最終話
このメンタルある意味羨ましい…
周りは疲弊しますけどね……
退去期日の朝、エレオノーラはいつもどおりの時間に目を覚ました。侍女が運んできた朝食に目を通し、紅茶の香りが少し弱いと文句をつけてから、今日の予定を尋ねた。
王宮からの使者が来ることは聞いていたが、どうせまた同じような書類を持ってくるだけだろうと思っていたのである。
「それで、今日はどなたがいらっしゃるの? オスカー長官かしら。それとも、ようやく王妃陛下からお使いがいらっしゃるの?」
「本日は法務局の執行官がお見えになる予定でございます。お荷物の搬出についても、確認がございますので」
「まあ、またそのお話? わたくしは出ていかないと申し上げたでしょう。何度同じことを言わせるおつもりなのかしら。本当に、皆さま物覚えが悪くて困ってしまうわ」
侍女は静かに頭を下げた。
「承知いたしました。新家令には、そのようにお伝えいたします」
「そうなさい。それから、今日は午後にお客様がいらっしゃるかもしれないから、応接間を整えておいてちょうだい。わたくしがこんな扱いを受けていると知れば、きっとお友達の皆さまも心配して駆けつけてくださるでしょうから」
「恐れ入りますが、本日から応接間は新伯爵家の管理に移っております。エレオノーラ様のお客様については、別途ご相談いただくことになります」
「……何ですって?」夫人は眉をひそめた。
「わたくしがこの屋敷でお客様をお迎えするのに、どうして誰かの許可が必要なの? あなた、少し立場を勘違いしていらっしゃるのではなくて?」
「申し訳ございません。現在の管理規定に従ってご案内しております」
「もう結構よ! あなたとお話ししていても埒が明きませんわ。グレゴールを呼んでちょうだい」
侍女は一礼し、部屋を出ていった。
しばらくして現れたグレゴールは、いつもの家令服ではなく、地味な上着を身につけていた。既に雇用契約が終了しているため、伯爵家の制服を着ることは認められていない。エレオノーラはその姿を見るなり、不機嫌そうに顔をしかめた。
「まあ、何ですの、その格好は。今日は王宮からお客様がいらっしゃるのよ。家令がそんなみすぼらしい姿をしていては、わたくしまで恥をかくではありませんの」
「奥様、私はもう家令ではございませんので……」
「またそのお話? 本当に、あなたまでしつこいのね。わたくしが認めないと申し上げているでしょう」
「ですが、本日中に屋敷を出るようにと、正式な通知が届いております」
「だから、出ていく必要などありませんわ! あなたは本当に頭が悪いのね。わたくしが何度説明しても理解できないなんて、呆れてしまうわ」
グレゴールは俯いた。
これまでなら、夫人の言葉に同意していれば、それ以上責められることは少なかった。しかし、今は何を言っても叱責されるばかりで、以前のように機嫌を取ることも難しくなっていた。
「奥様、私は既に荷物をまとめております。今日中に退去しなければ、法務局の執行官が手続きを進めるとのことで……」
「まあ! あなた、わたくしを置いて逃げるおつもり?」
「逃げるなど、とんでもございません。ただ、正式な命令でございますので」
「本当に薄情な方ね! わたくしが家令に取り立ててあげた恩も忘れて、自分だけ助かろうとなさるなんて。やっぱり、身分の低い者を信用するべきではなかったのだわ」
グレゴールは何か言い返そうとしたが、結局口を閉じた。夫人が自分を家令にしたことは事実だが、採用された当時、必要な仕事について十分な説明を受けた覚えはない。それでも高い給与と立派な役職に満足し、分からないことを学ぼうともしなかったのだから、今さら夫人だけを責めることもできなかった。
「もう結構よ。あなたのような無能な者には、何も期待しておりませんわ。さっさと出ていきなさい!」
夫人がそう言い放つと、グレゴールは深々と頭を下げ、静かに部屋を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、エレオノーラは不満げに扇を握りしめた。長年、自分を褒めそやし、何を言っても同意してくれた家令が、最後には自分を置いて去ろうとしている。それが裏切り以外の何物でもないように思えたのである。
