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王宮から事務官が派遣されると決まって以来、エレオノーラはすっかり上機嫌だった。これまで何度も使用人に命じては満足のいく結果が得られなかった帳簿の整理も、滞っている支払いも、王宮の優秀な人材が片づけてくれるというのだから、これほどありがたい話はない。
もっとも、彼女は自分の領地で何が起きているのか、正確には把握していなかった。領地からの収入は毎年入ってくるものだと思っていたし、支払いが滞るのは使用人や商人の手際が悪いからだと考えていた。金が足りないと言われれば、どこかにあるはずだから探すように命じればよい。これまでずっと、それで済ませてきたのである。
「それにしても、王宮の方々をお迎えするというのに、この屋敷は少し華やかさが足りないわね。グレゴール、玄関広間の花を替えてちょうだい。それから客間の絨毯も。以前から申し上げているでしょう? あの色はわたくしの好みではありませんの」
「かしこまりました、奥様。ただ、絨毯の買い替えとなりますと、少々まとまった費用が必要かと」
「まあ、あなたまでそんなことを言うの? 王宮からお客様がいらっしゃるのよ。伯爵家として恥ずかしくないように整えるのは当然でしょう。それとも、わたくしにみすぼらしい屋敷でお客様を迎えろとおっしゃるの?」
「とんでもございません。早速、商人に問い合わせてまいります」
「そうなさい。まったく、何でもわたくしが指示しなければならないのだから困ってしまうわ。昔の使用人たちは、もっと気が利いたものよ」
エレオノーラは不満げにため息をついたが、グレゴールは商人への支払いをどうするか考えるより、夫人の機嫌が直ったことに安堵していた。
***
かつてのヴァレンシュタイン伯爵家には、王都の名門貴族にふさわしい使用人が揃っていた。
家令を筆頭に、執事、侍女長、料理長、それぞれが長年の経験を持ち、屋敷の管理から来客の接遇まで滞りなく取り仕切っていたのである。しかし、婿養子として迎えられたアルベルト伯爵が屋敷を離れてからというもの、夫人の要求は年々理不尽になり、使用人の入れ替わりも激しくなっていた。
前家令は四十年近く伯爵家に仕えた人物だったが、最後の数年間は新しい使用人を採用するだけでも相当な苦労をしていた。
夫人が気に入らないという理由で解雇した者もいれば、度重なる叱責に耐えられず、自ら辞めていった者もいる。使用人の間ではヴァレンシュタイン家の悪評が広まり、やがて下級貴族の子弟はもちろん、貴族家での奉公経験を持つ平民からも応募がなくなった。前家令は何度も改善を求めたが、そのたびに夫人から無能だと罵られた。結局、年齢を理由に退職を申し出たものの、本当は心身ともに限界だったのである。
エレオノーラは今でも、長年仕えてくれた家令を快く引退させてあげたと語っていた。自分ほど寛大な主人はいないと信じているので、退職の際に前家令が深々と頭を下げたことも、感謝の表れだと思っている。
その後、町で偶然知り合ったグレゴールを家令に据えたのだが、彼には貴族家の管理経験がなかった。以前は商家の雑務などを請け負っていたものの、帳簿の管理や使用人の教育を任されたことはなく、貴族社会の慣習についてもほとんど知らない。ただ、夫人が困っていたときに親切に手を貸し、その美貌と気品を褒めたところ、いたく気に入られてしまったのである。
夫人にとって、自分の言うことを否定せず、いつでも褒めてくれるグレゴールは理想的な家令だった。一方のグレゴールにとっても、仕事の成果より主人の機嫌を取ることが評価される伯爵家は、居心地のよい職場だった。
その結果、屋敷は伯爵家とは名ばかりの有様になっていた。廊下の絨毯は擦り切れ、銀器の手入れも行き届かず、客間の調度品には薄く埃が積もっている。新しく雇われた使用人たちは、教わる機会もないまま見よう見まねで仕事をしていたが、夫人は不備を見つけるたびに彼らの能力不足を責め立てた。
「本当に、最近はまともな人材がいなくて困るわ。わたくしの若い頃は、伯爵家に奉公できるというだけで皆さま喜んだものですのに。今の若い方々は、少し注意されただけで辞めてしまうのよ。これだから甘やかされて育った方は嫌なの」
夫人はそんな愚痴を、訪れる客にも繰り返していた。
もっとも、最近では客そのものがほとんど訪れなくなっていたのだが、それも彼女に言わせれば、自分の格式に気後れしているからということになるらしい。
***
王宮の事務官たちが到着したのは、それから五日後のことだった。先頭に立っていたのは、栗色の髪をきちんと整えた二十代後半の青年だった。仕立てのよい濃紺の上着に王宮財務監査局の徽章をつけ、落ち着いた物腰で名乗った。
