16
退去を命じられてから一週間が過ぎても、エレオノーラは荷造りを始めようとしなかった。むしろ、以前にも増して使用人たちに細かな注文をつけ、屋敷の中で自分の権威を示そうとしていた。朝食の紅茶が気に入らなければ淹れ直しを命じ、花瓶の位置が少しでも違えば侍女を呼びつける。
ところが、以前なら慌てて駆けつけていた使用人たちは、今では新家令の指示に従って仕事を進めており、夫人の要求がほかの業務に支障を来す場合には、丁寧に断るようになっていた。
「まあ、あなた、わたくしの言うことが聞けないとおっしゃるの?」
その日も、エレオノーラは若い侍女を相手に声を荒らげていた。午後のお茶に使う菓子を、王都でも評判の菓子店から取り寄せるよう命じたところ、侍女が新家令の許可を求めたのである。
「申し訳ございません。現在、奥様のご私用に関するお買い物は、事前に確認するよう申し付けられておりますので」
「わたくしのお茶菓子一つ、自由に買えないというの? あなた、誰に向かって口を利いているのか分かっていらっしゃる?」
「はい。エレオノーラ様でございます」
侍女は落ち着いて答えた。
夫人は一瞬、言葉に詰まった。以前なら「伯爵夫人」と呼ばれていたところを、今では単に名前で呼ばれることが増えていたのである。婚姻が解消され、伯爵家の管理権限も新当主へ移った以上、現在の立場に合わせた呼称を使うよう、新家令から指示が出ていた。
「……何ですの、その呼び方は」
「失礼いたしました。何か不都合がございましたでしょうか」
「不都合ですって? わたくしはヴァレンシュタイン伯爵夫人なのよ。そんな、まるで平民にでも話しかけるような呼び方をなさるなんて、失礼にもほどがありますわ!」
侍女は少し困ったように目を伏せたが、すぐに姿勢を正した。
「恐れ入りますが、現在のヴァレンシュタイン伯爵夫人は、アレクシス様の奥様でいらっしゃいます。新家令からは、混同を避けるため、エレオノーラ様とお呼びするよう申し付けられております」
エレオノーラは顔を真っ赤にした。
「まあ! あなたまで、わたくしに意地悪なさるのね。わたくしがどれほど長くこの屋敷を守ってきたか、ご存じないのでしょう。新しく来た方の言うことを聞いていればよいと思っているのなら、大間違いですわよ!」
「申し訳ございません。お茶菓子については、新家令に確認してまいります」
「もう結構よ! あなたのような気の利かない者に頼んだわたくしが間違っておりましたわ!」
侍女は深々と頭を下げ、静かに部屋を出ていった。
以前なら、夫人が怒り出せば何度も謝罪し、機嫌が直るまで付き添わなければならなかった。
しかし、新家令は使用人たちに、必要な謝罪と説明を済ませたあとは、仕事へ戻るよう指導していた。理不尽な要求に応じ続けることは、屋敷の管理にも、使用人自身の健康にもよくないという考えだった。エレオノーラにとって、それは到底理解できない変化だった。
「本当に、最近の使用人たちは何を考えているのかしら。わたくしが少し注意しただけで、すぐに逃げてしまうのよ。昔はもっと、主人への敬意というものがあったのに」
夫人は不満を口にしたが、いつものように同意してくれるグレゴールの姿はなかった。
彼は既に家令の職を解かれ、屋敷の一角に残された私物を整理している。夫人の呼び出しにも以前ほど応じなくなり、最近では顔を合わせることすら少なくなっていた。それがまた、エレオノーラの不満を募らせる原因になっていた。
「まったく、グレゴールまで薄情なのね。わたくしがあれほど目をかけてあげたというのに、少し立場が悪くなった途端、知らん顔をするなんて。やっぱり、身分の低い者を信用してはいけないのだわ」
そう言いながらも、夫人は自分がグレゴールを雇った経緯については、都合よく忘れていた。町で偶然助けてもらったことをきっかけに、経験も確認せず家令へ取り立てたのは、ほかならぬエレオノーラ自身だったのである。
その頃、屋敷の執務室では、アレクシスが新家令から報告を受けていた。
「エレオノーラ様は、まだ荷造りを始めておられません。退去期日についても、何度かご説明しておりますが、取り合っていただけない状況です」