***
午前十時を少し過ぎた頃、法務局の執行官が伯爵邸へ到着した。同行したのは王宮の記録官と数名の職員で、いずれも落ち着いた態度で必要な書類を確認していた。新当主アレクシスと新家令も立ち会い、退去に関する最終的な手続きが始まった。
「エレオノーラ様、正式な退去期日となりましたので、お荷物の搬出について確認させていただきます」
執行官が丁寧に告げると、夫人は呆れたように首を振った。
「まあ、あなた方まで同じことをおっしゃるの? わたくしは何度も申し上げているでしょう。この屋敷を出ていくつもりはありませんわ」
「ご意思については承知しております。しかし、法務局の決定に基づき、本日をもって居住権が終了いたします。必要な手続きは既に完了しておりますので、屋敷を明け渡していただかなければなりません」
「そんなもの、わたくしが認めるはずありませんでしょう!」
「ご異議については、これまでの審査で確認されております。本日の手続きについては、既に決定された内容を執行するものです」
エレオノーラは怒りに震えた。
「本当に、皆さまわたくしに意地悪ばかりなさるのね。わたくしがどれほどこの屋敷を大切にしてきたか、少しも理解していらっしゃらないのだわ。そもそも、わたくしがいなくなったら、この屋敷はどうなると思っていらっしゃるの?」
「屋敷の管理については、新当主のもとで既に体制が整えられております」
「それは、わたくしが長年教育してきた使用人たちがいるからでしょう!」
夫人は勝ち誇ったように言ったが、アレクシスは静かに答えた。
「使用人たちは、新しい家令の指導のもとで仕事を進めています。以前よりも管理が行き届くようになり、屋敷の運営についても改善が見られています」
「まあ、わたくしの功績を横取りなさるおつもり?」
「そのような意図はございません。ただ、現在の管理状況について事実をお伝えしているだけです」
エレオノーラは何か言い返そうとしたが、執行官が静かに言葉を続けた。
「それでは、私物の確認に移らせていただきます。既に整理されているお荷物については、指定された転居先へ運搬いたします。まだ整理されていないものについても、立会いのもとで確認させていただきます」
「わたくしの部屋に勝手に入るおつもり!?」
「正式な手続きに従い、必要な範囲で確認いたします。私物については、所有権を確認したうえで適切に取り扱います」
夫人は顔を赤くしたが、執行官は表情を変えなかった。これまで何度も通知を送り、退去の猶予も設けている。必要な手続きはすべて踏まれており、夫人がどれほど怒っても、決定が覆ることはなかった。
やがて、夫人の部屋から衣装や宝飾品が運び出され始めた。もっとも、すべてが夫人の私物というわけではない。伯爵家の財産として管理されている宝飾品や調度品については、持ち出すことが認められなかった。
「まあ、その首飾りはわたくしのものよ! どうして置いていかなければならないの!」
「こちらは伯爵家の管理財産として登録されております。個人所有であることを示す資料が確認できないため、持ち出しは認められません」
「わたくしが何十年も身につけてきたものなのよ! それが証拠でしょう!」
「長年使用されていたことと、所有権があることは別でございます」
夫人は怒りに任せて首飾りを奪い取ろうとしたが、執行官が静かに制止した。
「エレオノーラ様、どうかお控えください。正式な確認が終わるまでは、こちらで保管いたします」
「まあ、何て失礼な! わたくしを泥棒扱いなさるおつもり?」
「そのようなことは申し上げておりません」
「いいえ、そう聞こえましたわ! 本当に、皆さまわたくしを陥れようとしているのね!」
夫人はしばらく声を荒らげていたが、誰も言い返さなかった。執行官たちは必要な説明を繰り返し、記録官は淡々と内容を書き留めている。以前なら、夫人が怒り出せば使用人たちが慌てて謝罪し、機嫌が直るまで付き添っていたものだが、今は誰もそのようなことをしなかった。
昼過ぎには、夫人の私物の大半が整理された。華やかなドレスや帽子、化粧品、個人所有と確認された宝飾品などが箱に詰められ、用意された馬車へ運ばれていく。エレオノーラはその様子を見ながら、何度も不満を口にしたが、作業が止まることはなかった。
「本当に、信じられませんわ。わたくしがこんな扱いを受けるなんて。王妃陛下がお知りになれば、きっと驚かれるでしょうね」
夫人はそう言って、アレクシスを睨みつけた。
