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王宮から派遣された事務官たちが伯爵邸で調査を始めて十日ほど経った頃、ヴァレンシュタイン家の財務状況は、当初の予想を大きく下回るものであることが明らかになっていた。
領地からの収入はここ数年減少を続けていたが、原因は天候不順や不作ばかりではなかった。
農業用水路の補修が後回しにされ、収穫物を運ぶ街道の整備も滞っていたため、以前なら問題なく市場へ出荷できた作物が、途中で傷んでしまうことも増えていたのである。領民たちは何度も改善を求めていたものの、その報告書は伯爵邸の書庫に積まれたまま、誰の目にも留まっていなかった。
一方で、夫人の衣装代や宝飾品の購入費、夜会のための支出はほとんど減っていない。
領地からの収入が減れば、本来なら支出を見直す必要があるのだが、エレオノーラにはそのような考えがなかった。むしろ、収入が減ったのは領民たちの働きが悪いからであり、自分が不自由を強いられる理由にはならないと考えていたのである。
「つまり、領地の維持に必要な支出を削って、屋敷の費用を優先していたということか」
帳簿を確認していた同僚の言葉に、フィリップは渋い顔で頷いた。
「それだけじゃない。前家令がいた頃は、領地の収入から維持管理費を確保して、残りを屋敷の運営に回していたようだ。ところが今は、入ってきた金をそのまま支払いに使っている。どの費用を優先すべきかという判断すらされていない」
「家令は何をしていたんだ?」
「本人に聞いても、奥様のご指示に従っていたとしか答えない。支出を承認した夫人に確認しようとしても、細かいことは家令に任せていると言われる。これでは話が進まないよ」
フィリップは机に広げた帳簿を見つめ、ため息をついた。今回の派遣は、財政危機に陥った伯爵領を立て直すためのものであり、領地を没収することが目的ではない。王宮としても、できる限り現行の管理体制を維持しながら改善を進めたいと考えていた。領地の管理権が突然移れば、領民たちの生活にも少なからず影響が出るからである。
しかし、管理責任者が現状を理解せず、改善する意思も示さないとなれば、王宮として取れる手段は限られてくる。
「まずは夫人に、支出の見直しについて正式に説明しよう。家令にも同席してもらって、今後の支払いについて確認する必要がある」
「分かった。資料をまとめておくよ」
その日の午後、フィリップたちは伯爵夫人との面談を申し入れた。
***
エレオノーラは、事務官たちが自分と話したがっていると聞いて、たいそう機嫌をよくした。
これまでも何度かフィリップから帳簿について説明を求められていたが、彼女にとっては難しい数字の話より、若い青年が何度も自分に会いに来るという事実のほうが重要だった。
「まあ、フィリップ様。またわたくしにお会いになりたいの? そんなに遠慮なさらなくても、いつでもいらしてくださってよろしいのに」
「ありがとうございます。本日は伯爵家の支出について、ご相談したいことがございます」
「ええ、何でもおっしゃって。わたくし、若い方から相談されることには慣れておりますのよ。昔から、皆さまわたくしを頼りになさるものだから」
夫人は嬉しそうに微笑み、わざわざ自分の隣の椅子を勧めたが、フィリップは向かい側の席に腰を下ろした。同席した事務官が資料を並べ、グレゴールも夫人の後ろに控える。
「まず、こちらをご覧ください。過去三年間の領地収入と支出をまとめたものです。現在、領地からの収入では必要な経費を賄えておらず、このままでは領地の維持管理にも支障が出ます」
「まあ、そうなの。でも、王宮から皆さまがいらしたのでしょう? でしたら、もう心配はいりませんわね」
「いえ、私どもは財政状況の調査と改善支援のために派遣されております。王宮が伯爵家の支払いを肩代わりするわけではございません」
「もちろん、そんなことは分かっておりますわ。わたくしだって、王宮にお金を出していただこうなどとは思っておりませんもの。ただ、あなた方がきちんと管理してくださればよろしいのでしょう?」
「管理の方法については助言いたしますが、伯爵家の支出を決定し、実行する責任は引き続き管理権限を持つ方にございます」
「まあ、難しいことをおっしゃるのね。結局、わたくしは何をすればよろしいの?」
フィリップは用意した資料を一枚めくった。
「当面は、緊急性の低い支出を控えていただく必要があります。特に衣装や宝飾品、夜会に関する費用については、領地の財政が安定するまで見直していただきたいと考えております」
