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オスカーは穏やかに尋ねた。「私について、ですか?」
「ええ。フィリップ様が、わたくしとあなたが親しくなれば、いろいろと都合がよくなるとおっしゃっていたのよ」
オスカーは、すぐには答えなかった。
周囲には同僚の高官や貴族たちが数人おり、夫人の声は彼らにも十分聞こえていた。
「……それは、どのような意味でしょうか」
「まあ、そんなことまでお聞きになるの?」エレオノーラは楽しそうに笑った。
「わたくし、こう見えても主人のある身ですのよ。あまり困らせないでくださいませ」
その場にいた貴族の一人が、手にしていた杯をゆっくりと下ろした。
オスカーは表情を変えず、もう一度確認した。
「伯爵夫人。私の部下が、あなたと私の私的な関係について何か申し上げたということでしょうか」
「まあ、私的だなんて。そんなにはっきりおっしゃらなくてもよろしいのに」夫人は頬に手を当てた。
「でも、わたくしも、あなたのような立派な殿方でしたら、少し考えてしまいますわ。主人には申し訳ないけれど、こればかりは仕方ありませんものね」
近くにいた侯爵夫人が、驚いたように目を見開いた。オスカーの同僚も、何か言いかけて口を閉じた。
しかし、エレオノーラは周囲の反応を、自分と長官の会話に興味を持っているためだと思っていた。
むしろ、これほど人目を引くのなら、長官も自分との関係を特別なものとして意識しているに違いない。
「それにしても、あなたも随分とお若いのね。わたくし、もう少し年上の方かと思っておりましたわ。でも、年齢などあまり関係ありませんでしょう? わたくしも昔から、年下の殿方には随分と慕われておりますのよ」
オスカーは、静かに口を開いた。
「伯爵夫人。まず、誤解があるようですので申し上げますが、私は既婚者です。妻も子供もおります」
「あら!」エレオノーラは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに微笑みを取り戻した。
「まあ、そうでしたの。でも、わたくしだって主人がおりますもの。お互い、立場というものがありますわね」
「そういう意味ではございません」
「ふふ、分かっておりますわ。人前では、あまり親しくなさるわけにもまいりませんものね」
オスカーは、夫人の言葉を聞いてわずかに眉を寄せた。
「伯爵夫人、私が申し上げているのは、あなたと私の間に私的な関係を持つ意思はないということです。部下の発言についても、事実関係を確認する必要があります」
「まあ、そんなに真剣になさらなくてもよろしいのよ。わたくし、あなたを困らせるつもりなんてありませんもの」
「では、その部下の発言について、後日改めて確認させていただきます」
「ええ、もちろん。でも、あまりフィリップ様を叱らないで差し上げてね。あの方も、きっとわたくしたちのことを考えてくださったのでしょうから」夫人は満足げに微笑んだ。
オスカーは丁寧に一礼すると、同僚たちとともにその場を離れた。その後ろ姿を見送りながら、エレオノーラは扇の陰で小さく笑った。
「まあ、なんて真面目な方なのかしら。きっと、人前であんなお話をされて驚いてしまわれたのね」
ところが、周囲の貴族たちは、まったく別のことを考えていた。
「……今の、お聞きになった?」
「ええ。レインフォード長官に、あのようなお話をなさるなんて」
「奥様がいらっしゃることもご存じなかったようですわね」
「それだけではありませんわ。レインフォード家が王妃陛下のご親戚だということも、ご存じないのではなくて?」
「まさか。貴族名鑑に載っておりますのよ」
「でも、あのご様子では……」貴婦人たちは顔を見合わせた。
エレオノーラはその視線に気づき、内心で得意になっていた。きっと、自分が長官と親しく話していたことが気になるのだろう。何しろ、あれほど若く優秀な男性が自分に関心を寄せているのだから、羨ましく思うのも無理はない。夫人は上機嫌で会場を歩き始めたが、ほどなくして、先ほどの侯爵夫人に呼び止められた。
「ヴァレンシュタイン伯爵夫人、少しよろしいかしら」
「まあ、何でしょう?」
「先ほどのレインフォード長官とのお話ですが……少々、誤解があるのではなくて?」
「誤解?」エレオノーラは不思議そうに首を傾げた。
「長官は奥様を大切になさっていることで知られておりますし、王妃陛下ともご親戚にあたる方ですわ。あまり軽々しく、あのようなお話をなさらないほうが……」
「まあ!」夫人の表情が一変した。
「あなたまで、わたくしに意地悪なさるの?」
「いいえ、そういうつもりでは……」
「わたくしが長官と親しくお話ししていたからといって、そんなにお気になさらなくてもよろしいでしょう? わたくし、昔からそうなのよ。少し殿方に親切にされただけで、周囲のご婦人方からいろいろと言われてしまうの」
侯爵夫人は困ったように眉を寄せた。「伯爵夫人、わたくしはただ……」
「もう結構ですわ。ご忠告はありがたく頂戴いたしますけれど、わたくしも子供ではありませんもの。殿方とのお付き合いくらい、自分で判断できますわ」
