して謀りましたね。いったい燃やされた契約書達にはどんな仕掛けがあったんですか。
内容はよくわかりませんが、騙されて良い気はしません。ムッとした気持ちが顔に出てしまったのは、私が大人げないからではないですよ。
二人の顔を交互に見て、私は口を開きます。
「説明してください」
謝罪の言葉よりも、そちらの方が先です。私には何がなんだかわからないんです。
明さんは苦笑して、ポンと軽く私の頭を撫でました。
「おまえの理解できる言葉で簡単に説明すると、一枚目は俺の反応と力の有無、お前に対する対応を見るもので、二枚目はおまえが本当に力を使えないかを確かめるためのものだった、ということだ」
「そういう騙し討ちみたいなことをされるのは嫌です」
二人して謀るなんて、本当にひどいです。こういうことは知らない方からされるより、知っている方からされる方が傷付くんですよ。
「わかっている。だが、今回ははっきりさせておくことがおまえのためだ。妙な部署に臨時だろうと駆り出されては困る」
これらのことは何か重要な意味があってされたことですか。私のため、と言われてしまうと反論がしにくいです。
「協会に良い印象をお持ちではなさそうなのに、ずいぶんと詳しいのですね?」
朱さんの声が冷ややかに響きました。笑みが消えた顔に警戒の色が浮かんでいます。
「言っておくが、俺は反協会派とは違うぞ。協会が存在してもしなくても俺には関係ないし、どうでも良いと思っているくらいだ。ただ、こいつを預ける以上はそれなりに知っておく必要があったから、情報を仕入れた。それだけのことだ」
明さんの言い分はさも事実のように聞こえましたが、たぶん半分くらいは嘘です。
私が協会で働くと決めるより前から、明さんは協会についての知識をそれなりに持っていました。ただ、情報は常に変化するものですから、どのような手段かはわかりませんが、協会の新しい情報を求めて己の知識としたのは事実のような気がします。
嘘と真実を織り混ぜて告げる、上手いやり口です。そして、役者は明さんですから、実に堂々とした態度でそれを行っています。
「そうですか。そういうことにしておきましょう。こちらもあなたのことを調べさせていただきました」
朱さんの顔には警戒の色が浮かんだままです。それを明さんは面白そうに見返しています。
「ほう。何か出てきたか?」
「あなた自身のことはまったく。ただ、セリさんの住む場所は、例の不可侵マンションのようですね。あなたのツテですか?」
「不可侵マンションね。ある意味、的を射た表現ではあるか。まあいい。忠告しておいてやる」
尊大に座ったまま、明さんがニヤリと笑いました。似合っていますけど、完全に悪役の笑いですよ、それ。
そして、なんだか話の方向がおかしくなっています。
「あそこの管理人だが、最近、協会の連中の過激な行動に辟易している。あいつ自身は基本的に穏便な性格だから、まだ自己防衛の範囲内で収めているようだが、その周りの住人達はまた違った考えでな。いい加減にしないと、そろそろ死人が出る。無駄なことは止めておけ、と連中に言っておいた方がいいぞ」
それは忠告ではなく脅しだと思います。ほら、朱さんの顔が……なぜでしょう。笑顔になっています。
「できれば、行方不明者にしておいてください。こちらとしては些か目に余る行為に、さすがに追放にするべきかと熟考していたところです」
フフフと笑う朱さんが怖いです。そして、それに笑顔を返す明さんも。
「そうか。ぜひとも死体はこちらの玄関前に放っておくよう言っておこう」
あの~、お二人供。噛み合っているんだかいないんだかよくわからない、とかく物騒な会話は止めてください。
本気で引きます。これぞ、ドン引きです。
私、早く契約書を確認してサインして、職場で仕事をしたいです。こんな寒い会話を聞いていなければならない、空気の悪い場所は早々に退出したいです。
そう口に出せる雰囲気ではなくて、切々と心の中で明さんに向けて訴えていたら、ようやく明さんがその気になってくれたらしく、話題の修正を図ってくれました。
「ま、冗談はさておき。正式な契約書はどこだ。いつまでもこんな不毛な会話を続けていても意味はないだろう」
話題の修正は願ったり叶ったりですけど、先程の言葉は本当に冗談でしたか? 本気のように私には聞こえました。
「ええ、そうですね。こちらが正式な契約書になります。今度こそ、本物です」
同意していますが、朱さんの言葉も本気に聞こえていました。お願いですから、そんなことにならないように対処してくださいよ、お二人供。
明さんが受け取った契約書をサラリと確認して、私に渡してくれます。その書面をしっかり確認しましたが、焼かれてしまった二番目の契約書とこの契約書のどこに違いがあるのかわかりません。
「これで大丈夫だと思うんですが、先程の契約書の文面と同じですよね?」
