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その日の夕方、オスカーのもとへ招待状と経緯を記した報告書が届けられた。長官は内容に目を通すと、しばらく考えたあと、秘書官へ辞退の返事を出すよう指示した。現在進行中の財務調査に関わる相手と、私的に会食することは適切ではない。まして、夜会での発言について事実関係を確認している最中なのだから、なおさらだった。
「伯爵夫人には、丁重にお断りしてくれ。それから、今後の連絡はすべて正式な窓口を通すように伝えてほしい」
「承知いたしました」
「招待状と家令の説明についても、記録に残しておこう。後で認識の違いが生じては困るからな」
オスカーはそう言うと、再び伯爵領の資料へ目を戻した。夫人が何を考えているのかは理解しがたかったが、彼にとって優先すべきは領民の生活を守ることであり、個人的な感情に付き合うことではなかった。
***
ところが、数日後に辞退の返事を受け取ったエレオノーラは、そのようには考えなかった。
「まあ、何ですの、これは! わたくしがせっかくお招きして差し上げたというのに、お断りになるなんて!」
夫人は書簡を机に叩きつけ、グレゴールを呼びつけた。
「長官は、わたくしを何だと思っていらっしゃるのかしら。あれほど親しくお話しして差し上げたというのに、こんなに冷たくなさるなんて。きっと、わたくしが簡単にはなびかないと思って、意地になっていらっしゃるのね」
「まことに、困ったお方でございますな」
「そうでしょう? わたくし、昔からそうなのよ。少し殿方に親切にすると、すぐに本気になられてしまうの。こちらにはそのつもりがなくても、相手が勝手に期待してしまうものだから、あとでお断りするのが大変なのよ」
グレゴールは感心したように頷いたが、夫人が長官を食事に誘い、長官から断られたという事実については、何も考えていなかった。
「それにしても、王宮の方々は本当に礼儀を知らないのね。わたくしがどれほど重要な立場にあるか、少しも理解していらっしゃらないのだわ」
エレオノーラは不満げに扇を動かしたが、やがて何かを思いついたように顔を上げた。
「そうだわ。王妃陛下に、もう一度お手紙を書きましょう。長官がわたくしをどれほど不当に扱っているか、きちんとお伝えしなくては」
「それはよろしゅうございますな」
「でしょう? わたくし、昔から筋の通らないことが大嫌いなのよ。相手がどれほど偉い方でも、間違っていることは間違っていると申し上げるべきですもの」
夫人はそう言って、便箋を用意するよう命じた。
***
その頃、王宮財務監査局では、前家令の所在が確認されていた。長年ヴァレンシュタイン伯爵家に仕えていた前家令は、現在、王都から少し離れた町で静かに暮らしているという。既に高齢ではあったが、健康状態に大きな問題はなく、王宮からの問い合わせにも応じる意思を示していた。
フィリップはその報告を受けると、早速面談の日程を調整した。伯爵家の管理体制がいつから崩れ始めたのか、そして、なぜ経験豊富な使用人たちが次々と辞めていったのか。前家令の証言によって、ようやくその経緯が明らかになるかもしれない。
面談の日、フィリップたちは王都から馬車で一時間ほど離れた町を訪れた。前家令のハロルドは、小さな庭のある家で静かに暮らしていた。既に七十歳を超えていたが、背筋は伸び、身なりもきちんと整っている。長年貴族家に仕えてきた人物らしく、訪問した事務官たちを落ち着いた態度で迎えた。
「王宮財務監査局の方が、わざわざ私のような隠居者を訪ねてくださるとは。何かお役に立てることがございましたら、できる限りお答えいたしましょう」
「ありがとうございます。ヴァレンシュタイン伯爵家の財務状況について、以前の管理体制を確認したく参りました」
ハロルドは伯爵家の名を聞くと、わずかに表情を曇らせた。
「……あのお屋敷で、何かございましたか」
「現在、王宮が財政再建の支援に入っております。過去の帳簿を確認したところ、あなたが管理されていた時期と、その後とで記録の状態が大きく異なっておりましたので」
「そうでございましたか」ハロルドは静かに息を吐いた。
「私が退職したあと、後任の方がどのように管理されているのかは存じません。ただ、私がいた頃から、少々難しい状況ではございました」
「差し支えなければ、詳しくお聞かせいただけますか」
「もちろんです。ただ、奥様を悪く申し上げたいわけではございません。その点だけは、ご理解いただければ幸いです」
フィリップは頷き、記録を取る準備をした。
ハロルドによれば、伯爵家の運営が難しくなったのは、アルベルト伯爵が王都の屋敷を離れてからだった。それ以前から夫人の要求には厳しいところがあったものの、伯爵が間に入ることで、ある程度は調整できていたという。しかし、伯爵が不在になってからは、夫人の指示が直接使用人へ下されるようになり、その内容も次第に無理なものが増えていった。
「奥様は、ご自分の考えを大切になさる方でございました。ですが、昨日と今日で指示が変わることも珍しくなく、変更されたことを覚えていらっしゃらない場合もございました。使用人が以前の指示に従えば、なぜ勝手なことをしたのかと叱責され、新しい指示に従えば、そんなことは頼んでいないとお怒りになる。私どもも、できる限り記録を残すようにしておりましたが、それでも難しいことが多かったのでございます」
「使用人の退職が増えたのも、その頃からですか」