「あなたも、今のうちに考え直したほうがよろしいわよ。わたくしが王妃陛下にお話しすれば、こんなこと、すぐに問題になりますわ」
「王妃陛下からは、既に正式な回答が出ております。今回の手続きについても、法令に従って進められておりますので、変更する予定はございません」
「まあ、あなたまで、わたくしの話を聞こうとなさらないのね!」
アレクシスはそれ以上何も言わなかった。
やがて、すべての確認が終わり、執行官が夫人へ最後の通知書を差し出した。
「エレオノーラ様、これをもちまして、伯爵邸の明け渡し手続きは完了となります。お荷物は指定された転居先へ運搬いたしますので、こちらの馬車へお乗りください」
「……馬車?」夫人は不思議そうに首を傾げた。
「わたくしの馬車はどうなっているの?」
「伯爵家の管理財産であるため、引き続き屋敷で使用されます。本日は転居用の馬車をご用意しております」
「まあ、何てこと! わたくしに、そんな馬車へ乗れとおっしゃるの?」
用意された馬車は、華美な装飾こそないものの、清潔で手入れの行き届いたものだった。
しかし、エレオノーラにとっては、伯爵家の紋章がついていないというだけで、耐えがたい屈辱だった。
「わたくしは伯爵夫人なのよ! こんな扱いを受けるような身分ではありませんわ!」
執行官は静かに答えた。「現在のご身分と法務局の決定に基づき、適切な手配をしております」
「……現在の身分?」夫人は顔を引きつらせた。
「わたくしは、ヴァレンシュタイン伯爵夫人でしょう?」
「現在のヴァレンシュタイン伯爵夫人は、新当主アレクシス様の奥様でいらっしゃいます。エレオノーラ様は、既にアルベルト様との婚姻関係を解消されておりますので、正式な書類上も伯爵夫人の称号は使用されておりません」
エレオノーラはしばらく言葉を失った。
これまで何十年も、自分が何者であるかを説明する必要などなかった。ヴァレンシュタイン伯爵夫人という肩書きがあれば、使用人は頭を下げ、商人は丁寧に接し、社交界でも一定の敬意を払われてきた。
ところが今、その肩書きすら自分のものではないという。
「……そんな、馬鹿なことが」夫人は小さく呟いたが、執行官は何も答えなかった。
そのとき、屋敷の玄関から一人の女性が姿を現した。落ち着いた色合いのドレスを身につけた、三十代半ばの上品な婦人である。新当主アレクシスの妻であり、現在のヴァレンシュタイン伯爵夫人だった。
彼女はアレクシスの隣に立つと、静かにエレオノーラへ一礼した。
「エレオノーラ様。お荷物の整理はお済みになりましたでしょうか」
エレオノーラは、その女性を見つめた。「……あなたが、新しい伯爵夫人?」
「はい。このたび、夫が爵位を継承いたしましたので、今後はわたくしが屋敷の女主人を務めることになります」
「まあ、随分とお若いのね」エレオノーラは扇を広げ、わざとらしく微笑んだ。
「でも、伯爵夫人というものは、ただ若ければ務まるものではありませんのよ。わたくしのように、長年の経験と教養が必要なの。あなたには、まだ少し難しいかもしれませんわね」
新伯爵夫人は穏やかに微笑んだ。
「ご忠告、ありがとうございます。ただ、屋敷の管理については夫と家令に相談しながら進めておりますので、ご心配には及びません」
「まあ、そう。せいぜい頑張ってちょうだい。もっとも、わたくしほど立派に務めるのは難しいでしょうけれど」
エレオノーラは勝ち誇ったように微笑んだが、新伯爵夫人はそれ以上何も言わなかった。
その代わり、近くに控えていた侍女へ静かに声をかけた。
「午後のお客様がお見えになる前に、応接間の準備をお願いね。それから、庭師には花壇の仕上がりを確認しておくよう伝えてちょうだい」
「かしこまりました、奥様」侍女は深々と頭を下げ、すぐに仕事へ戻っていった。
エレオノーラは、その様子を黙って見つめていた。
かつて自分に向けられていた「奥様」という呼びかけが、今では別の女性に向けられている。しかも、使用人たちは誰も戸惑うことなく、新しい女主人の指示に従っていた。
「……まあ、随分と手際がよろしいのね」
夫人は皮肉を込めて呟いたが、誰も答えなかった。
新伯爵夫人はアレクシスとともに屋敷へ戻り、使用人たちもそれぞれの仕事へ散っていった。執行官は最後の確認を終え、エレオノーラへ馬車に乗るよう促した。夫人はしばらく玄関を見つめていたが、やがて不満げに扇を閉じた。
