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秋の大夜会を翌日に控えたヴァレンシュタイン伯爵邸では、朝からエレオノーラの怒鳴り声が響いていた。
「どういうことなの! 明日着ると言っておいたでしょう? それなのに、まだ仕上がっていないだなんて、わたくしに恥をかかせるおつもり?」
夫人の前では、仕立屋の女主人が困り果てた顔で頭を下げていた。注文されたドレスは既に仕上がっていたのだが、昨日になって夫人が胸元の飾りを変更するよう命じたため、予定どおりの納品が難しくなったのである。
「奥様、当初ご注文いただいた形でしたら、すぐにでもお納めできます。ただ、昨日お申し付けいただいた飾りにつきましては、職人の手配が必要でございまして……」
「まあ、言い訳ばかり! わたくしがお願いしたことを、どうしてきちんとできないのかしら。昔はもっと腕のよい職人が揃っていたものよ。わたくしが若い頃なんて、どこの仕立屋も競って衣装を作りたがったものですわ」
「申し訳ございません」
「それに、あなたのお店も随分と繁盛したでしょう? わたくしが長年贔屓にして差し上げたおかげなのだから、少しくらい無理を聞いてくださってもよろしいのではなくて?」
女主人は何か言いかけたものの、結局口を閉じた。ヴァレンシュタイン家からの支払いは半年近く滞っており、これ以上注文を受ければ店の経営にも影響が出かねない。以前なら伯爵家との取引は名誉なことだったが、今では同業者の間でも、できれば関わりたくない相手として知られていた。
「それで、明日までに仕上げていただけるの?」
「……できる限りのことはいたします。ただ、追加の装飾につきましては、材料費だけでも先にお支払いいただけませんでしょうか」
「まあ!」夫人は大げさに胸元へ手を当てた。
「わたくしを信用なさらないの? 伯爵家に向かって前払いを求めるなんて、ずいぶん失礼なことをおっしゃるのね。あなたのお店は、いつからそんなに偉くなったのかしら」
「決してそのようなつもりではございませんが……」
「もう結構よ。グレゴール、この方にきちんとお話しして差し上げて。わたくし、これ以上不愉快な思いをしたくありませんの」
呼ばれたグレゴールは、女主人に向かって重々しく頷いた。
「奥様は明日の夜会を大変楽しみにしておられる。何とかご期待に沿っていただきたい」
「ですが、家令様。以前のお代金もまだ頂戴しておりませんので……」
「支払いについては王宮の事務官が確認しているところだ。近いうちに何とかなるだろう」
「それは、王宮が代金をお支払いくださるということでしょうか」
「いや、そこまでは聞いておらんが、何しろ王宮から人が来ているのだから、心配することはあるまい」
女主人は目を伏せた。王宮の事務官が伯爵家に入ったという噂は、既に王都の商人たちの間にも広まっている。普通なら取引を慎重に見直すべき状況であり、支払いが保証されたと考える者などいない。
結局、女主人は追加の装飾を断り、当初の注文どおりに仕上げたドレスを納めることにした。夫人は最後まで不満を言い続けたが、ほかに用意できる衣装もないため、渋々受け取ったのである。
***
翌日の夕刻、エレオノーラは鏡の前で満足そうに微笑んでいた。淡い桃色のドレスには銀糸の刺繍が施され、胸元には大粒の宝石を飾っている。もっとも、背中の留め具は少しきつく、腰回りにも不自然な皺が寄っていたが、夫人は自分の体形に問題があるとは考えなかった。
「やっぱり、この色にして正解だったわね。わたくし、昔から淡い色がよく似合うのよ。若い令嬢たちと並んでも、きっと見劣りしないでしょうね」
「奥様の美しさには、どなたも敵いますまい」
グレゴールが褒めると、夫人は嬉しそうに扇を広げた。
「まあ、そんなことを言ってはいけませんわ。若い方には若い方のよさがありますもの。ただ、年齢を重ねても美しさを保つには、それなりの努力が必要なのよ。わたくしのようにね」
