12
エリオットからの返事が届いたのは、エレオノーラが三度目の催促状を出そうとしていた日の午後だった。息子からの手紙だと聞いた途端、夫人は嬉しそうに封筒を受け取り、グレゴールに向かって得意げに微笑んだ。
「ほら、ご覧なさい。やっぱり、あの子はわたくしの言うことを聞くのよ。少し厳しく申し上げれば、すぐに反省するのだから。昔からそういう子でしたもの」
ところが、封を切って読み始めると、その笑みはたちまち消えた。手紙には、婚姻が正式に成立していること、爵位継承権を放棄したこと、今後も隣国で妻子と暮らす意思に変わりがないことが、簡潔な文章で記されていた。帰国する予定はなく、妻と子供への接触も控えてほしいという一文に至って、夫人はとうとう声を上げた。
「何ですの、これは! あの子ったら、どういうつもりなのかしら。母親に向かって、こんな失礼な手紙を寄越すなんて!」
「エリオット様から、何かございましたか」
「何かございましたか、ではありませんわ! わたくしが心配しているというのに、帰ってくるつもりはないですって。それどころか、妻と子供に会うなとまで書いてあるのよ。信じられます?」
グレゴールは差し出された手紙を覗き込んだが、夫人の怒りを鎮めるような言葉は思いつかなかった。そもそも、エリオットが結婚していたことすら最近まで知らなかったのである。
「きっと、あちらの商家の者たちが何か吹き込んだのね。そうでなければ、あの優しい子がこんなことを書くはずありませんもの。わたくしがどれほど大切に育てたと思っているのかしら。学園へ通わせるにも、家庭教師をつけるにも、随分とお金がかかったのよ。それなのに、母親への感謝も忘れて、平民の娘などと結婚してしまうなんて!」
「奥様のお気持ちは、よく分かります」
「分かるものですか! あなたに子供を育てた苦労が分かるとでもおっしゃるの?」
グレゴールは慌てて頭を下げた。つい先ほどまで夫人に同意していたことが、なぜ叱責される理由になるのか理解できなかったが、こういうときは謝るに限る。
「申し訳ございません、奥様」
「まったく、わたくしの周りには、どうしてこうも人の気持ちを理解できない者ばかり集まるのかしら。息子までこんなことになるなんて、きっと誰かがわたくしを陥れようとしているのね」
夫人は手紙を机に叩きつけると、しばらく部屋の中を歩き回った。やがて何かを思いついたらしく、急に足を止めた。
「そうだわ。旦那様にお話ししましょう。あの方なら、わたくしの気持ちを理解してくださるはずよ。そもそも、あの子の結婚を勝手に承認したというのも、何かの間違いでしょうし」
「旦那様へ、お手紙をお出しになりますか」
「ええ。ただし、今回は少し厳しく申し上げなくてはね。わたくしに相談もなく息子の将来を決めるなんて、夫婦としてあってはならないことですもの。旦那様も、わたくしがこれほど傷ついたと知れば、きっと慌てて帰っていらっしゃるわ」
エレオノーラは便箋を用意させ、夫への手紙を書き始めた。冒頭には、長年夫婦として支え合ってきたことへの感謝が綴られていたものの、すぐに息子の婚姻を勝手に承認したことへの非難へ変わり、最後には速やかに王都へ戻って自分に説明するよう求める文章になった。さらに、王宮の事務官たちが自分を不当に扱っていること、王妃も昔からの友人である自分を助けようとしないこと、使用人たちが無能で苦労していることまで書き連ねたため、手紙は十枚を超える長さになった。
「これで、旦那様も事情を理解してくださるでしょう。わたくし、昔から文章を書くのは得意でしたもの。学院時代も、先生方に随分と褒められたのよ」
グレゴールは深々と頷き、手紙を受け取った。
夫人はそれで問題が一つ片づいたと思ったらしく、午後のお茶会に着ていく衣装の話を始めたが、アルベルト伯爵がその手紙をどのように受け取るかについては、少しも考えていなかった。
***
その頃、王宮ではヴァレンシュタイン伯爵家の爵位継承と領地管理について、法務局を交えた審査が進められていた。
アルベルト伯爵は既に領地管理から退く意思を示しており、エリオットも正式に継承権を放棄している。ヴァレンシュタイン家の継承規定に従えば、次に資格を持つのは傍系の親族だったが、その人物が爵位を引き継ぐには、王家の承認と領地管理能力の確認が必要だった。
「候補者については、既に調査を進めております」
法務局の担当官が提出した資料に、オスカーは目を通した。
「傍系の親族であるアレクシス・フォン・ヴァレンシュタイン殿か。現在は子爵家の領地管理に携わっているのだな」
「はい。母方を通じてヴァレンシュタイン家の血を引いており、継承順位にも問題はございません。これまで領地経営に関わってきた実績も確認できております」
「本人の意思は?」
「正式な打診に対し、領地の再建を条件に継承を受け入れる意向を示されています。ただし、現状の財務と使用人の管理体制については、全面的な見直しが必要とのことです」
