第9話 被害者なのに
何もしていないのに、原作通りに起きてしまった最初の嫌がらせ事件。
その中で、ただ一人リゼリアを庇ったのは、被害者であるはずのエリシアでした。
教室での騒ぎがひとまず収まった頃には、窓の外に差し込む光が少しずつ夕方の色へ変わり始めていた。
破られた教科書は教師が確認のために預かり、私が本当に第二実技室にいたのかについても、すぐにフェルナン先生へ確認が取られた。
当然、答えは同じだった。
私は事件が起きたとされる時間よりも前から第二実技室に入り、課題を提出したあとも先生の目の届くところにいた。
つまり、少なくとも私自身がエリシアの教科書を破ることは不可能だった。
それにもかかわらず、目撃したと言う生徒は一人ではなかった。
私が教室へ入ったところを見た者、エリシアの机の前に立っていたところを見た者、中には私が教科書を手にしているところまで見たと話す者もいた。
誰か一人が嘘をついているのなら、まだ分かる。
私を嫌っている生徒がいて、何らかの理由で陥れようとしているのだと考えればいい。
けれど、証言した生徒たちは互いに特別親しいわけでもなく、家同士に共通点があるわけでもない。
何より、嘘をついている人間の表情には見えなかった。
教師から、
「本当にアーデンベルク嬢を見たのか」
と確認されるたび、彼女たち自身も困惑したように顔を見合わせる。
それでも最後には、
「はい、確かに見ました」
と答えるのだ。
その様子を見ているうちに、私は怒りよりも先に、言葉にできない不気味さを覚えていた。
誰かに濡れ衣を着せられた。
そう考える方が、まだずっと楽だったかもしれない。
「今日はもう帰って構わない」
担当教師にそう言われたのは、ほとんどの生徒が校舎を出たあとだった。
「目撃した生徒たちからは、もう少し詳しく話を聞いておく。アーデンベルク嬢についても、第二実技室にいたことは確認できているから今の時点で処分などを考えることはない」
「承知いたしました。ありがとうございます」
私は頭を下げたものの、胸につかえたものは少しも消えなかった。
処分されるかどうかは、今の私にとって一番の問題ではない。
問題なのは、どうしてこんなことが起きたのかということだ。
原作のイベントが、そのまま起きた。
私が何もしていないにもかかわらず。
しかも、私を見たという人間まで存在する。
そんなことは、本来ならあり得ない。
「リゼリア」
教師と話し終えたところで、少し離れた場所に立っていたアルベルトが私を呼んだ。
「殿下。まだ残っていらしたのですか?」
「ああ。君の話も聞いてから戻ろうと思っていた」
「お気遣いありがとうございます」
そう答えると、アルベルトは少し言いにくそうな顔をした。
「先ほどは、悪かった」
「……何がです?」
「君に、本当に何もしていないのかと聞いただろう」
その言葉で、教室での会話を思い出す。
胸がわずかに痛んだことまで、妙にはっきり覚えていた。
「殿下がお気になさる必要はありませんわ。目撃者が複数いたのですから、確認するのは当然です」
「それでも、君がその時間に別の場所にいたという話を先に聞いていた。なのに俺は、目撃証言があるというだけで君自身に確認した」
「王太子としては正しい判断でしょう?」
「婚約者としては、そうとも言い切れない」
思っていたよりも真面目な声で言われ、私は一瞬返答に困った。
八年前から、アルベルトとは何度も言葉を交わしてきた。
形式上だけではなく、少なくとも今の私にとって、彼はよく知る相手だ。
だからこそ、席ほどの一言に少し傷ついたのも事実だった。
けれど、その感情をそのまま口にするのは、何となく違う気がした。
「……次からは、もう少し早く信じてくだされば十分ですわ」
そう答えると、アルベルトは少しだけ目を見開いたあと、困ったように笑った。
「善処する」
「善処、ですの?」
「簡単に何でも信じると言えば、それはそれで怒るだろう?」
「当然です」
「ほらな」
ほんの少しだけ空気が和らぐ。
けれど、それも長くは続かなかった。
アルベルトは教室の奥へ視線を向ける。
そこには、まだエリシアがいた。
彼女は自分の席に座り、破られた教科書の代わりに、先生から渡された仮の教材を鞄へしまっているところだった。
「それにしても」
