11
差し出された書類には、確かにヴァレンシュタイン伯爵家の受領印が押されていた。エレオノーラはそれを見た途端、後ろに控えていたグレゴールを振り返った。
「グレゴール! あなた、こんな書類を受け取っていたの!?」
「い、いえ、奥様。私は、そのような……」
「受領欄には、家令殿の署名がございます」
フィリップが静かに指摘すると、グレゴールは慌てて書類を覗き込んだ。
「こ、これは……確かに私の署名のようですが……」
「どういうことなの! あなた、わたくしに何も報告しなかったの!?」
「申し訳ございません、奥様。ただ、私はそのような重要な書類だとは存じませんで……」
「重要かどうかも分からないなんて、あなたは本当に無能ね! わたくしがどれほどあなたを信頼していたと思っているの!」
グレゴールは何度も頭を下げたが、夫人の怒りは収まらなかった。
「まったく、どうしてわたくしの周りには、こんなに仕事のできない人ばかり集まるのかしら。わたくし一人がどれほど頑張っても、これではどうにもなりませんわ!」
フィリップは夫人の言葉が途切れるのを待ってから、改めて口を開いた。
「伯爵夫人、もう一点、確認していただきたいことがございます」
「まだ何かありますの!?」
「エリオット様は婚姻に伴う身分変更の際、ヴァレンシュタイン伯爵家の爵位継承権についても、正式に放棄の手続きを取られております」
夫人は目を見開いた。「……何ですって?」
「王国側でも手続きは完了しており、現在、エリオット様に伯爵位の継承資格はございません」
「そんなこと、認めませんわ!」エレオノーラは勢いよく立ち上がった。
「わたくしの息子なのよ! あの子が伯爵家を継がなくて、誰が継ぐというの! それに、わたくしは母親ですのよ。母親の許可もなく、そんな勝手なことができるはずありませんでしょう!」
「エリオット様は既に成人されており、必要な手続きも正式に行われております。また、当時の当主であるアルベルト伯爵も承認されておりますので、法的な問題はございません」
「ですから、主人がそんなことを認めるはずがないと申し上げているでしょう!」夫人は顔を赤くして叫んだ。
「主人はわたくしを愛しているのよ! あの方がわたくしの知らないところで、息子の将来を勝手に決めるはずありませんわ!」
フィリップは、夫人が落ち着くのを待った。
しかし、エレオノーラはなおも、自分がどれほど息子を大切に育ててきたか、息子がどれほど優秀だったかを語り続け、話を戻そうとするたびに、王宮の事務官たちが自分を侮辱していると訴えた。
結局、その日の面談は予定を大幅に超えてしまったが、夫人が事実を受け入れることはなかった。
「もう結構ですわ! あなた方のお話は、これ以上聞く必要がありません。わたくしの息子が平民になったなどという馬鹿げた話を、どうして信じなければならないのかしら。王宮の方々も、随分と質が落ちたものね!」
夫人はそう言い捨てると、グレゴールを連れて部屋を出ていった。残されたフィリップたちは、しばらく無言で書類を整理していた。
「……予想はしていたけど、ここまでとは思わなかったな」同僚が小さく呟くと、フィリップは疲れたように頷いた。
「少なくとも、正式な資料を提示し、説明した記録は残せた。あとは長官へ報告するしかない」
「夫人は、まだ息子が留学していると思っているんだろうな」
「そうだろうね。ただ、事実を認めるかどうかにかかわらず、爵位継承の手続きは進めなければならない」
フィリップは机の上の書類を揃えた。
「それに、伯爵本人が王都の屋敷へ戻る意思を持っていない以上、現在の管理体制を維持するのは難しい。領民への影響を考えれば、これ以上先延ばしにはできないだろう」
***
その頃、エレオノーラは自室でグレゴールを叱責していた。
「あなた、本当に何をしていたの! あんな重要な書類を三年間も放置するなんて、信じられませんわ!」