「そうか。では、改めて書面で通知しよう。私物の整理については、必要であれば人手を用意する。ただし、本人の許可なく勝手に処分することは避けてくれ」
「承知いたしました」
「それから、使用人への対応についてはどうだ?」
「以前より落ち着いております。仕事の分担を明確にしたことで、急な指示に振り回されることも減りました。ただ、エレオノーラ様からの叱責は続いておりますので、必要に応じて担当を交代させております」
「分かった。退去までの間は、できる限り問題が起きないようにしてくれ」
アレクシスは頷き、別の報告書を手に取った。そこには、使用人への未払い給与の支払い状況と、領地の補修工事の進捗がまとめられていた。用水路の補修は既に始まっており、街道についても危険な箇所から順次整備が進められている。領地の収入がすぐに回復するわけではないが、少なくとも必要な仕事が放置されることはなくなっていた。
「前家令のハロルド殿にも、改めてお礼を伝えておいてくれ。あの方が残してくださった記録のおかげで、随分と助かっている」
「かしこまりました。実は、ハロルド殿からも、使用人たちの様子を気にかけるお手紙が届いております」
「そうか。長年仕えた屋敷だから、心配なのだろうな」
アレクシスは少し表情を和らげた。
「今後は、あの方が安心できるような屋敷に戻していきたいものだ」
新家令は深く頷いた。
一方、エレオノーラは退去の準備どころか、王都の知人たちへ次々と手紙を送っていた。
自分がどれほど理不尽な扱いを受けているかを訴えれば、きっと誰かが助けてくれるはずだと考えていたのである。
しかし、返事は思うように届かなかった。
以前から親しくしていると思っていた侯爵夫人からは、現在は王宮の正式な手続きが進められているため、個人的な立場で介入することはできないという丁寧な返答が届いた。
別の伯爵夫人からは、体調を理由に面会を断られた。若い頃からの友人だと自慢していた子爵夫人に至っては、返事すら寄越さなかった。
「まあ、何て薄情な方々なのかしら!」
エレオノーラは届いた手紙を机に叩きつけた。
「わたくしがこれほど困っているというのに、誰一人助けようとなさらないなんて。昔は皆さま、わたくしと親しくしたがっていらしたのよ。それなのに、少し立場が悪くなった途端、手のひらを返すなんて!」
夫人は不満を募らせたが、自分がこれまで相手の話を聞かず、都合のよいときだけ親しげに接してきたことについては、少しも思い至らなかった。
それでも、まだ頼れる相手がいると信じていた。王妃セレスティーヌである。
王妃からは既に正式な回答が届いていたものの、エレオノーラはあれが本心だとは思っていなかった。きっと周囲の者たちが余計なことを吹き込み、王妃が自分を助けられないようにしているのだろう。直接会って話せば、昔の友情を思い出してくれるはずだった。
そこで夫人は、王宮で開かれる慈善茶会に出席することを思いついた。王妃も出席する予定の催しであり、招待客には多くの高位貴族が名を連ねている。エレオノーラは以前から、このような催しには当然招かれるものだと思っていたため、今回も招待状が届くはずだと信じていた。
ところが、待てど暮らせど招待状は届かなかった。
「まあ、どういうことなのかしら。わたくしのところだけ、まだ届いていないなんて」
夫人は不満げに呟き、使用人へ確認するよう命じた。しかし、王宮からの回答は簡潔だった。今回の慈善茶会について、エレオノーラへの招待は予定されていないというのである。
「……招待されていない?」
夫人はしばらく言葉を失った。
「そんなはずありませんわ! わたくしはヴァレンシュタイン伯爵夫人なのよ。王妃陛下とも学院時代からのお付き合いですもの。招待されないなんて、何かの間違いに決まっておりますわ!」
使用人は困ったように頭を下げた。
「ですが、王宮からはそのように……」
「もう結構よ! あなたに聞いたわたくしが間違っておりましたわ!」
エレオノーラは怒りに任せて扇を閉じた。
これまで、王宮の催しに出席することは、彼女にとって自分の価値を確かめる大切な機会だった。