「王宮財務監査局より参りました、フィリップと申します。このたびは伯爵領の財務状況について確認させていただくことになりました。しばらくの間、ご協力をお願いいたします」
エレオノーラは青年の顔を見た途端、機嫌よく微笑んだ。
「あら、まあ。ずいぶんお若い方がいらしたのね。王宮の事務官というから、もっと年配の方を想像しておりましたわ」
「ありがとうございます。私のほかにも担当者がおりますので、必要に応じてご説明いたします」
「まあ、そんなに堅苦しくなさらなくてもよろしいのよ。わたくし、若い方とお話しするのは大好きですの。昔から年下の殿方には随分と慕われておりますし、今でも年齢が近いと思われることが多くて困ってしまいますわ」
フィリップは礼儀正しく微笑んだものの、その話には触れず、持参した書類を取り出した。
「早速ですが、過去五年間の収支記録と領地からの納税報告、使用人への給与支払い台帳を拝見できますでしょうか」
「あら、もうお仕事のお話? せっかくいらしたのだから、まずはお茶でも召し上がってちょうだい。わたくし、昨日から準備させておりましたのよ」
「お気遣いありがとうございます。ただ、確認すべき資料が多いため、できれば先に帳簿を拝見したいのですが」
「まあ、真面目な方なのね。わたくし、そういう殿方は嫌いではありませんわ」
夫人は扇で口元を隠しながら、意味ありげに笑った。フィリップは特に反応せず、グレゴールへ視線を向けた。
「家令殿、帳簿の保管場所をご案内いただけますか」
「帳簿でございますか。ええと、確か書庫にあったかと」
「では、お願いいたします」
「ただ、少々散らかっておりまして……」
「構いません。必要な書類はこちらで確認いたします」
グレゴールは困ったように夫人を見たが、エレオノーラは気にも留めなかった。
「そうなさいな。グレゴール、フィリップ様をご案内して差し上げて。ああ、でも、お昼には戻っていらしてね。せっかくですから、ご一緒にお食事でもいかがかしら?」
「恐れ入りますが、昼食は同僚と取る予定になっております」
「まあ、残念。でも、お仕事が終わってからでもよろしいのよ。わたくし、若い方のお話を伺うのが好きですから」
「ありがとうございます。それでは、失礼いたします」
フィリップが一礼して部屋を出ると、エレオノーラは嬉しそうに侍女へ話しかけた。
「ご覧になった? なかなか感じのよい方でしょう。少し緊張していらしたみたいだけれど、無理もないわね。わたくしのような者と親しくお話しする機会なんて、そうそうありませんもの」
侍女は曖昧に頷き、茶器を片づけ始めた。
***
その頃、書庫へ案内されたフィリップは、扉を開けたところで足を止めていた。室内には棚に収まりきらない書類が積み上げられ、床にも封筒や帳面が無造作に置かれている。机の上には未開封の書簡が山になっており、その中には王宮の封蝋が押されたものまで混じっていた。
「……こちらは、すべて未処理の書類ですか?」
「いや、何と申しますか。奥様はお忙しい方ですので、なかなか整理する時間がございませんで」
「家令殿が管理されているのでは?」
「もちろん、私が管理しております。ただ、奥様のご指示が優先でございますから」
フィリップは一通の封筒を手に取った。差出人は王宮財務監査局、日付は二年前である。
「これは開封されていないようですが、内容はご存じですか?」
「さあ、何だったでしょうな。重要なものでしたら、また連絡が来るでしょう」
「重要なものだからこそ、王宮から送られているのですが」
「いやはや、事務官殿は細かいところまでよくご覧になりますな」
グレゴールは感心したように笑ったが、フィリップは笑わなかった。
「過去の帳簿について、前任の家令殿が管理されていたものはありますか」
「前の家令でございますか。確か、あちらの棚に古い帳面があったような……」
示された棚には、年代順に整理された分厚い台帳が並んでいた。埃こそかぶっていたものの、表紙には年度と内容が丁寧に記され、必要な資料をすぐ取り出せるようになっている。
フィリップは一冊を開き、続いて別の帳簿を確認した。そこには領地収入から屋敷の維持費、使用人への給与、備品の購入費に至るまで、整然とした記録が残されていた。ところが、ある年を境に記録の質が急激に落ちていた。費目の分類が曖昧になり、領収書の添付もなくなり、支払いの記録すら抜け落ちている。ちょうど前家令が退職した時期と一致していた。
「グレゴール殿、こちらの帳簿はどなたが作成されたのですか」
「私でございますが」