オスカーは頷いた。アレクシスは三十代後半の貴族で、派手な社交活動より領地経営を重視する人物として知られていた。現在のヴァレンシュタイン伯爵領を引き継ぐには相当な苦労が予想されるが、少なくとも、帳簿の意味すら理解していない家令に任せるよりは、はるかに現実的な選択だった。
「使用人への未払い給与については、どうなっている?」
「優先支払いの対象として整理しております。王宮の監督下で領地収入の一部を確保し、段階的に支払う方針です。ただ、伯爵邸の私的な支出については、これ以上認めることはできません」
「当然だな。領民の生活を守るための資金を、夫人の衣装代や宝飾品に回すわけにはいかない」
「それから、伯爵邸の管理についてですが、新当主への移行が正式に決まれば、現在の家令を継続して雇用する必要はございません。夫人についても、婚姻関係と居住権の整理が必要になります」
「アルベルト伯爵の離婚申立ては?」
「既に正式な手続きが進められております。長年の別居と婚姻関係の実態については、双方から提出された資料をもとに審査される予定です」
オスカーは資料を閉じた。
財務監査局が直接離婚を決定するわけではないが、伯爵家の管理体制を変更する以上、夫人の居住権や財産に関する権利についても、法務局との連携が必要だった。
「夫人には、今後の手続きについて正式に説明しておこう。爵位継承の審査が進んでいることも、現在の管理体制が維持できない可能性も、きちんと伝える必要がある」
「承知しました。ただ、これまでの面談では、説明を最後まで聞いていただけないことが多く……」
「それでも、説明した事実を残しておくことが重要だ。必要であれば、書面でも通知しよう」
オスカーは淡々と答えた。夫人が事実を受け入れるかどうかは、王宮が決められることではない。しかし、正式な手続きを進めるうえで、必要な通知を怠るわけにはいかなかった。
***
数日後、ヴァレンシュタイン伯爵邸へ新たな通知が届いた。そこには、爵位継承に関する審査が進められていること、現当主が領地管理から退く意思を示していること、そして今後の管理体制について正式な協議が必要であることが記されていた。
エレオノーラは最初の数行を読んだところで、あからさまに顔をしかめた。
「まあ、また王宮からなの? 本当に、あの方々は何度同じことを言えば気が済むのかしら。わたくしの息子が伯爵家を継ぐと申し上げているでしょうに」
「奥様、今回は新しい継承候補者についても書かれているようでございます」
「新しい候補者?」
夫人はグレゴールから書簡を取り上げ、該当する箇所に目を通した。
「……アレクシス・フォン・ヴァレンシュタイン? 誰ですの、この方」
「さあ、私も存じませんが、伯爵家のご親戚ではないでしょうか」
「親戚ですって? そんな方が、どうしてわたくしの屋敷のことに口を出すのかしら。まさか、エリオットが留学している間に、伯爵家を乗っ取ろうとしているのではなくて?」夫人は顔を赤くした。
「まあ、何て恐ろしいこと! やっぱり、わたくしが優秀だから、皆さま嫉妬していらっしゃるのね。息子が隣国にいるのをいいことに、伯爵家を奪おうとするなんて、随分と卑怯な方だわ!」
「まことに、許しがたいことでございますな」
「そうでしょう! しかも、王宮の事務官たちまで協力しているようではありませんの。あのフィリップ様も、最初はわたくしに随分と親切だったのに、最近はすっかり態度が変わってしまって。きっと、長官に何か吹き込まれたのね」
エレオノーラは怒りに任せて書簡を机に叩きつけたが、すぐに何かを思いついたように顔を上げた。
「そうだわ。王妃陛下にお話しすればよいのよ。セレスティーヌ様なら、わたくしがどれほど伯爵家を大切にしてきたか、ご存じのはずですもの。昔からわたくしのことを意識していらしたけれど、さすがにここまで酷いことをなさるとは思えませんわ」
「では、またお手紙を?」
「いいえ、今度は直接お会いしてお話しするわ。お手紙では、わたくしの気持ちが十分に伝わらないのでしょう。やはり、昔からの友人同士、顔を合わせてお話しするのが一番ですもの」
夫人はそう言って、王宮へ面会を申し込むよう命じた。
ところが、王妃との面会は簡単には実現しなかった。王妃には公務の予定があり、私的な面会についても正式な手続きを経る必要がある。まして、財務監査局の調査に関する苦情を王妃へ直接訴えようというのであれば、担当部署を通すよう案内されるのは当然だった。しかし、エレオノーラはそれを、自分への意地悪だと受け取った。
「まあ、王妃陛下にお会いするのに、どうしてそんなに面倒な手続きが必要なのかしら。わたくしは昔からの友人なのよ。普通の貴族と同じ扱いをなさるなんて、失礼にもほどがありますわ!」
グレゴールは王宮からの回答を読み上げながら、困ったように頭を下げた。