華やかな衣装をまとい、貴族たちの間を歩き、昔の栄光や夫婦円満を語る。それが社交界での自分の役割だと信じていたのである。
ところが、今や王宮から招待状すら届かない。
それでも夫人は、自分が招かれない理由を、王妃の嫉妬だと考えることにした。
「そうよ。きっとセレスティーヌ様が、わたくしを意識していらっしゃるのね。昔からそうだったもの。わたくしが出席すると、殿方の視線が集まってしまうから、気になさるのでしょう」
夫人はそう呟き、鏡の前に立った。
しかし、鏡に映る自分の姿を見ても、以前のように満足できなかった。最近は使用人たちが以前ほど身支度に時間をかけてくれず、髪型も思うように整わない。新しいドレスを注文しようとしても、商人たちは未払い代金の清算を求めるばかりで、以前のように快く応じてくれなかった。
「本当に、皆さま意地悪なのね。わたくしが少しばかり美しいからといって、ここまでなさるなんて」
夫人は鏡に向かって微笑もうとしたが、うまく笑えなかった。
***
その頃、王宮では慈善茶会の準備が進められていた。セレスティーヌ王妃は招待客の名簿を確認し、必要な手配について侍女長と打ち合わせていたが、エレオノーラの名前がないことについて、特に何も言わなかった。
今回の催しは、領地の復興支援と孤児院への寄付を目的としたものであり、招待客もその趣旨に沿って選ばれていた。エレオノーラが招かれなかったのは、現在の立場や活動状況を踏まえた事務的な判断にすぎない。
王妃にとって、エレオノーラは昔の同級生の一人であり、何十年も競い合ってきた宿敵などではなかった。そもそも、夫人が自分を一方的にライバル視していることさえ、最近になって初めて知ったのである。
慈善茶会の当日、王妃は多くの貴婦人たちと穏やかに言葉を交わし、寄付の申し出に礼を述べていた。その場にはオスカーの妻も出席しており、王妃と親しげに談笑する姿が見られた。
「レインフォード夫人、お子様たちはお元気?」
「はい、おかげさまで。上の子は最近、父親の仕事に興味を持ち始めまして、毎日のように質問しているようです」
「まあ、それは可愛らしいこと。オスカーも嬉しいでしょうね」
「ええ。ただ、帰宅すると休む間もなく質問攻めにされるものですから、少し困っているようですわ」
二人は楽しそうに笑った。
その様子を見ていた貴婦人たちも、穏やかな笑みを浮かべていた。王妃とレインフォード家の関係が良好であることは、社交界ではよく知られている。オスカーが妻子を大切にしていることも、特別な秘密ではなかった。
その一方で、ヴァレンシュタイン伯爵邸では、エレオノーラが使用人から差し出された退去準備の確認書を前に、再び怒りを露わにしていた。
「またこのお話なの!? わたくしは出ていかないと、何度申し上げれば分かるのかしら!」
「エレオノーラ様、退去期日まで残り十日となっております。お荷物の整理について、お手伝いが必要でしたら……」
「必要ありませんわ! そもそも、わたくしがこの屋敷を出る理由などないでしょう!」
使用人は静かに頭を下げた。
「承知いたしました。ただし、期日までにご準備いただけない場合は、法務局の指示に従って手続きを進めることになります」
「まあ、あなたまで、わたくしを脅すおつもり?」
「そのような意図はございません。正式な決定について、ご説明しているだけでございます」
エレオノーラは何か言い返そうとしたが、使用人はそれ以上言葉を重ねなかった。必要な説明を終えると、丁寧に一礼して部屋を出ていったのである。
夫人はしばらく扉を睨みつけていたが、やがて椅子へ腰を下ろした。
以前なら、怒鳴れば誰かが駆けつけ、何度も謝罪し、機嫌が直るまで付き添ってくれた。しかし今では、どれほど声を荒らげても、相手は決められた説明を繰り返すだけで、最後には静かに立ち去ってしまう。
夫人はそれを、自分への嫌がらせだと思っていた。
だが、実際には、使用人たちがようやく本来の仕事をできるようになっただけだった。
退去期日まで残り一週間となった日、エレオノーラのもとへ、アルベルトから最後の書簡が届いた。