その傍らで、侍女はドレスの背中にできた皺を直そうとしていたが、夫人が身じろぎするたびに布地が引っ張られ、なかなか思うように整わなかった。
「ちょっと、何をしているの? さっきから同じところばかり触って。そんなに難しい仕事かしら」
「申し訳ございません。少し布地が引きつれておりまして……」
「それはあなたの着せ方が悪いからでしょう。もう結構よ。これ以上触らないでちょうだい」
侍女は手を引っ込めた。夫人は鏡の前でくるりと回り、満足そうに頷いたが、背中の皺はそのまま残っていた。
王宮の大広間には、既に多くの貴族が集まっていた。華やかな衣装をまとった令嬢や夫人たちが談笑し、楽団の奏でる音楽が高い天井へ響いている。エレオノーラは会場に入るなり、周囲の視線が自分に集まっていることに気づき、誇らしげに背筋を伸ばした。実際には、彼女の衣装に目を留めた者の多くが、その不自然な皺や、若い令嬢向けの意匠に少々驚いていただけなのだが、夫人にとって視線を集める理由は一つしかなかった。
「まあ、ヴァレンシュタイン伯爵夫人。今夜も華やかでいらっしゃいますこと」
声をかけてきたのは、以前から顔見知りの伯爵夫人だった。
「おほほ、ありがとうございます。こちらのドレス、特別に仕立てさせましたのよ。わたくし、昔からこういう色が似合うと言われておりますの。もっとも、若く見えすぎてしまうのが少々困りものですけれど」
「……そうですのね」
「あなたも、もう少し明るい色をお召しになればよろしいのに。年齢を重ねると、つい地味なお色を選びがちでしょう? でも、わたくしはそういうのはよくないと思いますの。気持ちまで老け込んでしまいますもの」
相手の伯爵夫人は、エレオノーラより五歳ほど年下だったが、穏やかに微笑むだけで何も言わなかった。
「それでは、失礼いたしますわ。あちらに知人がおりますので」
「あら、そう。ごきげんよう」
エレオノーラは去っていく後ろ姿を見送り、扇の陰で小さくため息をついた。
「本当に、皆さま気になさるのね。わたくしが若々しいからといって、そんなに意識なさらなくてもよろしいのに」
その頃、会場の一角では、先ほどの伯爵夫人が友人に小声で話しかけていた。
「ヴァレンシュタイン伯爵夫人、今夜もずいぶんお若い方向けのドレスをお召しでしたわ」
「あら、ご覧になったの? わたくし、遠目にはどちらのご令嬢かと思いましたのよ。近づいてみて驚きましたわ」
「まあ、あなたったら」
二人は扇で口元を隠したが、話題はすぐに別のことへ移った。エレオノーラについて、長々と語り合うほどの関心はなかったのである。
一方、当のエレオノーラは、今夜の目的を忘れていなかった。王宮財務監査局のオスカー長官と親しくなること。それが実現すれば、伯爵家の面倒な会計問題も、今よりずっと簡単に片づくに違いない。
「オスカー・レインフォード様……確か、まだお若い方なのよね」
夫人は会場を見回し、王宮の高官らしい男性を探した。もっとも、相手の顔を知らないため、誰が長官なのか見当もつかない。
そんなとき、少し離れた場所で、数人の貴族が一人の男性を囲んで談笑しているのが目に入った。
三十代前半と思われる男性は、落ち着いた濃紺の礼装を身につけ、相手の話に穏やかに耳を傾けていた。端正な顔立ちに、年齢のわりに堂々とした立ち居振る舞いが印象的である。
「あの方、どなたかしら」
近くにいた若い令嬢へ尋ねると、令嬢は少し驚いたように答えた。
「レインフォード長官でいらっしゃいますわ。王宮財務監査局のオスカー・レインフォード様です」
「まあ、あの方が!」エレオノーラの目が輝いた。
「ずいぶんお若いのね。もっと年配の方かと思っておりましたわ」
「ええ。若くして長官に就任された、大変優秀な方だと伺っております」
「そうでしょうね。やはり、優秀な方というのは、自然と人の上に立つものですもの。わたくしも昔から、周囲の方々に頼られてばかりでしたわ」
