第8話 回避したはずなのに
原作で最初の嫌がらせが起きる日。
リゼリアは、事件そのものを起こさないために徹底して行動します。
朝、目を覚ました瞬間から、今日がいつもと違う一日であることを意識していた。
天蓋の向こうから差し込む朝陽は普段と何も変わらず、窓の外から聞こえてくる鳥の声も、身支度のために部屋へ入ってきた侍女の「おはようございます、お嬢様」という挨拶も、昨日までと同じだった。
違うのは、私だけだ。
「お嬢様、本日はいつもよりお早いですね」
「……そうかしら」
「はい。普段でしたら、もう少し眠そうなお顔をなさっています」
「それは聞かなかったことにしておきますわ」
鏡越しに応えると、侍女が小さく笑った。
いつも通り髪を整えてもらいながら、私は頭の中でもう一度今日の予定を確認する。
午前中は通常授業、昼休みを挟んで午後の講義を受け、その後は東棟の第二実技室へ行く。
フェルナン先生に魔法制御の補習課題を提出し、確認が終わるまではその場に残る。
ただそれだけ。
けれど、今日に限ってはその予定の一つに意味があった。
原作の『花冠のエリュシオン』では、今日の放課後、エリシアの教科書が破られる。
犯人は、リゼリア・アーデンベルク。
つまり、本来の物語なら私だ。
だから私は、事件そのものに関われない状況を作ることにした。
教科書に触れなければいいというだけなら簡単だけれど、念のためエリシアの席にも近づかない。
それどころか、事件が起きるはずの時間には教室そのものから離れ、教師と一緒にいる。
そこまですれば、間違いの起こりようがない。
「……大丈夫」
「何かおっしゃいましたか?」
「いいえ。今日もよろしくね」
「はい、お嬢様」
鏡の中の自分へ言い聞かせた言葉を誤魔化すように微笑んでから、私は席を立った。
8歳で前世の記憶を取り戻してから、ずっとこの日のような瞬間に備えてきた。
原作を知っていることは私にとって唯一と言ってもいいほど大きな切り札だ。
何が起こるのか分かっているのなら、それを選ばなければいい。
物語のリゼリアが右へ進んだせいで破滅したのなら、私は左へ進めばいい。
今までもそうしてきたのだから、今日だって同じはずだった。
◇
学園へ到着してからも、私はいつも以上に慎重に行動した。
普段なら廊下でエリシアを見かければ挨拶くらいはするようになっていたけれど、今日ばかりは少し距離を取る。
露骨に避ければかえって不自然なので、わざわざ逃げ回るような真似はしなかったものの、自分から彼女の方へ向かうことだけはしなかった。
幸い、午前中は同じ授業でも席が離れていたため、特別な接触はなかった。
ところが昼休みになると、そんな私の思惑など知らないエリシアが、いつものようにこちらへやってきた。
「リゼリア様、一緒にお昼を食べてもいいですか?」
「……ええ、もちろん」
一瞬断わろうかと思ったものの、昼食を共にすること自体は原作の嫌がらせとは何の関係もない。
それに、今日だけ突然拒絶すれば、理由を聞かれるに決まっている。
エリシアは嬉しそうに私の向かいに座ると、すぐに料理へ視線を落とした。
「今日、焼き菓子があるんですね」
「まだ食事が始まったばかりですのに、もうデザートを見ているの?」
「だって、気になるじゃないですか」
「逃げたりしませんから、先にスープを召し上がりなさい」
「はーい」
「……お返事が軽いですわ」
最近では、こんなやり取りも珍しくなくなっていた。
最初こそ、どうして原作ヒロインが悪役令嬢である私にここまで近づいてくるのかと警戒していたけれど、何度話してもエリシアから悪意らしいものは感じられない。
むしろ彼女は、私が思っていた以上に分かりやすい人だった。
嬉しければ笑うし、困れば顔に出る。
甘いものを前にすれば目を輝かせ、難しい授業のあとにはこの世の終わりのような顔をする。
そんな彼女と何度も一緒に過ごしているうちに、私の中でも「原作ヒロイン」という呼び方だけでは収まらなくなりつつあった。
だからこそ、今日の事件は絶対に起こさせたくない。
「リゼリア様?」
「何かしら」
「今日はちょっと静かですね」
思わず手が止まった。
「そう?」
「はい。何か考え事をしてるみたいです」
「午後の課題について考えていただけですわ」
「またお勉強ですか?」
「学生なのだから当然でしょう」
「リゼリア様って、本当に真面目ですよね」
エリシアは疑う様子もなく納得すると、再び食事へ戻った。
胸の中でひっそりと息を吐く。
貴女の教科書が今日破られる予定だから、それをどうにか防ごうとしています。
そんなことを本人に説明できるはずがない。
もっとも、私が何もしなければ防ぐも何もなく、事件そのものが存在しなくなるはずなのだけれど。
そう考えれば、やはり心配しすぎなのかもしれない。
原作のイベントは、あくまでも原作のリゼリアが自分の意思で起こしたものだ。
今の私には、エリシアを傷つける理由なんて一つもない。
「リゼリア様、この焼き菓子、とっても美味しいです」
「先ほどからそればかりですわね」
「一ついかがですか?」
「私のお皿にもあります」
「あ、本当だ」