「本当に、皆さま薄情なのね。わたくしがどれほどこの屋敷に尽くしてきたか、少しも理解していらっしゃらないのだわ」
それでも、誰も引き留めなかった。
エレオノーラはようやく馬車へ乗り込み、窓から屋敷を見上げた。長年暮らしてきた建物は、以前と変わらずそこにあったが、玄関には新しい伯爵家の紋章が掲げられ、使用人たちは新当主のもとで忙しく働いている。彼女がいなくなっても、屋敷は何事もなかったように動き続けていた。
それが、エレオノーラには何よりも気に入らなかった。
「……わたくしがいなくなって、困ればよいのよ」
夫人は小さく呟いた。「きっと、すぐに分かるわ。わたくしがどれほど大切な存在だったか、皆さま思い知ることになるでしょうね」
馬車がゆっくりと動き出した。
エレオノーラは最後まで、屋敷の誰かが自分を呼び止めるのではないかと期待していた。新しい伯爵夫人が管理に困り、アレクシスが頭を下げ、使用人たちが泣いて戻ってきてほしいと頼む。そんな光景を思い描きながら、何度も窓の外を振り返った。
しかし、玄関から誰かが駆け出してくることはなかった。屋敷の門が閉じられると、エレオノーラはようやく前を向いた。
そのとき、少し離れた場所に、見覚えのある男が立っていることに気づいた。グレゴールだった。
小さな鞄を手に、乗合馬車を待っているらしい。
「……まあ、グレゴールじゃありませんの」
夫人は馬車を止めさせ、窓から声をかけた。
「あなた、そんなところで何をしているの?」
グレゴールは驚いたように振り返った。
「お、奥様……いえ、エレオノーラ様」
「まあ、あなたまでそんな呼び方をなさるの? 本当に、薄情な方ね」
「申し訳ございません」
「それで、これからどうなさるの?」
「王都の知人を頼って、仕事を探そうかと……」
「まあ、そう。あなたのような者を雇ってくださる方がいらっしゃるとよろしいわね」
夫人は少し意地悪そうに微笑んだ。
「もっとも、わたくしほど寛大な主人など、そうそういらっしゃらないでしょうけれど」
グレゴールは何も答えなかった。
エレオノーラはその様子を見て、少し気分をよくした。自分だけが不幸な目に遭っているわけではないと分かれば、多少は慰めになる。
「まあ、せいぜい頑張ってちょうだい。わたくしも、これから忙しくなりますもの。何しろ、王妃陛下にも旦那様にも、まだお話ししなければならないことがたくさんありますから」
「……さようでございますか」
「ええ。きっと、すぐに元どおりになるわ。わたくしほどの者が、いつまでもこんな扱いを受けるはずありませんもの」
夫人はそう言って、御者へ出発を命じた。
馬車が走り去るのを見送りながら、グレゴールは小さく息を吐いた。長年、夫人の言葉に同意し、機嫌を取ることで何とか過ごしてきたが、最後まで自分が何を間違えたのか、よく分からないままだった。
ただ一つ分かっているのは、もうあの屋敷へ戻ることはできないということだけだった。
一方、エレオノーラを乗せた馬車は、王都の中心部から少し離れた住宅街へ向かっていた。用意された住居は、以前の伯爵邸とは比べものにならないほど小さかったが、清潔で手入れも行き届いており、生活に必要な家具も揃えられている。
夫人は馬車を降りると、建物を見上げて顔をしかめた。
「……ここですの?」
「はい。法務局からご案内しているお住まいでございます」
「まあ、何て小さいのかしら。これでは、わたくしの衣装を置く場所もないでしょうに」
案内役の職員は丁寧に答えた。
「必要な生活空間は確保されております。お荷物については、収納できる範囲を確認し、必要に応じて保管方法をご相談いただけます」
「まあ、収納ですって? わたくしのドレスを、そんなふうに扱うおつもり?」
夫人は不満を口にしたが、職員は淡々と説明を続けた。
使用人は常駐しておらず、必要な家事については自分で行うか、私費で人を雇う必要があること。生活費は法務局の決定に従って支給されるが、以前のような高額な衣装や宝飾品の購入を前提としたものではないこと。そして、住居の維持管理についても、定められた範囲で本人が責任を負うこと。
エレオノーラは説明を聞きながら、次第に顔色を変えていった。「……使用人がいない?」
「はい。常駐の使用人は配置されておりません」
「では、朝のお茶は誰が淹れるの?」
「ご自身でご用意いただくか、必要であれば家事を請け負う方をお雇いください」
