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フィリップが前家令ハロルドとの面談記録を提出した翌日、王宮財務監査局ではヴァレンシュタイン伯爵領の管理体制について、関係部署を交えた協議が開かれた。領地の財政悪化は既に看過できない段階に達しており、使用人への給与遅延だけでなく、街道や用水路の維持管理にも支障が出ている。幸い、領地の管理者たちは現状を把握しており、王宮の支援があれば再建は可能と見られていたが、問題は伯爵邸からの指示がほとんど機能していないことだった。
「前家令の在職中は、領地からの報告に対して適切な対応が取られていたようだな」
オスカーは提出された資料を確認しながら、フィリップへ尋ねた。
「はい。退職されたハロルド殿にもお話を伺いましたが、当時は伯爵本人への報告も行われていたそうです。ただ、夫人が独自に判断されることが増え、次第に管理が難しくなったとのことでした」
「現家令については?」
「貴族家での勤務経験はなく、会計や使用人の管理について専門的な教育を受けた形跡もありません。夫人が町で偶然知り合い、直接採用されたようです」
「採用されたこと自体に問題はないが、家令として必要な業務を遂行できていないとなると話は別だな」
オスカーはそう言って、別の資料へ目を移した。
そこには、前家令が残した帳簿と現家令の就任後に作成された記録が並べられていた。以前の帳簿は年度ごとに収支が整理され、領地の維持費や使用人への給与も明確に区分されている。一方、現在の帳簿は費目の分類すら曖昧で、支出の理由が記されていないものも多かった。
「領地からの収入が減少していることに、夫人も家令も気づいていなかったのか」
「少なくとも、説明を受けて理解されている様子はありませんでした。夫人は領民の努力が足りないとおっしゃり、家令は奥様のご指示に従っただけだと繰り返しております」
「それでは、誰も管理していないのと変わらないな」
オスカーは小さく息を吐いた。今回の調査で最も厄介なのは、財政上の問題そのものより、管理責任者が問題を認識していないことだった。支出を削減するにも、領地の維持に必要な費用を確保するにも、現状を理解し、判断できる者がいなければ改善は進まない。
「アルベルト伯爵からの回答は届いているか」
「はい。現在はご実家のある領地で生活されており、王都の屋敷へ戻る意思はないとのことです。ただし、伯爵領の財政再建については協力する意向を示されています」
「そうか。では、正式に面談を申し入れよう。現在の管理権限について、本人の意思を確認する必要がある」
「承知しました」フィリップは頷いたが、続けて一通の書類を差し出した。
「それから、エリオット様の身分登録についても、隣国から正式な回答が届いております」
オスカーは書類を受け取り、内容に目を通した。
エリオットは三年前に隣国の学園を退学し、現地の商家の娘と結婚していた。婚姻に際しては商家へ婿養子として入り、貴族籍からも離れている。
さらに、既に子供が一人おり、現在は妻の実家の商売に携わっているという。
「本人の意思によるものなのだな」
「はい。父親であるアルベルト伯爵が承認した記録も確認できました。王国側の身分変更についても正式に受理されており、爵位継承資格の放棄が成立しています」
「となると、直系の継承資格者はいないということか」
「現時点で確認できる限り、そのとおりです」
オスカーはしばらく考え込んだ。ヴァレンシュタイン伯爵家の爵位は、直系に継承資格者がいない場合、王家の承認を経て傍系親族へ移ることになっている。エリオットが正式に継承権を放棄しているのであれば、次の継承資格者を確認する必要がある。
「夫人は、このことを知らないのだな」
「はい。現在も息子は隣国の名門学園に留学中で、いずれ帰国して伯爵家を継ぐとお考えのようです」
「通知は届いていたのだろう?」
「三年前に送達されており、伯爵邸の受領記録も残っています。ただ、書簡は未開封のまま書庫に放置されていました」