こんな少女の教科書を破ろうだなんて、少なくとも今の私には全く理解できなかった。
◇
午後の授業が終わると、私は予定した通り、すぐに東棟へ向かった。
階段を上がりながら廊下の時計を確認すると、原作で事件が起きる時間が近づいている。
胸の奥にわずかな緊張は残っていたものの、もう恐れる必要はない。
私はこれから第二実技室へ行く。
そこにはフェルナン先生がいる。
原作のリゼリアがエリシアの教室へ向かった時間に、私はまったく別の建物にいることになる。
完璧だ。
「失礼いたします」
第二実技室の扉を開けると、奥で資料を整理していたフェルナン先生が顔を上げた。
「アーデンベルクか。どうした?」
「先日いただいた魔法制御の補習課題を提出しにまいりました」
「もう終わったのか? 期限は明日だったと思うが」
「余裕を持って提出した方がよろしいかと思いまして」
「君らしいな」
先生は苦笑しながら、私が差し出した紙束を受け取った。
「せっかくだから今確認してしまおう。少し時間がかかるが、待てるか?」
「もちろんです」
「では、そこに座っていなさい」
「ありがとうございます」
予定通り。
私は実技室の端に置かれた椅子へ腰を下ろし、持ってきた本を開いた。
けれど、文字はほとんどあたまに入ってこなかった。
意識はどうしても、壁に掛けられた時計へ向かってしまう。
あと十五分。
あと十分。
あと五分。
針が少しずつ進んでいく。
原作では今頃、リゼリアがエリシアの教室へ向かっているはずだ。
誰もいなくなった教室へ入り、彼女が机から教科書を取り出してーー。
私は一度、頭を振った。
考える必要はない。
私はここにいる。
何も起こらない。
「……」
やがて、時計の針が予定していた時刻を通り過ぎた。
一分。
二分。
五分。
それでも、実技室は静かなままだった。
窓から差し込む午後の日差しの中で、フェルナン先生が紙をめくる音だけが聞こえている。
そこでようやく、身体に入っていた力が抜けた。
終わった。
何も起こらなかった。
「どうした?」
先生が顔を上げる。
「いえ、何でもありません」
「随分ほっとした顔をしているが」
「課題に間違いがないか心配していましたの」
「そういうことか。それなら問題ない。いくつか細かい私的はあるが、全体としてはよくできている」
「ありがとうございます」
「今日は戻って構わないぞ。詳しいところは次の授業で話そう」
「はい。失礼いたします」
私は立ち上がり、深く頭を下げてから実技室を出た。
廊下へ出た瞬間、思わず小さく息を吐く。
心配する必要なんてなかった。
やっぱりそうだ。
未来は変えられる。
原作の莉エリアが教科書を破ることで始まるイベントなら、その行動をしなければイベントそのものが消える。
当たり前のことだった。
「……私、少し神経質になりすぎていたのかもしれないわ」
誰もいない廊下で呟く。
エリシアが編入してから、原作とは違うことがいくつもあった。
彼女が妙に私へ懐いていることもそうだし、本来ならほとんど関わらないはずの私たちが、図書室で一緒に勉強までしている。
それでも何も問題は起きていない。
むしろ原作と違うからこそ、私の未来も変わっていく。
そう思えばいい。
東棟から本館へ戻るころには、朝から続いていた緊張もかなり薄れていた。
私はいつものように廊下を歩き、自分たちの教室へ向かう。
途中ですれ違った生徒たちも、特に変わった様子はない。
誰かが慌てて走ってくることもなければ、騒ぎが起きている気配も感じなかった。
やっぱり、何もなかったのだ。
これで一つ。
原作のイベントを消すことができた。
その事実が少し嬉しくて、自然と口元が緩む。
最初の一つを変えられたのなら、きっと次も変えられる。
教科書の次は、確かドレスだった。
その次にもいくつか嫌がらせイベントがあったはずだけれど、それらも同じように回避してしまえばいいい。
一つずつ。
原作のリゼリアが選んだ道を、私は選ばない。
そうやって進んでいけば、いつか破滅する未来そのもものがなくなる。
私はそんなことを考えながら、教室の前まで戻ってきた。
「……?」
そこで、ほんの少しだけ違和感を覚えた。
扉の向こうから聞こえてくる声が、いつもより多い。
授業はもう終わっているのだから、生徒たちが話していたとしても不思議ではない。
ただ、楽しそうな雑談とは少し違うような気がした。
何人もの声が重なり、その合間に、妙に張り詰めた空気まで伝わってくる。
「何かあったのかしら」
そう呟きながら、私は扉へ手をかけた。
けれど、その時の私はまだ。
第二実技室で時計の針が予定時刻が過ぎた瞬間に、全てが終わったと思っていた。
何もしなかったのだから、何も起こらなかったのだと。
心の底から、そう信じていた。
私は何の警戒もなく扉を開き、教室の中へ足を踏み入れた。
お読みいただきありがとうございます。
第8話の最後は、第1話冒頭の「教室へ足を踏み入れた瞬間」へそのまま繋がっています。
次話では第1話で描かれた事件の直後から時間を進め、リゼリアと、なぜか彼女を信じ切っているエリシアの会話を描きます。