「申し訳ございません、奥様」
「わたくしがどれほどあなたを信用していたと思っているの! 前の家令なら、こんなことはなかったわ。まったく、あなたは何一つまともにできないのね!」
グレゴールは深々と頭を下げた。普段は夫人の機嫌を取ることで何とかやり過ごしてきたが、今回は何を言っても怒りが収まらないようだった。
「ですが奥様、エリオット様がそのようなことをなさったとは、私も存じませんでしたので……」
「だから、それを調べるのがあなたの仕事でしょう! わたくしがいちいち確認しなければならないのなら、家令など必要ありませんわ!」
夫人は扇を握りしめ、苛立たしげに部屋を歩き回った。
「それにしても、あの子ったら、どういうつもりなのかしら。平民の娘と結婚しただなんて、何かの間違いに決まっているわ。きっと、あちらの商家が伯爵家との縁を欲しがって、あの子を騙したのよ。そうでなければ、わたくしの息子がそんなことをするはずありませんもの」
「さようでございましょうな」
「そうよ! あの子は昔から優秀で、誰よりもわたくしを尊敬していたのよ。母親に相談もせず結婚するなんて、あり得ませんわ。きっと、何か事情があるに違いないの」
エレオノーラはそう言うと、急に表情を明るくした。
「そうだわ。あの子に直接お手紙を書きましょう。わたくしが事情を聞けば、きっと素直に話してくれるはずよ。それに、もし本当に結婚していたとしても、今から取り消せばよいだけでしょう?」
「奥様、それは……」
「何ですの?」
グレゴールは口をつぐんだ。成人した息子の婚姻を母親の一存で取り消すことなどできないと、さすがの彼にも分かっていたが、今それを指摘すれば、さらに怒鳴られるに違いない。
「いえ、何でもございません」
「でしたら、早く便箋を用意してちょうだい。あの子には、母親としてきちんと話をしておかなくては」
夫人はそう言って机に向かい、息子への手紙を書き始めた。その内容は、心配しているという言葉から始まっていたものの、次第に母親への相談もなく結婚したことへの非難となり、最後には速やかに帰国して事情を説明するよう命じるものになっていた。
さらに、商家の娘との婚姻など伯爵家にふさわしくないこと、母親である自分が認めない以上、その結婚は正式なものとは考えられないことまで書き添えられている。エレオノーラは書き終えると、満足そうに封筒を閉じた。
「これで、あの子も自分がどれほど母親を心配させたか分かるでしょう。わたくし、昔から子供の教育には厳しかったもの。少し叱ってあげれば、すぐに反省するはずよ」
グレゴールはいつものように頷いたが、夫人が手紙を送ろうとしている相手は、既に妻子を持つ二十四歳の成人男性だった。そして、エリオットが母親から離れるために隣国へ渡ったことも、今の生活を守るために貴族籍を離れたことも、二人は理解していなかった。
***
数日後、隣国の商家に一通の手紙が届いた。
エリオットは差出人を見た途端、少しだけ表情を曇らせた。母親からの手紙を受け取るのは久しぶりだったが、内容については、封を切る前からある程度予想がついていたのである。
「どうしたの?」妻が心配そうに尋ねると、エリオットは小さく微笑んだ。
「母からだよ。どうやら、僕が結婚したことをようやく知ったらしい」
「まあ……」妻は驚いたように目を見開いた。
「でも、三年前に正式な通知を送ったのでしょう? お義父様にも承認していただいているのに」
「ああ。だから、母も当然知っていると思っていたんだけどね」
エリオットは封を切り、手紙に目を通した。そこには予想どおり、母親への相談もなく結婚したことへの非難と、速やかに帰国するよう求める言葉が並んでいた。読み進めるうちに、エリオットは小さくため息をついた。
「……相変わらずだな」
「何と書いてあるの?」
「僕の結婚は認めないから、すぐに帰国して説明しろって。それから、君との婚姻は伯爵家にふさわしくないから、取り消すべきだそうだ」