「……なるほど」
オスカーはそれ以上何も言わなかったが、伯爵家の管理体制がどれほど機能していないかを示すには、十分すぎる事実だった。
***
その日の夕方、アルベルト伯爵への正式な面談依頼が送られた。伯爵は数日後、王宮財務監査局を訪れることを了承したが、王都の屋敷へ立ち寄る予定はないと付け加えていた。一方、エレオノーラは王妃からの返事が届かないことに、ますます苛立ちを募らせていた。
「本当に、セレスティーヌ様ったら、どうなさったのかしら。わたくしがこれほど困っているというのに、何のお返事もくださらないなんて。昔から少しばかり負けず嫌いなところがおありだったけれど、今でもわたくしを意識していらっしゃるのね」
夫人は朝食室で紅茶を飲みながら、グレゴールへ不満を漏らした。
「王妃陛下もご公務でお忙しいのでございましょう」
「そんなことは分かっておりますわ。でも、わたくしからのお手紙なのよ。普通なら、もう少し早くお返事をくださるでしょう? それとも、長官の不始末をどう処理すべきか、お悩みなのかしら」
「その可能性もございますな」
「そうでしょうね。何しろ、あの方は王妃陛下のご親戚なのでしょう? わたくしが訴えたことで、セレスティーヌ様もお困りになっているのかもしれないわ。でも、だからといって、わたくしが我慢する必要はありませんもの」
エレオノーラは満足げに頷いた。自分が王妃へ書簡を送ったことで、王宮の中では相当な騒ぎになっているに違いない。長官も今頃は、どうすれば自分の機嫌を直せるか頭を悩ませていることだろう。
実際には、王妃は既に書簡の内容を確認しており、財務監査局から正式な報告を受けたうえで、必要な手続きに従って対応するよう指示していた。
王妃との個人的な関係を理由に調査を変更することはできないという、ごく当然の判断である。
しかし、そのことをエレオノーラが知るのは、もう少し先のことだった。
「それにしても、最近はフィリップ様もあまりお見えにならないわね。わたくしが少し厳しく申し上げたものだから、気まずくなってしまわれたのかしら」
「書庫でお仕事をなさっているようでございます」
「まあ、まだそんなことを? わたくし、必要なことはすべてお任せすると申し上げたのに、いつまで経っても終わらないのね。王宮の事務官というのも、案外仕事が遅いものだわ」
夫人は不満げにため息をついたが、すぐに別のことを思い出した。
「そうだわ。来月のお茶会には、少し若い方々をお招きしようかしら。最近は年配のご婦人方とお話ししていても、愚痴や病気の話ばかりでつまらないのよ。わたくし、まだまだ気持ちは若いものだから、どうしても話が合わなくて」
「奥様でしたら、お若い方々とも楽しくお話しになれるでしょう」
「そうなのよ。先日の夜会でも、若い騎士様がわたくしをじっと見つめていらしてね。お声をかけたら、急に慌ててしまわれたの。ふふ、ああいうところが可愛らしいのよね」
グレゴールは何度も頷いたが、夫人が話している騎士が誰なのかは知らなかった。そもそも、夫人が夜会で誰とどのような会話をしたのか、確認したこともないのである。
「それから、今度の夜会には新しいドレスを着ていきたいわ。前回のものは、どうも仕立てが気に入らなかったのよ。わたくしの体形に合うように、もっと丁寧に作っていただかなくては」
「かしこまりました」
「それに、宝石も少し新しいものが欲しいわね。最近は皆さま、随分と華やかなものを身につけていらっしゃるでしょう? わたくしだって、伯爵夫人として見劣りするわけにはまいりませんもの」
グレゴールはそこで、少しばかり困った顔をした。
「奥様、実は宝石商から、以前のお代金について催促が来ておりまして……」
「まあ、またお金のお話?」夫人はあからさまに顔をしかめた。
「あなた、本当にそればかりね。わたくしが楽しくお話ししていると、どうしていつも水を差すようなことをおっしゃるのかしら」
「申し訳ございません。ただ、支払いが滞っているとのことで……」