「ですが奥様、王妃陛下のご予定が……」
「予定ですって? わたくしがこれほど困っているというのに、何を優先なさるというのかしら。やっぱり、セレスティーヌ様は今でもわたくしに嫉妬していらっしゃるのね。昔からそうだったもの。わたくしが少し目立つと、すぐに不機嫌になられて……」
夫人はそこから、学院時代の話を延々と始めた。
王太子だった国王から特別に目をかけられていたこと、侯爵家との家格の差がなければ自分が王妃になっていたこと、セレスティーヌが今でもそのことを気にしているに違いないこと。グレゴールは何度も聞いた話に相槌を打ちながら、王宮への返答をどうすればよいか考えていた。
結局、夫人は王妃との面会が認められないことに腹を立て、王宮の対応について正式な抗議を申し立てることにした。
しかも、その抗議文には、財務監査局の長官が自分を不当に扱ったこと、王妃との親密な関係を妨げようとしていること、さらに伯爵家の財産を奪おうとする陰謀に加担している疑いがあることまで書き加えられていた。
グレゴールは夫人の言葉をそのまま書き写し、内容を確認することもなく封をした。
***
数日後、その抗議文が王宮の正式な窓口へ届けられた。受け取った担当官は、一通り目を通したあと、しばらく言葉を失った。そこには王宮財務監査局長官に対する重大な非難が並んでいたものの、具体的な証拠は何一つ添えられていなかった。しかも、夫人自身が王妃との個人的な関係を理由に、正式な調査を中止させようとしていることまで明記されている。
「……これは、どう扱うべきでしょうか」若い担当官が上司へ尋ねると、上司は静かに答えた。
「正式な抗議として受理し、事実関係を確認するしかない。ただし、内容に虚偽が含まれている場合は、当然その責任も問われることになる」
「長官への告発もございますが」
「それも同じだ。相手が誰であろうと、事実に基づいて判断する。王妃陛下のお名前を持ち出したからといって、特別扱いするわけにはいかない」
担当官は頷き、必要な手続きを進めた。
その日の夕方、オスカーのもとにも抗議文の写しが届けられた。長官は内容に目を通すと、しばらく黙っていたが、やがて静かに書類を閉じた。
「……ここまで来たか」
同席していたフィリップが、申し訳なさそうに頭を下げた。
「私の不用意な発言が、発端になってしまいました。申し訳ございません」
「君が謝る必要はない。既に発言の経緯は確認できているし、夜会での夫人の発言についても証人がいる。問題は、その後も誤解を解こうとせず、事実と異なる内容を公的な文書に記載していることだ」
「はい」
「正式な告発として受理された以上、こちらも必要な資料を提出しよう。夜会での発言、私的な招待状、面談の記録、そして財務調査に関する通知と回答を、時系列に整理してくれ」
「承知しました」
「それから、伯爵領の調査については予定どおり進める。夫人の抗議があったからといって、領民への対応を止めるわけにはいかない」
オスカーはそう言うと、再び資料へ目を戻した。
***
その頃、ヴァレンシュタイン伯爵邸では、エレオノーラが自分の抗議文によって王宮が大騒ぎになっていると信じ、上機嫌で過ごしていた。
「これで、あの方々も少しは反省なさるでしょう。わたくし、昔から間違ったことは見過ごせない性格ですもの。どれほど偉い方が相手でも、正しいことは正しいと申し上げる勇気が必要なのよ」
「まことに、奥様のおっしゃるとおりでございます」
「それに、わたくしが本気になれば、王妃陛下だって無視できないでしょう? 何しろ、学院時代からのお付き合いですもの。あの方も、わたくしのことをよくご存じなのよ」
夫人は満足げに微笑み、紅茶を口にした。自分が王宮の正式な調査を妨害し、長官に対する根拠のない告発を繰り返していることなど、少しも気にしていなかった。むしろ、王妃との関係を持ち出すことで、自分の立場を有利にできると信じていたのである。
しかし、彼女が書簡を重ねる間にも、王宮では伯爵家の管理権限についての審査が進んでいた。現当主が領地管理から退く意思を示し、嫡男が継承権を放棄している以上、次の継承資格者を正式に決定する必要がある。
そして、傍系親族であるアレクシス・フォン・ヴァレンシュタインが、王家の承認を得て伯爵家を継ぐ可能性は、日に日に高まっていた。
もっとも、エレオノーラはそのことを少しも心配していなかった。自分が伯爵夫人である以上、屋敷も領地も自分のものであり、誰かに奪われるなどあり得ないと信じていたからである。彼女にとって、伯爵家とは自分を中心に成り立つものであり、夫も息子も使用人も、そのために存在しているにすぎなかった。
その考えが、まもなく正式な書類によって否定されることになるとは、夢にも思っていなかった。
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