「領地からの収入が前年の半分以下になっている一方で、屋敷の支出は増えています。この差額について、何か説明できる資料はありますか」
「収入が減ったのでございますか?」
「帳簿にはそう記載されています」
「それは困りましたな。奥様にご報告しなければ」
「ご存じなかったのですか?」
「いや、私は奥様のご指示に従っておりますので、細かい数字までは……」
フィリップは一度、手元の帳簿を見下ろした。
「では、支払いの承認はどなたが?」
「もちろん奥様でございます」
「奥様は帳簿をご確認されているのですね」
「いえ、奥様はそのような細かい仕事はなさいません」
「……では、どなたが収支を確認しているのですか?」
グレゴールは不思議そうに首を傾げた。
「それをしていただくために、皆さまがいらしたのでは?」
フィリップはしばらく黙っていたが、やがて静かに帳簿を閉じた。
「まずは、現状を整理する必要がありそうですね。ほかの担当者にも確認してもらいますので、こちらの書類を別室へ運んでもよろしいでしょうか」
「ええ、どうぞどうぞ。これでようやく片づきますな」グレゴールは心底ほっとした様子で頷いた。
フィリップは同僚を呼び、書類の分類と記録の照合を始めた。作業が進むにつれ、問題は当初の想定よりも深刻であることが分かってきた。
使用人への給与は数か月分が未払いとなり、領地の維持管理に必要な支出も後回しにされている。その一方で、夫人の衣装や宝飾品、夜会の費用には相当な金額が使われていた。
さらに不可解だったのは、これまで使用人への給与支払いを補っていた資金の出所である。帳簿には伯爵個人の供託資産からの入金が記されていたが、その残高は既にほとんど残っていなかった。
「これ、前伯爵家当主の個人資産から出ているのか?」
同僚の一人が尋ねると、フィリップは首を振った。
「名義は現伯爵だ。少なくとも、この記録ではそうなっている。ただ、ここ数年、伯爵本人が屋敷の管理に関わった形跡が見当たらない」
「当主が不在なのか?」
「家令に確認したが、明確な回答が得られなかった。夫人は頻繁に会っているような話をしていたが、まずは正式な記録を確認する必要がある」
「それにしても、よくここまで放置できたな」
「前任の家令が残した記録はきちんとしている。問題が大きくなったのは、その後だろう」
フィリップは机の上に積まれた未開封の書類へ目を向けた。王宮からの通知だけでなく、商人からの請求書や領地の管理者からの報告書も混じっている。中には、伯爵家の家紋が入った私信らしい封筒もあったが、私的な書簡については勝手に開封するわけにはいかない。
「まずは業務に必要な書類を整理しよう。未開封のものは受領日と差出人を記録して、正式に開封の許可を取る」
「了解。それにしても、長官への報告は大変そうだな」
「そうだな。できれば現地で改善できるところまで進めたいが、管理体制そのものに問題があるとなると、こちらだけでは判断できない」
フィリップは疲れたように肩を回した。
「長官ともう少し気軽に相談できる関係なら、こういう案件も進めやすいんだけどな。ちょっとしたことでも、いちいち正式な報告書を上げる必要があるから」
「お前、あの長官に気軽に相談しようっていうのか? 無理だろう」
「だから、そういう関係だったらの話だよ。別に個人的に親しくなりたいわけじゃない」
同僚たちは小さく笑い、再び書類へ向き直った。
そのとき、廊下を通りかかったエレオノーラが、開け放たれた扉の前で足を止めた。彼女の耳に入ったのは、長官と親しくなれば仕事が進めやすくなるという部分だけだった。(まあ、長官と親しくなれば、いろいろと都合がよくなるのね)
エレオノーラは興味を引かれた。王宮財務監査局の長官といえば、相当な地位にある人物のはずである。そんな方と親しくなれば、伯爵家の面倒な問題など簡単に解決するに違いない。
しかも、若いフィリップがわざわざそんな話をしているということは、彼自身も長官と自分が親しくなることを望んでいるのではないだろうか。
(そういえば、あの方、最初から随分とわたくしに丁寧だったわね。きっと、わたくしの魅力をよく理解していらっしゃるのだわ)夫人は嬉しくなった。
もっとも、長官がどのような人物なのか、結婚しているのかさえ知らなかったが、それは後で調べればよいことである。何しろ自分は、若い頃から数えきれないほどの殿方に慕われてきたのだから。
エレオノーラは足音を忍ばせてその場を離れると、早速グレゴールを呼びつけた。
「ねえ、グレゴール。今回の調査を担当なさっている長官というのは、どのような方なのかしら?」
「長官でございますか。確か、オスカー・レインフォード様とおっしゃったかと」
「おいくつくらいの方?」