アルベルトが小さな声で言う。
「ベルナール嬢は、ずいぶん強く君を庇っていたな」
「……ええ」
「何か心当たりは?」
「ありませんわ」
それこそ、私が聞きたい。
エリシアが私を信じる理由。
あの時の彼女には、迷いがなかった。
目撃者が複数いると言われても、彼女だけは「リゼリア様ではありません」と断言した。
それも、気休めや同情ではなく、本当にそう信じているように見えた。
「少しお話ししてから帰ります」
「ベルナール嬢と?」
「ええ」
「分かった。俺は先に戻るが、あまり遅くならないように」
「はい」
アルベルトと別れたあと、私は教室へ戻った。
中に残っているのは、私とエリシアだけだった。
外から聞こえてくる生徒たちの声も、すでにかなり遠い。
「エリシア様」
名前を呼ぶと、彼女はすぐに振り返った。
「リゼリア様」
「少し、よろしいかしら」
「はい、もちろんです」
私は彼女の机の向かいに立つ。
何から聞けばいいのか迷ったけれど、結局一番気になっていることをそのまま口にした。
「どうして、私を庇ったのです?」
エリシアは少し目を丸くした。
「どうしてって……」
「あなたは被害者でしょう?」
私は彼女の机に視線を落とした。
教科書そのものはすでに教師が持っていったけれど、床には回収しきれなかった小さな紙片がまだ一つ残っている。
「あなたの物が壊されて、周囲の人たちは私がやったと言っていた。それなのに、あなたは最初から私ではないと決めつけていたでしょう?」
「決めつけたつもりはありません」
「では、どうして?」
私が尋ねると、エリシアは答えずに口を閉じた。
その反応だけで、また胸の奥に違和感が生まれる。
何かある。
やっぱり、この子は何かを隠している。
「私には、事件が起きた時間に第二実技室にいたという証拠があります。でも、あの時のあなたはまだ先生への確認が取れる前から、私ではないと言っていたわ」
「それは……」
「どうして、そこまで私を信じられたの?」
少しだけ強い口調になってしまった。
エリシアが私を助けてくれたこと自体は、ありがたい。
dめお、理解できないままにしておく方が怖かった。
私はこの世界の原作を知っている。
そして原作のエリシアなら、こんな反応はしない。
少なくとも、私の記憶の中では。
エリシアはしばらく黙ったまま、自分の指先を見ていた。
それから、慎重に言葉を選ぶように口を開く。
「……リゼリア様は、私に何もしていないからです」
「それだけ?」
「それだけでは、駄目ですか?」
「今日のことだけなら、それでも分かります。でもあなたは、編入してきたときからずっと、私に対して妙に……」
そこまで言って、言葉を止めた。
「妙に?」
エリシアが首を傾げる。
「……距離が近いですわ」
「あ」
「初めて会った時から、なぜか私と話たがって、一緒に昼食を食べて、図書室まで来るようになったでしょう?」
「ご迷惑でしたか?」
「そういう話をしているのではありません」
「あ、はい」
しゅん、とした表情になったので、少しだけ言い過ぎたような気分になる。
「嫌だったわけではありません。ただ、貴女が私にそうする理由がわからないの」
私がそう言うと、エリシアはまた黙り込んだ。
やはり。
答えにくい理由がある。
「……リゼリア様」
「何かしら」
「私が、リゼリア様を信じているのは」
そこで彼女は一度息を吸った。
私は無意識に身構える。
「リゼリア様が、私の知っている……」
言葉が途中で止まった。
「私の知っている?」
「……いえ」
エリシアは慌てるように首を振った。
「何でもありません」
「何でもないようには聞こえませんでしたけれど」
「ごめんなさい」
「謝ってほしいわけではーー」
「でも、今はまだ上手く説明できないんです」
その言葉に、私を目を瞬いた。
否定ではなかった。
知らないと言うわけでもない。
今は説明できない。
つまり。
本当に何かある。
「一つだけ」
エリシアが私を見た。
青緑色の瞳には、いつもの明るさとは少し違う色が宿っていた。
「一つだけ、信じていただけませんか?」
「何を?」
「私は、リゼリア様を陥れようとしていません」
予想していなかった言葉に、私は黙った。
「今日のことも、私が仕組んだわけではありません。もちろん、誰かにお願いして教科書を破らせたわけでもありません」