「文面は同じです。ただ、先程の契約書には術を織り込んで、使える者には別の文面も浮かんで見えるようにしてありました。試してすみません」
「そういうことですか。いえ、謝罪は不要です。持っている情報が正確かどうか確認しただけですよね。疑わしいのは私自身でしょうから」
雇う者が職場で何かした場合、雇用主の信用にも関わります。なので、疑わしい者はその事実を確かめてはっきりさせるか、初めから雇うことを止めるか。そういう判断をされてもおかしくないんです。
ただ、どんな理由だろうと試されて気分が良くなかったのは事実です。でも、ここは魔術がある世界ですし、そういう問題も色々とあるんでしょう。
結局、明さんの言葉通りのことが起きただけなんです。保護者同伴出勤が功を奏したとも言える現状が、ちょっと複雑な心境でもありますが、結果良ければすべて良しとしておきましょう。どちらにしろ、今更です。
「……この間も思いましたが、セリさんはずいぶんとまっすぐで正直な方なのですね」
「だから、こいつに荒事は向いていない。わかったか?」
朱さんの感心したような言葉に、明さんは面白くなさそうな顔をしています。
「ええ。その点も考慮しておきましょう」
朱さんが何事か考える素振りを見せた後、頷きました。
「明さん。今度こそ、サインしても大丈夫ですね?」
これでまた違ったとなれば、さすがに本気で怒りますよ。仕方ないことだったとわかっていても、騙されるように試されるのは愉快なはずもなく、これ以上は同じことをされれば、さすがに何もかも信じられなくなりそうです。
「ああ。おまえが今でもここで働きたいと思っているなら、それにサインすればいい。それで契約成立だ」
明さんの了解も出ましたし、これは本当の契約書で間違いないのでしょう。
契約書にサインするべく書く物はと探せば、朱さんが万年筆を差し出してくれました。
ありがたくそれを借りて、慣れない道具できれいに書こうと努力だけはしました。所々掠れたり歪んだり太くなっているのは、味がある文字だとでも思っておいてください。
本来はもう少しきれいな字なんですよ。使った道具が、鉛筆やシャープペンシル、ボールペンであれば。
現代日本人の若者は、万年筆なんてものを普段は使わないんです。主に、手書きの書類ならボールペン使用です。
そんなわけで、万年筆は久しぶりに使いました。小学校の授業で使ったきりです。
……明さん。笑わないでくださいよ。ひどいのは自分でもわかっています。こんなことなら、少し字の練習をしておくべきでした。
一度書いた物を消せるわけもなく、呼び名のサインを書いた契約書を朱さんに渡します。
「では、こちらを複製した物を後程お渡ししますね」
受け取った書面を確認して、朱さんがニコッと笑いました。
この笑みは契約成立に対する笑みですよね。私のサインがおかしかったからではないですよね。
なんだか妙に疑り深くなっています。これは先程の後遺症ですね。
「こちらは身分証明書になります。出歩く際はなるべく一緒に持ち歩いてください。何かあった際、迅速に身元を保証する物となっております。給金はそれに付随した口座に振り込まれますので、無くさないように気をつけてください。もし、無くした場合は悪用されることを防ぐためにも、迅速にその旨を受付に告げてください。再発行の手続きをします」
差し出された物は薄い金属板のカードでした。色も質感も違いますが、明さんからもらったカードと同じくらいの、キャッシュカードくらいの大きさのカードです。
「さて。それでは職場へとご案内しましょうか。そちらはどうされますか?」
明さんに職場まで一緒に来るのかと朱さんが問います。それに明さんがさも当然という顔をしました。
「ここまで来て、こいつの働く場所を見ないで帰ると思うか?」
普通、保護者は職場についてこないものです。根本的な部分で、明さんは間違っています。それなのに――。
「そうですか。では、行きましょう」
朱さんはずいぶんとあっさり、明さんの回答を容認しました。
え? ここってそんなにサラリと流す部分ではないはず――。
ふと思ったんですけど、そもそもこれほど大きな組織のトップがペーペーの面接を直々にして、説明して、その現場に案内するってありえないですよね。
朱さんはものすごく忙しいはずです。こういう仕事は部下の仕事、これだけの組織なら人事部だってあるはずです。
私の扱いって、もしかしてVIP対応ですか!?
恐ろしい予測がついてしまいました。今更ですが、これってきっと露さんのコネです。コネ入社なんですね、私。
……プレッシャーで胃が痛いです、気分的に。
「ほれっ、行くぞ」
ポンと頭に軽く衝撃を感じます。明さんの手です。
「心配するな。おまえはおまえであればいい」
明さんはきっと私を励まそうとしてくれているだけです。他意はないはずです。ですが、言わせていただければ――。
明さん。その顔は……その笑みは、タラシの笑みです。
本年もよろしくお願いします。