妻は少し悲しそうな顔をしたが、エリオットはすぐに首を振った。
「気にしなくていい。母は昔から、自分の思いどおりにならないことがあると、相手が間違っていると考える人なんだ。僕が何を言っても、きっと理解してもらえないだろう」
「でも、あなたのお母様でしょう? このままでよいのかしら」
「母親だからこそ、もう十分だと思っているよ」
エリオットは手紙を丁寧に畳み、机の上へ置いた。
「僕はずっと、母の期待に応えようとしてきた。学園でもよい成績を取ろうと努力したし、母が望むような息子でいようとした。でも、どれだけ頑張っても、母は満足しなかった。僕が何かを成し遂げれば、それは母の教育が優れていたからだと言われ、失敗すれば、母の顔に泥を塗ったと責められた」
妻は黙って耳を傾けていた。
「隣国へ来て、初めて自分の人生を考えられるようになったんだ。君と出会って、家族というものは、誰か一人の期待に応えるためにあるわけじゃないと知った。だから、今の生活を手放すつもりはないよ」
「……ええ」妻は穏やかに微笑んだ。
隣の部屋から、幼い子供の笑い声が聞こえてきた。エリオットはその声に目を向け、表情を和らげた。
「返事は書くつもりだ。ただし、帰国する意思はないことと、僕の家族に干渉しないでほしいということは、はっきり伝えるよ」
「分かったわ」
エリオットは頷き、便箋を取り出した。
母親の手紙は長々と続いていたが、彼が書いた返事は簡潔なものだった。
婚姻は正式に成立しており、取り消す意思はないこと。爵位継承権の放棄についても、父親の承認を得て手続きを完了していること。
そして、今後も隣国で妻子と暮らすつもりであり、伯爵家へ戻る予定はないこと。
最後に、妻と子供への接触は控えてほしいと書き添え、署名をした。
エリオットは書き終えると、しばらく便箋を見つめていたが、やがて静かに封を閉じた。
かつての彼なら、母親を怒らせないよう、何度も文章を書き直していただろう。相手の機嫌を損ねない言葉を選び、自分の希望を曖昧にし、最後には母親の望む答えを書いていたかもしれない。
しかし、今は違った。
彼には守るべき家族があり、自分で選んだ生活がある。母親がそれを認めるかどうかは、もはや彼の人生を左右する問題ではなかった。
***
一方、ヴァレンシュタイン伯爵邸では、エレオノーラが息子からの返事を心待ちにしていた。
「きっと、あの子も驚いたでしょうね。わたくしがあんなに厳しく申し上げたのだから、今頃は反省しているに違いないわ」
「さようでございましょうな」
「でも、わたくしは優しい母親ですもの。きちんと謝って帰ってくるなら、許してあげるつもりよ。あの子だって、母親に逆らって幸せになれるはずがありませんものね」
夫人は満足そうに微笑み、紅茶を口にした。
***
その頃、王宮ではヴァレンシュタイン伯爵家の爵位継承について、正式な審査が始まっていた。
直系の継承資格者がいなくなった以上、王家の承認を経て傍系親族へ継承権を移す必要がある。さらに、現当主であるアルベルトが領地管理から退く意思を示していることもあり、王宮は新たな管理体制の整備を急いでいた。
そして、エレオノーラが自分のものだと信じて疑わなかった伯爵家の屋敷についても、管理権限の見直しが検討され始めていた。もっとも、夫人はそのようなことを少しも気にしていなかった。息子が帰国すればすべて元どおりになると信じていたし、王妃からの返事さえ届けば、長官も自分に謝罪するはずだと思っていたのである。
彼女にとって、問題が解決するということは、自分の望むとおりに周囲が動くことだった。
その考えが通用しなくなる日が近づいていることを、エレオノーラだけが知らなかった。
お読みいただきありがとうございます。
よろしければ、下の☆☆☆☆☆から評価を入れていただけると大変励みになります。