「……」
「それだけは、本当です」
エリシアの声は、いつになく真剣だった。
私は彼女の顔をじっと見る。
嘘をついているようには見えない。
少なくとも、私はそう思った。
「どうして、私があなたを疑っていると思ったの?」
「だって」
エリシアは少し困ったように笑った。
「普通なら、そう考えると思います。被害に遭った本人が、なぜ犯人扱いされている人を必死に庇っていたら、怪しいですよね」
「……自覚はあるのね」
「あります」
思わず、ほんの少しだけ笑ってしまった。
エリシアもつられて笑う。
こんな状況なのに。
この瞬間だけは、いつもの昼休みと少し似ていた。
「分かりましたわ」
「え?」
「今回の件について、あなたが私を陥れたとは考えないことにします」
エリシアの顔がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます!」
「ただし」
「はい」
「あなたが何かを隠していることについては、別のお話です」
「……」
分かりやすく固まった。
「いずれ、きちんと説明していただきますからね」
「……はい」
「本当に?」
「たぶん」
「エリシア様」
「説明します!」
慌てて言い直す彼女に、私は小さくため息をついた。
やっぱり。
この子は何かを知っている。
でも、少なくとも。
今日の事件を起こした張本人ではない。
それだけは信じてもいい気がした。
「それより」
私は自分の席へ視線を向けた。
「今日のことを考えましょう」
「はい」
「あなたは、教科書が破られる前に何か変わったことはありませんでしたか?」
「変わったこと……」
エリシアは記憶を辿るように考え込む。
「放課後、少しだけ教室を離れました。その時には、まだ何ともなかったと思います」
「戻った時には?」
「もう、あの状態でした」
「誰かが教室に残っていた?」
「いいえ。私が戻った時には何人かいましたけど、皆、教科書が破られているのを見つけて集まってきた方たちです」
「そう……」
私は腕を組んだ。
原作では、リゼリアが一人になった隙を狙って教室に入り教科書を破る。
でも、今回は違う。
私はいなかった。
なら、別の誰かがやった?
「目撃した方たちは、嘘を言っているようには見えませんでした」
エリシアが静かに言った。
「私もそう思います」
「でも、リゼリア様はその場にいなかった」
「ええ」
「……変ですね」
その一言が妙に胸に残った。
変。
それ以外に言いようがない。
私たちは互いに顔を見合わせた。
「調べてみませんか?」
エリシアが言う。
「今日のことを?」
「はい。誰が教科書を破ったのか。どうして皆さんがリゼリア様を見たと言ったのか」
「あなたも手伝うの?」
「もちろんです」
「被害者なのに?」
「被害者だからです」
即答だった。
「それに」
エリシアは少しだけ笑う。
「このままでは、リゼリア様が困るでしょう?」
「……」
まただ。
どうしてそこまで、私のことを気にするの?
聞きたい。
けれど、今はまだ聞いても答えてくれない。
それなら、
「分かりましたわ」
私は頷いた。
「まずは今日の教室の出入りと、目撃した方々の話をもう一度整理しましょう」
「はい!」
「ただし、勝手な行動はしないこと。先生方に迷惑をかけるような真似もなしです」
「分かりました」
「本当に分かっています?」
「分かっています!」
「……少し心配ですわ」
「酷いです」
エリシアが頬を膨らませる。
私はそんな彼女をみながらほんの少しだけ思った。
原作では私たちは敵だった。
少なくともリゼリアとエリシアは決してこんなふうに一緒に犯人を探すような関係ではなかった。
なのに今、原作の悪役令嬢と原作のヒロインが同じ事件を見て、同じ疑問を抱いている。
原作とは違う。でもそのことが、今日初めて少しだけ心強いと思えた。
お読みいただきありがとうございます。
被害者であるにもかかわらず、最初からリゼリアを信じていたエリシア。
彼女が何かを隠していることに気づきながらも、リゼリアはひとまず今回の事件について協力していくことにしました。
次話では、二人で教科書事件を調べながら、目撃証言そのものに少しずつ奇妙な点が見え始めます。