「……ドレスの手入れは?」
「そちらも同様でございます」
「まあ、何てこと!」
夫人は声を上げた。「わたくしに、そんなことを自分でしろとおっしゃるの? わたくしは伯爵夫人だったのよ!」
職員は静かに答えた。
「現在の生活保障は、法務局の判断に基づいております。必要な範囲での支援はございますが、以前と同じ生活を維持するものではございません」
エレオノーラはしばらく黙っていたが、やがて不満げに扇を開いた。
「本当に、皆さまわたくしに意地悪ばかりなさるのね。わたくしが少しばかり美しくて、優秀だからといって、ここまでなさるなんて。きっと、わたくしが羨ましくて仕方がないのでしょう」
職員は何も答えなかった。必要な説明を終えると、書類への署名を求め、鍵を渡した。エレオノーラが何度も不満を口にしても、職員の態度は変わらず、最後には丁寧に一礼して帰っていった。
残された夫人は、見慣れない小さな居間に立ち尽くしていた。かつての伯爵邸では、彼女が声を上げれば誰かが駆けつけた。紅茶を淹れる者、衣装を整える者、食事を用意する者、機嫌を取る者。どれほど理不尽な要求をしても、使用人たちは頭を下げ、何とか応えようとしていた。
しかし、今は誰もいない。
「……誰か!」夫人は試しに声を上げてみた。
返事はなかった。
「ちょっと、誰かいませんの!」
もう一度、少し大きな声で呼んだが、やはり誰も来なかった。エレオノーラは不機嫌そうに扇を閉じ、椅子へ腰を下ろした。
「本当に、何て不便なのかしら。わたくしがこんな暮らしをしなければならないなんて、信じられませんわ」
しばらくすると喉が渇いたが、紅茶を用意してくれる者はいない。仕方なく台所へ向かったものの、湯を沸かす道具の使い方すらよく分からなかった。
「まったく、どうしてこんな面倒なことをしなければならないのかしら。わたくしほどの者が、こんなことをするなんて……」
夫人は不満を口にしながら、ようやく水を汲んだ。
***
その頃、ヴァレンシュタイン伯爵邸では、新当主夫妻が使用人たちを集め、今後の管理方針について説明していた。未払い給与の支払いは既に進み、領地の補修工事も順調に進んでいる。屋敷の管理についても、経験豊富な新家令のもとで仕事の手順が整えられ、使用人たちは以前より落ち着いて働けるようになっていた。
「皆、これまで大変だったと思うが、今後は安心して仕事に励んでほしい。分からないことがあれば、遠慮なく家令や担当者に相談してくれ」
アレクシスがそう告げると、使用人たちは深々と頭を下げた。
新伯爵夫人も穏やかに微笑んだ。
「これから少しずつ、よい屋敷にしていきましょうね」
その言葉に、若い侍女の一人が思わず目を潤ませた。以前なら、仕事で分からないことがあっても、尋ねるだけで叱責されることが多かった。失敗すれば無能だと罵られ、指示が変わっても、それを指摘することすら許されなかった。
しかし、今は違う。必要なことを教えてもらい、間違えれば修正し、仕事ができるようになれば認めてもらえる。それだけのことが、使用人たちにとっては何よりありがたかった。
屋敷の中には、久しぶりに穏やかな空気が戻っていた。
一方、エレオノーラは小さな住居で、ようやく淹れた紅茶を口にしていた。
「……何ですの、この味は」夫人は顔をしかめた。
「こんな紅茶、飲めたものではありませんわ。まったく、誰が淹れたのかしら……」そこまで言って、ふと口をつぐんだ。
紅茶を淹れたのは、自分だった。
エレオノーラはしばらく茶器を見つめていたが、やがて不満げにため息をついた。
「本当に、皆さまわたくしに意地悪なのね。わたくしがこんな苦労をしなければならないなんて、きっと誰かが仕組んだことに違いないわ」
夫人はそう呟き、冷めかけた紅茶をもう一口飲んだ。
誰も謝らなかった。
誰も慰めなかった。
そして、誰も彼女の言葉に同意しなかった。
それでもエレオノーラは、まだ自分が特別な存在であると信じていた。いつか王妃が自分の価値を思い出し、夫が迎えに来て、息子が謝罪し、伯爵家の者たちが頭を下げる日が来るはずだと。
だが、その日が訪れることはなかった。
――完――
最後まで、お読みいただきありがとうございます。
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