「そんなことは、王宮の事務官に任せればよろしいでしょう。せっかく優秀な方々がいらしているのだから、きちんと仕事をしていただかなくては。わたくしがいちいち支払いの心配をしていたら、何のためにあの方々を派遣していただいたのか分かりませんわ」
「まことに、おっしゃるとおりでございます」
「そうでしょう? それに、伯爵家が宝石を買えないなんて、そんな恥ずかしいことがあってよいはずがありませんもの。商人にも、もう少し分別を持っていただきたいわ」
夫人はそう言って、宝石商へ新しい品を持ってくるよう命じた。グレゴールは慌てて手配したが、未払い代金が残っている以上、商人が応じるかどうかは分からない。それでも、夫人の機嫌を損ねるよりはましだと考えていたのである。
***
数日後、アルベルト伯爵が王宮財務監査局を訪れた。伯爵は四十代後半の、穏やかな顔立ちをした男性だった。華美な装いは好まないらしく、上質ではあるものの控えめな礼装を身につけている。長年王都の社交界から離れていたため、オスカーとは初対面だったが、挨拶を交わすと落ち着いた態度で席に着いた。
「このたびは、領地のことでご迷惑をおかけして申し訳ございません」
「いえ、私どもは領民の生活を守るために調査を進めております。伯爵にもご協力いただければ幸いです」
「もちろんです。必要なことがございましたら、何でもお尋ねください」
オスカーは頷き、まず現在の管理体制について確認した。
「伯爵は数年前から王都の屋敷を離れておられると伺っておりますが、その間、領地の管理についてはどのように指示されていたのでしょうか」
「当初は前家令のハロルドを通じて、必要な報告を受けておりました。領地の維持費や使用人への給与についても、できる限り支障が出ないようにしていたつもりです」
「供託資産からの支払いについても、伯爵のご指示ですか」
「はい。屋敷の収支が不安定になっていることは承知しておりましたので、使用人たちが困らないよう、私個人の資産から一定額を支払うよう手配しておりました」
「その資産も、現在は残高が少なくなっております」
「そうでしょうね。長年続けられるものではないことは、最初から分かっておりました」アルベルトは静かに頷いた。
「ただ、私が屋敷を離れたことで、使用人たちに不利益が生じることだけは避けたかったのです。妻との関係がどうであれ、長年仕えてくれた者たちに責任はありませんから」
オスカーはその言葉を聞き、少し表情を和らげた。
「伯爵夫人との関係についても、確認させていただいてよろしいでしょうか。今回の調査では、当主としての権限と、今後の管理体制を明確にする必要がございます」
「承知しております」アルベルトは一度目を伏せたあと、静かに口を開いた。
「妻とは、もう長いこと別居しております。何度か婚姻関係の解消を申し入れましたが、妻が応じなかったため、正式な手続きが進まないまま現在に至っております」
「伯爵夫人は、ご夫婦の関係は良好であるとお話しになっていましたが」
「……そうですか」アルベルトは困ったように微笑んだ。
「妻は、昔から自分の望む形で物事を理解するところがありました。私が何を申し上げても、都合の悪いことは聞き入れてもらえないことが多かったのです」
「現在、王都の屋敷へ戻るご意思はございますか」
「ございません」その答えは、驚くほど明確だった。
「領地の再建については、できる限り協力いたします。ただ、妻と再び同じ屋敷で暮らすつもりはありません。今の生活を壊してまで戻ることは、私にはできません」
オスカーはそれ以上、私的な事情を尋ねなかった。伯爵の言葉には、長年の疲労と、ようやく手に入れた平穏を守ろうとする意思が感じられたからである。
ただ、アルベルトが現在、実家のある領地で一人の女性と生活をともにしており、その間に子供も生まれていることについては、別の資料から既に確認が進められていた。婚姻関係が正式に解消されていない以上、慎重な取り扱いが必要ではあったが、伯爵が王都の屋敷へ戻る意思を持っていない理由の一つであることは明らかだった。
「それから、ご子息のエリオット殿についても確認させてください」