「さあ、詳しくは存じませんが、まだお若い方だと伺っております」
「まあ、そうなの! それなら、きっとお話も合うでしょうね」夫人は満足げに頷いた。
「王宮の方々も、わたくしのような者と親しくなれば、いろいろと勉強になるでしょうし。せっかくの機会ですもの、長官様にも一度ご挨拶しておかなくてはね」
「まことに、奥様のおっしゃるとおりでございます」
「次の夜会には、長官様もいらっしゃるのかしら。王宮にお勤めなら、きっとお招きされているでしょう?」
「おそらくは」
「そう。では、あの淡い桃色のドレスを急がせてちょうだい。あまり派手になりすぎないように、でも若々しく見えるようにと、仕立屋にはきちんと伝えておいてね」
「かしこまりました」
エレオノーラは鏡の前に立ち、髪を整えながら満足そうに微笑んだ。
「本当に、困ってしまうわ。わたくしは主人を愛しておりますのに、どうしてこう、立派な殿方とのご縁が絶えないのかしら」
グレゴールはいつものように、奥様がお美しいからでございます、と答えた。
その日の夕方、フィリップから王宮へ送られた最初の報告書には、伯爵家の財務状況が想定以上に悪化しており、管理責任者による適切な説明も得られていないことが記されていた。加えて、未開封の重要書類が多数発見されたため、当主の所在と管理権限についても確認が必要だと報告されている。
報告書を受け取ったオスカー・レインフォード長官は、内容に目を通すと、追加調査を指示した。
「領民への影響を最優先に確認してくれ。屋敷の支出だけでなく、領地の管理費がどこまで削られているかも調べる必要がある。それから、当主の所在については正式な照会を行おう」
「承知いたしました」
「夫人には、調査の目的を説明しているんだな?」
「はい。ただ、十分にご理解いただけているかどうかは……」
フィリップが言葉を濁すと、オスカーは少し眉を寄せた。
「何か問題が?」
「いえ、財務については家令に任せているとのことで、詳しい説明を聞いていただけない状況です。家令のほうも帳簿を把握しておらず、今のところ必要な資料を集めるだけで精一杯です」
「そうか。では、説明した内容と相手の回答を記録しておいてくれ。後で認識の違いが生じないように」
「承知しました」
オスカーは再び報告書に目を落とした。ヴァレンシュタインという家名には覚えがある。王妃の学院時代の同級生の実家であり、婿養子を取った家だったはずだが、王妃とは個人的な付き合いはない。まして、その夫人が自分との親密な関係を勝手に思い描いているなど、知る由もなかった。
***
一方、伯爵邸では、エレオノーラが仕立屋を相手にドレスの色と胸元の飾りについて熱心に注文をつけていた。
「もう少し若々しく、でも品よく仕上げてちょうだい。わたくし、昔から殿方の視線を集めてしまうものだから、あまり華美にするのも考えものなのよね」
仕立屋は黙って寸法を確認した。代金の支払いが遅れていることを伝えるべきか迷っていたが、夫人の機嫌がよい今なら話せるかもしれないと思い、恐る恐る口を開いた。
「あの、奥様。先月お納めしたドレスのお代金についてなのですが……」
「まあ、またお金のお話? あなた方は本当にそればかりね。わたくしがせっかく楽しくお話ししているのに、どうして水を差すようなことをおっしゃるのかしら」
「申し訳ございません。ただ、前回のお支払いがまだでして……」
「そんなことは家令におっしゃいなさい。わたくしは細かい支払いまで把握しておりませんの。それに、伯爵家を信用できないとでもおっしゃるの?」
「いえ、決してそのようなことは」
「でしたら、もうそのお話は結構よ。まったく、最近の商人は礼儀を知らないのね。わたくしがどれほど長くお宅を贔屓にして差し上げていると思っているのかしら」
仕立屋はそれ以上何も言わず、深々と頭を下げた。
翌日、彼はグレゴール宛てに未払い代金の請求書を送ったが、その封筒もまた、ほかの書類と一緒に机の上へ積まれることになった。
エレオノーラはそんなこととは知らず、次の夜会でオスカー長官にどのような言葉をかけようかと考えていた。若い男性には少し余裕のある態度で接したほうがよいだろうし、相手が高い地位にあるなら、こちらもそれなりの品格を見せなければならない。
もっとも、王宮財務監査局の長官が既婚者であり、王妃の親戚筋でもあることを知っていれば、多少は違う振る舞いを考えたかもしれない。
だが、エレオノーラが知りたがったのは、長官の年齢と容姿だけだった。グレゴールもまた、主人が満足する答えを返すことしか考えていなかったのである。
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