令嬢は曖昧に微笑んだが、エレオノーラは既に長官のほうへ意識を向けていた。
「ところで、あの方とはお親しいの?」
「いいえ、わたくしはご挨拶をしたことがある程度ですわ。ただ、父がレインフォード家とはお付き合いがございますので」
「まあ、そうなの。では、少しご紹介いただけるかしら」
「ええと……長官は今、お仕事のお話をされているようですので、後ほどのほうがよろしいかと」
「まあ、そんなに遠慮なさらなくてもよろしいのよ。わたくし、王宮の方々とは昔からご縁がありますもの」
夫人はそう言うと、令嬢の返事も待たずに長官のほうへ歩き始めた。
その様子を見送った令嬢は、困ったように眉を寄せた。
「……あの方、レインフォード長官をご存じなかったのかしら」
隣にいた友人が首を傾げる。「王妃陛下のご親戚でいらっしゃるのに? それに、奥様とは先日の慈善晩餐会でもご一緒だったでしょう」
「ええ。あの方の奥様、とてもお綺麗でいらっしゃったわね。お子様もお二人いらっしゃるのでしょう?」
「そう伺っておりますわ。ご夫婦仲もよろしいそうで、先月もご家族で領地へお出かけになったとか」
二人はそれ以上、特に気に留めなかった。まさかエレオノーラが、既婚者である長官に妙な期待を抱いているなどとは思いもしなかったのである。
***
オスカーはちょうど、財務監査局の同僚と今後の予定について話していたところだった。
「長官、ヴァレンシュタイン伯爵領の件ですが、現地から追加の資料が届いております。やはり管理体制に相当な問題があるようです」
「そうか。領民への影響については?」
「街道の補修が遅れているほか、用水路の維持費も不足しているとのことです。現地の担当者は改善を求めておりますが、伯爵邸からは返答がないそうです」
「分かった。週明けに改めて確認しよう。必要であれば、領地の管理者とも直接話をする」オスカーは静かに頷いた。
ヴァレンシュタイン伯爵家の財政悪化は、単なる一貴族家の浪費では済まない問題になりつつあった。領地の管理が機能しなければ、困るのはそこで暮らす領民たちである。王宮としては、できる限り早く改善策を講じる必要があった。
そこへ、聞き慣れない甲高い声が割り込んできた。
「まあ、オスカー長官!」
振り向くと、淡い桃色のドレスをまとった年配の婦人が、満面の笑みで近づいてくるところだった。
「初めまして。わたくし、ヴァレンシュタイン伯爵夫人のエレオノーラと申しますの」
オスカーは一瞬、相手の名前を確認するように目を細めたが、すぐに礼儀正しく一礼した。
「ヴァレンシュタイン伯爵夫人。お目にかかれて光栄です」
「まあ、そんなに堅苦しくなさらなくてもよろしいのよ。わたくし、あなたの部下の方々には、いつも大変お世話になっておりますの」
「そう伺っております。調査へのご協力、ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ。皆さま、とても熱心でいらっしゃるのね。特にフィリップ様は、何度もわたくしに会いにいらしてくださるのよ。ふふ、少し照れ屋さんのようですけれど」
オスカーは、夫人の言葉に少し違和感を覚えたものの、表情には出さなかった。
「フィリップは今回の調査を担当しておりますので、確認事項が多いのでしょう。ご負担をおかけしているかもしれませんが、引き続きご協力をお願いいたします」
「まあ、ご負担だなんて! わたくし、若い方のお相手をするのは慣れておりますもの。それに、フィリップ様からも、いろいろとお話を伺っておりますのよ」
「そうですか」
「ええ。実は、あなたについても、少し興味深いお話を聞きましてね」
エレオノーラは扇で口元を隠し、意味ありげに微笑んだ。
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