オスカーがそう切り出すと、アルベルトは静かに頷いた。
「息子は、今では隣国で家庭を築いております。妻の実家の商売を手伝いながら、穏やかに暮らしているようです」
「婚姻と身分変更については、伯爵が承認されたのですね」
「はい。あの子自身が望んだことですから」
「爵位継承権の放棄についても?」
「もちろんです。本人の意思を確認したうえで、必要な手続きを進めました」アルベルトは少し寂しそうに微笑んだ。
「エリオットは、幼い頃から聡明な子でした。ですが、母親の期待に応えようとするあまり、随分と無理をしていたようです。隣国へ留学したのも、学問を続けたいという気持ちだけではなかったのでしょう」
「伯爵夫人は、現在も留学中だとお考えのようです」
「……そうでしょうね」アルベルトは驚かなかった。
「息子からは、正式な通知を送ったと聞いております。ただ、妻がそれを読んだかどうかまでは分かりません。あの人は昔から、自分にとって都合の悪い知らせには目を通そうとしないところがありましたから」
「ご子息は、帰国される予定はございますか」
「今のところ、ないようです。妻と子供を連れて王都へ戻ることも考えていないと聞いております」
「そうですか」オスカーは頷き、手元の資料を揃えた。
「伯爵、最後に一点だけ確認させてください。現在の伯爵家の財政状況を踏まえ、王宮としては管理体制の変更も検討しております。場合によっては、伯爵家の爵位継承についても正式な手続きを進める必要がございますが、その点についてはどのようにお考えでしょうか」
アルベルトはしばらく考えたあと、静かに答えた。
「私は、領民たちが安心して暮らせるのであれば、それが一番だと思っております。爵位や屋敷に執着するつもりはありません。ただ、長年伯爵家に仕えてくれた者たちと、領地で暮らす人々が困らないようにしていただきたい。それだけが、私の願いです」
オスカーはその言葉を聞き、深く頷いた。
「承知いたしました。王宮としても、領民の生活を最優先に考えております」
面談を終えたアルベルトは、丁寧に礼をして退出した。
その後ろ姿を見送りながら、フィリップは小さく息を吐いた。
「……伯爵夫人のお話とは、随分と違いますね」
「そうだな。ただ、夫婦の事情については、我々が判断することではない。重要なのは、当主本人の意思が確認できたことだ」
オスカーは資料を閉じた。
「これで、今後の管理体制について正式な検討を進められる。法務局とも協議し、爵位継承に関する手続きを確認してくれ」
「承知しました」
「それから、伯爵夫人にも現在の状況を説明する必要がある。これまでのように面談を拒否されるのであれば、正式な通知を送ろう」
フィリップは頷いた。
***
その日の夕方、ヴァレンシュタイン伯爵邸には、王宮財務監査局から新たな書簡が届けられた。エレオノーラは差出人を確認すると、また不機嫌そうに眉をひそめたが、封筒に記された「当主の管理権限および爵位継承に関する確認」という文字を見て、少し表情を変えた。
「まあ、爵位継承ですって? そんなこと、今さら確認する必要があるのかしら。エリオットが帰国すれば、当然あの子が継ぐのですもの」
夫人はそう言って、書簡をグレゴールへ渡した。
「あなたからも、きちんと説明しておいてちょうだい。わたくしの息子がどれほど優秀か、王宮の方々にも知っていただかなくてはね」
「かしこまりました」
グレゴールは深々と頭を下げたが、手元の書簡には、嫡男の継承資格について正式な確認が必要であると記されていた。それが何を意味するのか、二人とも理解していなかった。
エレオノーラは満足げに微笑み、次の夜会に着ていくドレスの話を始めた。息子が帰国すれば、伯爵家はますます栄えるに違いない。そうなれば、今まで自分を軽んじてきた者たちも、きっと態度を改めるだろう。
彼女はその日も、自分が誰よりも恵まれた伯爵夫人であると信じて疑わなかった。
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