そこには、婚姻関係の解消が正式に成立したこと、今後は互いに別々の生活を送ること、そして、必要な生活保障については法務局の判断に従って対応することが記されていた。
最後には、長年の婚姻生活について、静かな言葉で礼が述べられていた。エレオノーラは手紙を読み終えると、しばらく黙っていたが、やがて小さく笑い出した。
「まあ、旦那様ったら。こんなに丁寧なお手紙をくださるなんて、やっぱりわたくしのことが忘れられないのね」
夫人は満足げに微笑んだ。
「そうでしょうとも。わたくしほど美しく、優秀な妻など、そうそう見つかるものではありませんもの。今頃になって、ようやくわたくしの大切さに気づかれたのでしょうね」
しかし、手紙には復縁を望む言葉など、一つも書かれていなかった。それでもエレオノーラは、夫がいつか自分を迎えに来ると信じていた。自分が屋敷を出なければならないことになっても、最後には夫が助けてくれるはずだと考えていたのである。
***
そして、退去期日の三日前、夫人のもとへ新家令が訪れた。
「エレオノーラ様、最後の確認に参りました。お荷物の整理は、どの程度進んでおりますでしょうか」
「まあ、またあなたなの? わたくし、何度も申し上げているでしょう。出ていくつもりはありませんわ」
「承知しております。ただし、正式な退去命令が出ておりますので、期日には屋敷を明け渡していただく必要がございます」
「そんなこと、わたくしが認めるはずありませんでしょう!」
新家令は静かに頷いた。
「では、法務局へその旨を報告いたします。なお、期日を過ぎた場合は、正式な執行手続きが行われますので、ご了承ください」
エレオノーラは一瞬、言葉を失った。
「……執行?」
「はい。既に決定された退去命令に基づく手続きでございます」
新家令は丁寧に一礼し、部屋を出ていった。
残されたエレオノーラは、しばらく扉を見つめていた。これまで何十年も、彼女は自分の言葉が屋敷の中で最も重いものだと信じてきた。気に入らない使用人は叱責し、商人には無理な注文を押し付け、社交界では自分の栄光を語り続けた。誰かが異議を唱えれば、嫉妬しているのだと決めつければよかった。
しかし、今は違った。
夫人が何を言っても、退去期日は変わらない。
王妃も夫も息子も、彼女の望むようには動かない。新当主も使用人たちも、必要な礼儀は守るものの、特別扱いをするつもりはなかった。それでもエレオノーラは、自分が間違っているとは考えなかった。
「……本当に、皆さま意地悪なのね」
夫人は小さく呟いた。
「わたくしが少しばかり優秀だからといって、ここまでなさるなんて。きっと、わたくしが羨ましくて仕方がないのだわ」
そう言いながら、夫人は鏡に映る自分を見つめた。
だが、鏡の中の女性は、彼女が思い描いているような若く美しい貴婦人ではなかった。
長年の不摂生と苛立ちが表情に刻まれ、手入れの行き届かない髪や衣装も、以前の華やかさを失っている。
それでもエレオノーラは、鏡に向かって微笑んだ。
「大丈夫よ。わたくしは、まだまだ美しいもの」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
***
その頃、屋敷の執務室では、アレクシスが法務局から届いた最終確認書に署名していた。退去期日を過ぎても夫人が屋敷を明け渡さない場合、正式な執行手続きへ移ることが決まっていたのである。
新家令は書類を受け取り、静かに頭を下げた。
「これで、必要な準備は整いました」
「ああ。できれば穏便に済ませたいところだが、これ以上先延ばしにはできない。領地の再建も、屋敷の管理も、ようやく正常に戻り始めているのだから」
アレクシスはそう言って、窓の外へ目を向けた。
庭では使用人たちが花壇の手入れを進めており、以前は荒れ放題だった一角にも、色とりどりの花が咲き始めていた。屋敷は、少しずつ本来の姿を取り戻しつつあった。
そして、エレオノーラが長年当然のように暮らしてきたその場所から去る日も、いよいよ目前に迫っていた。
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