その言葉を聞いた途端、エレオノーラの表情が変わった。「……今、何とおっしゃったの?」
「衣装や夜会に関する支出の見直しをお願いしたいと申し上げました」
「まあ! わたくしに夜会へ出るなとおっしゃるの?」
「いいえ、そうではございません。現在の収入に見合った支出に抑えていただきたいということです」
「同じことではありませんの! わたくしは伯爵夫人ですのよ。社交界でのお付き合いも大切なお務めなのですから、みすぼらしい格好で出席するわけにはまいりませんわ。それとも、王宮は伯爵家の名誉などどうでもよいとお考えなの?」
「伯爵家の名誉を軽んじる意図はございません。ただ、現在は領地の維持に必要な費用が不足しておりまして」
「それなら、領地の方々にもっと働いていただけばよろしいでしょう。わたくしだって、毎日これほど忙しくしているのよ。皆さまにも少しは努力していただかなくては」
同席していた事務官が、思わずフィリップへ視線を向けた。領民たちが怠けているから収入が減ったわけではなく、必要な設備の補修が行われていないことが原因の一つなのだが、夫人はその説明を聞こうともしない。
「奥様、領民の方々は既にできる限りの対応をされています。問題は、用水路や街道の補修が長期間行われていないことでして」
「まあ、今度は領民の肩を持つの? わたくしが何もしていないとでもおっしゃりたいのかしら」
「そのようなことは申し上げておりません」
「いいえ、そう聞こえましたわ。わたくし、昔からそうなのよ。人より少し優秀なものだから、何かあるとすぐに責任を押し付けられてしまうの。あなた方も、わたくしが女性だからといって軽く見ていらっしゃるのでしょう?」
フィリップは一度言葉を切り、資料を夫人の前へ差し出した。
「奥様、こちらは領地管理者から提出された補修要望書です。過去三年間に何度も送られておりますが、承認された記録がございません。まずは、この件について確認させてください」
「そんなもの、わたくしは存じませんわ。グレゴール、あなたがきちんと処理していなかったのではなくて?」
突然話を振られたグレゴールは、慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ございません、奥様。ただ、私もそのような書類を受け取った覚えが……」
「まあ! 何ということなの。あなたがしっかりしていないから、わたくしがこんな恥ずかしい思いをするのよ!」
「申し訳ございません」
「本当に、わたくしの周りにはどうしてこうも仕事のできない人ばかり集まるのかしら。わたくし一人が頑張ったところで、限界がありますわ」
夫人は深いため息をつき、いかにも傷ついたような表情でフィリップを見た。
「お分かりになったでしょう? わたくしがどれほど苦労しているか。主人はお仕事で忙しく、息子も隣国で勉学に励んでおりますし、屋敷のことはすべてわたくしが取り仕切らなければならないのよ。それなのに、周囲の者はわたくしに頼るばかりで、少しも助けてくれませんの」
フィリップは、夫人が屋敷の管理を家令に任せていると繰り返し主張していたことを思い出したが、今それを指摘しても話が進まないと判断した。
「ご負担が大きいことは承知いたしました。ですので、まずは現在の支出について、優先順位を決めるところから始めたいと思います」
「まあ、ようやく分かってくださったのね。そうよ、わたくしの負担を減らすことが一番大切なのよ」夫人は満足げに微笑んだ。
「ところで、フィリップ様。あなた、まだ独身でいらっしゃるの?」
突然の質問に、フィリップは少し驚いたものの、表情を変えずに答えた。
「はい、そうですが」
「まあ、やっぱり! そんな気がしておりましたの。わたくし、昔からそういうことには勘が働きますのよ」
「さようでございますか」
「お仕事ばかりでは、なかなかよいご縁もありませんでしょう? わたくしでよろしければ、いろいろと相談に乗って差し上げますわ」
「お気遣いありがとうございます。ただ、今は業務を優先したいと思っております」
「まあ、そんなに照れなくてもよろしいのよ。わたくし、若い殿方には随分と慕われておりますもの。年齢なんて、あまり関係ありませんでしょう?」
夫人は扇で口元を隠し、意味ありげに笑った。
フィリップは手元の資料を揃えながら、丁寧に一礼した。
「それでは、本日の確認事項をまとめて、改めてご連絡いたします」
「ええ、よろしくね。でも、今度はもう少しゆっくりお話ししましょう。わたくし、あなたとは気が合いそうな気がしますの」
面談が終わり、フィリップたちが部屋を出ると、エレオノーラは早速グレゴールへ話しかけた。