「はい。特に若い者たちは、随分と苦労しておりました。奥様はご自分が厳しく教育しているおつもりだったのでしょうが、何をしても叱られ、何が正しいのか分からなくなってしまう者もおりました。中には体調を崩し、医師の診察を受けることになった者もおります」
ハロルドはそこで一度言葉を切り、申し訳なさそうに目を伏せた。
「私がもっと早く何とかできていれば、あの者たちに辛い思いをさせずに済んだのかもしれません」
「採用についても、難しくなっていたと伺っております」
「ええ。最初のうちは、伯爵家での奉公を希望する者もおりました。しかし、辞めていった者たちから事情が伝わるにつれ、応募が減ってしまいまして。下級貴族の子弟や、貴族家での勤務経験を持つ者からの応募は、最後の頃にはほとんどございませんでした」
「そのことは、伯爵夫人にも報告されたのですか」
「何度も申し上げました。ですが、奥様は私の採用能力が低いからだとお考えで、もっと優秀な人材を探してくるようにとおっしゃるばかりでした。条件を改善することや、使用人の負担を減らすことも提案いたしましたが、奥様はご自分ほど寛大な主人はいないと信じておられましたので……」ハロルドは困ったように微笑んだ。
「結局、私自身も体調を崩してしまい、年齢を理由に退職をお願いしたのでございます。長年お世話になった伯爵家を離れるのは心苦しいことでしたが、あのままでは、私もこれ以上務めを果たせなかったでしょう」
フィリップは記録を取りながら、静かに頷いた。
「退職後、伯爵家から何か連絡はありましたか」
「いいえ。ただ、一度だけ、奥様からお茶会の招待状が届いたことがございます」
「お茶会、ですか」
「ええ。長年仕えた家令を快く引退させてあげたので、感謝を伝える機会を設けてくださるとのことでした」ハロルドは少し苦笑した。
「ありがたいお話ではございましたが、体調を理由に辞退いたしました。それ以来、連絡は取っておりません」
フィリップはそれ以上、夫人について尋ねなかった。ハロルドの話は、これまでの調査で判明した事実とよく一致していた。少なくとも、前家令の退職が単なる年齢の問題ではなかったこと、そして使用人の採用が難しくなった原因が、伯爵家の内部にあったことは明らかだった。
「貴重なお話をありがとうございました。最後に一点だけ、確認させてください。アルベルト伯爵が屋敷を離れられたあと、領地の管理については、どなたが最終的な判断をされていたのでしょうか」
「当初は、伯爵様から書面でご指示をいただいておりました。ただ、奥様がご自分で判断なさることも増えまして、次第に伯爵様への確認が難しくなっていったのでございます」
「伯爵様と連絡が取れなくなったのですか」
「いいえ、連絡そのものは取れておりました。しかし、奥様は伯爵様へ相談する必要はないとおっしゃることが多く、私が直接お伺いを立てることを快く思われませんでした。何かあるたびに、わたくしを信用できないのかとお怒りになるものですから……」ハロルドはそこで言葉を濁した。
「それでも、領地の維持に関わることだけは、できる限り伯爵様へ報告しておりました。私が退職する際にも、管理体制については申し送りをしております」
「その記録は、伯爵邸に残されていますか」
「私が作成したものは、執務室の書棚に保管しておりました。ただ、現在も残っているかどうかは分かりません」
フィリップは礼を述べ、面談を終えた。
帰りの馬車の中で、同僚がぽつりと呟いた。
「……よく四十年近く勤められたものだな」
「そうだね。ただ、あの人が辞めたことで屋敷が急におかしくなったというより、あの人がいたから何とか持ちこたえていたんだろう」
「それで、後任が今の家令か」
「少なくとも、前家令と同じ仕事を任せられる人物ではないことは確かだね」
フィリップは窓の外へ目を向けた。
伯爵家の財務を立て直すには、帳簿の整理だけでは足りない。領地の管理を正常に戻し、必要な支出を確保し、使用人が安心して働ける環境を整える必要がある。そのためには、夫人と家令がこれまでのやり方を改めなければならないのだが、二人にその意思があるとは思えなかった。しかも、王宮の調査が進むにつれ、財務以外にも確認すべき問題が増えている。伯爵本人は長年屋敷を離れ、嫡男についても現在の身分を確認する必要があった。
フィリップは手元の記録を見直し、王宮へ戻ったら長官へ報告しようと考えた。
***
その頃、ヴァレンシュタイン伯爵邸では、エレオノーラが二通目の王妃宛ての書簡を書き上げたところだった。
「これで、セレスティーヌ様にもきちんと分かっていただけるでしょう。わたくしがどれほど理不尽な扱いを受けているか、詳しくお伝えしましたもの」
夫人は満足げに微笑み、封蝋を押した。
「本当に、わたくしほど我慢強い人間も珍しいわ。普通の方なら、とっくに怒っていらっしゃるでしょうに」
グレゴールは深々と頭を下げた。
「まことに、奥様のお心の広さには感服いたします」
エレオノーラはその言葉に満足し、優雅に扇を広げた。
自分が王宮の正式な調査を妨げ、長官への私的な要求を繰り返していることなど、少しも気にしていなかった。むしろ、王妃へ直接働きかけることで、自分の立場を有利にできると信じていたのである。
しかし、彼女が書簡を重ねる間にも、王宮では伯爵家の管理権限についての調査が進められていた。夫人が当然のように自分のものだと思っている伯爵家の屋敷も、領地も、そもそも誰の権限によって管理されるべきなのか。その確認が、まもなく始まろうとしていた。
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