夫人はそう言い捨てると、侯爵夫人の返事も待たずに立ち去った。その背中を見送りながら、侯爵夫人は小さくため息をついた。
「……余計なことを申し上げたかしら」
隣にいた友人が、静かに首を振った。「いいえ。あの方には、何を申し上げても同じでしょう」
一方、オスカーは会場を離れたあと、同僚にフィリップの発言について確認するよう指示していた。
「本人がどのような意図で話したのか、まずは事実を確認してくれ。伯爵夫人の発言については、同席していた者の記憶が新しいうちに記録を残しておきたい」
「承知しました。しかし、長官。あの夫人は、どうやら相当な誤解をされているようですが……」
「そのようだな。私的な話だけならまだしも、部下の発言として公の場で話された以上、放置するわけにはいかない」
「王妃陛下のお耳に入る可能性もございますね」
オスカーは少し考えたあと、首を振った。
「今の段階で陛下を煩わせる必要はない。ただし、伯爵領の調査とは分けて、経緯を明確にしておこう。職務上の判断に私情が介在したと疑われるようなことがあっては困る」
同僚は頷いた。
「それにしても、あの夫人は長官のご家族についてもご存じなかったようですね」
「知らないこと自体は問題ではない。問題なのは、確認もせずに他人の発言を自分に都合よく解釈し、それを公の場で口にしたことだ」
オスカーはそれ以上、夫人について語ろうとはしなかった。彼にとって重要なのは、伯爵領の財政を立て直し、領民たちへの影響を最小限に抑えることである。夜会での奇妙な出来事に、必要以上の時間を費やすつもりはなかった。
***
しかし、エレオノーラは違った。夜会から戻った彼女は、グレゴールを呼びつけるなり、興奮した様子で長官との会話を語り始めた。
「まあ、グレゴール! 聞いてちょうだい。今夜、オスカー長官とお話ししたのだけれど、とても素敵な方だったわ。少し真面目すぎるところはあるけれど、わたくしには随分と丁寧に接してくださったのよ」
「それは何よりでございます」
「ただね、周囲の方々がまた意地悪をなさるの。わたくしが長官と親しくしているのが、よほど気に入らないみたいで」
「また嫉妬でございますか」
「そうなのよ! わたくし、別に何もしておりませんのに。長官のほうだって、わたくしとのお話を楽しんでいらしたのよ。それなのに、あの侯爵夫人ったら、余計な忠告までしてくるの。まったく、失礼でしょう?」
「奥様のご交友に口を出すとは、困った方でございますな」
「ええ。本当に、わたくしの周りには嫉妬深い方ばかり。どうして皆さま、素直に人の幸せを喜べないのかしら」夫人は深いため息をつき、鏡に映る自分を見つめた。
「でも、仕方ありませんわね。わたくしが美しくて、優秀で、殿方からも慕われているのは事実ですもの。そんなことでいちいち気にしていたら、きりがありませんわ」
グレゴールは、いつものように奥様のおっしゃるとおりでございます、と答えた。
ところが翌朝、王宮財務監査局から届いた一通の書簡が、夫人の機嫌を一変させることになる。そこには、前夜の発言について事実関係を確認したい旨が、極めて丁寧な言葉で記されていた。
エレオノーラは最初こそ、長官が自分との会話を気にかけているのだと喜んだ。しかし、書簡を読み進めるうちに、部下の発言内容と夫人自身の認識について正式な確認を求められていることが分かると、みるみる顔色を変えた。
「……何ですの、これは!」夫人は書簡を机に叩きつけた。
「まるで、わたくしが何か間違ったことを申し上げたみたいではありませんの! あの方、わたくしに恥をかかせるおつもり?」
グレゴールは慌てて書簡を拾い上げた。「奥様、何かございましたか」
「何かございましたか、ではありませんわ! 長官が、わたくしの言葉を疑っていらっしゃるのよ。わたくしほどの者が、嘘をつくとでも思っていらっしゃるのかしら!」
「それは失礼なことでございますな」
「そうでしょう!? わたくしが親切にお話しして差し上げたというのに、こんな仕打ちを受けるなんて。やっぱり、あの方も周囲の嫉妬深い方々に何か吹き込まれたのね」
夫人はしばらく怒りを露わにしていたが、やがて何かを思いついたように顔を上げた。
「そうだわ。王妃陛下にお話しすればよいのよ」
「王妃陛下に、でございますか?」
「ええ。セレスティーヌ様とは学院時代からのお付き合いですもの。わたくしがどれほど誠実な人間か、よくご存じのはずだわ。それに、長官は王妃陛下のご親戚なのでしょう? でしたら、きちんとお話ししていただけばよろしいのよ」
グレゴールは感心したように頷いた。「さすが奥様。まことに名案でございます」
「そうでしょう? わたくし、昔からこういうことには頭が回るのよ。皆さま、わたくしを甘く見すぎなのだわ」
夫人は満足げに微笑むと、早速王妃宛ての書簡を用意するよう命じた。その内容が、王妃との親密な関係を一方的に主張し、王宮財務監査局長官の不適切な対応を訴えるものになることを、グレゴールは少しも疑問に思わなかった。
そして、王妃への私的な申し出と王宮の正式な職務に対する苦情を混同することが、どれほど危険な行為なのかも、二人は理解していなかった。
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