「ご覧になった? フィリップ様ったら、わたくしと二人きりになると、少し緊張していらっしゃるみたいね」
「奥様のお美しさを前にすれば、無理もございません」
「そうなのよね。わたくし、昔から若い殿方を緊張させてしまうの。困ったものだわ」
夫人は満足そうに笑ったが、すぐに思い出したように眉をひそめた。
「それにしても、衣装代を減らせだなんて、少し失礼だと思わなくて? わたくしがどれほど社交界で重要な立場にあるか、まだ理解していらっしゃらないのね」
「まことに。王宮の方々とはいえ、まだお若いですからな」
「ええ。だからこそ、わたくしがいろいろと教えて差し上げなくては。そうだわ、次にいらしたときには、わたくしの若い頃のお話をして差し上げましょう。きっと勉強になるはずよ」
グレゴールは深く頷いた。
その頃、廊下を歩いていたフィリップは、同僚から小声で尋ねられていた。
「なあ、あの夫人、最後は何の話をしていたんだ?」
「さあ。婚姻について相談に乗るとか、そんな話だったと思うけど」
「お前、何か相談したのか?」
「してないよ。帳簿の話をしていたら、急に独身かどうか聞かれたんだ」
「……それ、長官に報告するか?」
「業務に関係ないから、今のところは必要ないだろう。ただ、面談が脱線したことは記録しておくよ」
フィリップは苦笑しながら、手元の書類を見直した。
「それより問題なのは、あの二人が本当に財政状況を理解していないことだ。改善案を示しても、王宮が何とかしてくれると思っている。これ以上時間をかけると、領民への影響が大きくなる」
「長官に直接相談したほうがよさそうだな」
「ああ。次の報告では、現地の管理体制についても詳しく伝えるつもりだ」
彼らにとって、伯爵夫人の奇妙な言動は仕事を進めるうえでの厄介事の一つにすぎなかった。王宮から派遣された以上、優先すべきは領地の財政再建であり、夫人の機嫌を取ることではない。
しかし、エレオノーラはそうは考えていなかった。
フィリップが何度も面談を申し込むのは、自分と話す機会を作りたいからであり、帳簿の話ばかりするのは照れ隠しなのだと思っていた。若い男性が自分に惹かれることなど、彼女にとっては少しも不思議ではない。
そして、そのフィリップが親しくなりたいと話していたオスカー長官についても、いつしか自分に特別な関心を持っているに違いないと考えるようになっていた。
そんな折、王宮で秋の大夜会が開かれることになった。
***
エレオノーラは招待状を受け取ると、いつになく熱心に身支度の準備を始めた。仕立屋には何度も注文を変更し、宝飾品も新しいものを用意するよう命じたが、未払い代金が残っているため、商人たちはなかなか応じようとしなかった。
「まあ、何ですの! わたくしが注文して差し上げているというのに、どうしてそんなに渋るのかしら。最近の商人は本当に商売というものを分かっていないのね」
夫人は不機嫌そうにグレゴールを呼びつけた。
「あなたからもきちんとお話しなさい。わたくしが夜会で身につければ、それだけでお店の評判が上がるのよ。それを理解できないなんて、なんて頭の悪い方々なのかしら」
「まことに、奥様のおっしゃるとおりでございます」
「それから、今度の夜会にはオスカー長官もいらっしゃるのでしょう? 王宮の方なら当然お招きされているわよね」
「おそらくは」
「そう。では、少し華やかにしていかなくてはね。あまり地味では、かえって失礼ですもの」
夫人は鏡の前でドレスを胸元に当て、嬉しそうに微笑んだ。
「ふふ、どんな方なのかしら。フィリップ様も素敵だけれど、やはり長官ともなれば、それなりの風格がおありなのでしょうね」
グレゴールは、いつものように奥様ならどのような殿方にもお気に召していただけます、と答えた。エレオノーラはその言葉に満足し、鏡に映る自分へ微笑みかけた。若い頃から何人もの殿方に慕われてきたという自負がある彼女にとって、王宮の長官と親しくなることなど、それほど難しい話ではなかった。
ただし、彼女はまだ知らなかった。
オスカー・レインフォードが王妃セレスティーヌの親戚であり、既に妻子を持つ人物であることを。そして、そのような相手に軽々しく色仕掛けを試みることが、社交界でどのような意味を持つのかということも。
もっとも、たとえ誰かが教えてくれたとしても、エレオノーラが素直に耳を貸したかどうかは疑わしかった。彼女は昔から、自分に都合の悪い忠告を、嫉妬か嫌がらせとしか受け取らなかったのだから。
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