第5話 小さな手に残ったもの
セレスティーナの命を繋ぎ止めたリゼリア。
けれど、他人の魔力を自分の身体へ取り込んだ代償は、7歳の小さな身体に確かに残っていました。
無事に終わったと思っていた事件のあと、リゼリア自身にも異変が現れ始めます。
セレスティーナ様が目を覚ました。
その知らせを聞いた時、私は本当にそれでもう全部終わったのだと思っていた。
お姉様は助かった。私も少し休めば屋敷へ帰れる。あとはいつもの生活に戻って、また王宮へ遊びに行けばいい。
7歳だった私はそれくらい単純に考えていた。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫です」
「気分は悪くない?」
「悪くありません」
「頭は?」
「痛くありません」
「胸は?」
「苦しくありません」
「手は?」
「平気です」
帰りの馬車へ乗り込んでから何度目か分からない問いを繰り返すエドガー兄様に、私は少しだけ頬を膨らませた。
「兄様、さっきから同じことばかり聞いてます」
「だって心配なんだよ」
「お医者様も帰っていいって言ってました」
「『絶対に大丈夫』とは言ってないだろ」
向かい側に座ったオスカー兄様がすぐに口を挟む。
私はそちらを見た。
「でも、安静にしていれば大丈夫だって」
「だから安静にしろと言ってる」
「してます」
「馬車に乗って5分で窓を開けようとした奴のどこが安静なんだ」
「外を見ようとしただけです」
「座ってても見えるだろ」
「近くで見たかったんです」
「開けるな」
「……はい」
やっぱり厳しい。でも、王宮で意識を失う前、オスカー兄様が私を抱きしめたことを思い出すと、いつものように腹を立てる気にはなれなかった。
「オスカー」
「何だよ」
「もう少し優しく言ってあげなよ」
「エドガーが甘すぎるんだ」
「今日は甘くてもいい日だと思うけどな」
「今日だからこそだ。こいつは少し元気になるとすぐ無茶する」
「無茶なんてしてません」
二人の視線が同時にこちらへ向いた。
「……今日は、しました」
「分かってるならいい」
「よくありません」
小さく反論しながら、私は膝の上へ置いていた両手を見る。その時だった。
「……あれ?」
「どうしたの?」
エドガー兄様がすぐに反応する。
「手が」
「手?」
右手の甲、親指の付け根に近いあたりに、薄い紫色の点が浮かんでいた。
ぶつけた覚えなんてない。
「痣?」
私を首を傾げている間にも、その色は少しずつ濃くなっていった。小さな染みが広がるように、紫から黒に近い色へ。
「リゼリア、見せろ」
オスカー兄様の声が変わった。私は素直に手を差し出す。兄様が私の袖口を少し捲った。
「……何だ、これ」
手の甲だけではなかった。細い線が手首の方へ向かって伸びている。血管に似ているけれど、青ではなく黒紫色。枝分かれしながら。皮膚の下に薄く浮かび上がっていた。
「痛い?」
エドガー兄様が聞く。
「痛くは……」
答えようとしたところで指先が震えた。
「……冷たい」
「何が?」
「手」
寒い、そう思った。けれど、馬車の中は暖かい。それなのに身体の奥から冷たいものが広がってくる。
「リゼリア?」
「ちょっと……寒いです」
エドガー兄様がすぐに上着を脱いだ。
「これを掛けよう」
「でも兄様が」
「僕は平気」
肩へ上着を掛けてもらう。暖かいはずなのに震えが止まらない。
「……おかしい」
オスカー兄様が私の額へ手を当てる。次の瞬間、眉間に深い皴が寄った。
「熱い」
「え?」
「リゼリア、こっち向け」
頬にも触れられる。
「エドガー」
「うん」
エドガー兄様の顔からも笑みが消えた。
「熱、出てるね」
「でも、さっきは……」
「王宮を出る時はなかった」
オスカー兄様が私の手をもう一度見る。黒紫色の痣はさっきよりほんの少しだけ広がっていた。
「……あの魔力か」
「オスカー?」
「殿下から取り込んだものが、まだ身体に残ってるんじゃないか」
意味はよく分からなかった。ただ、セレスティーナ様の中にあった、冷たくて嫌な魔力。あれがまだ私の中にいる。そう思った瞬間、少し怖くなった。
「私……どうなるの?」
口にした声が思ったより小さかった。
兄たちが一瞬黙った。その沈黙の方がずっと怖い。
「死ぬの?」
「死なない」
オスカー兄様がすぐに答えた。迷いのない声だった。
「絶対に?」
「ああ」
「でも」
「死なせない」
私の目を見たままはっきりと言う。
「屋敷へ落ち着いたらすぐに医師に診せる。それで駄目なら王宮の医師を呼ぶ。必要なら魔塔だって動かす。だから余計なこと考えるな」
「……はい」
「怖い?」
今度はエドガー兄様が聞いた。私は少し迷って頷いた。
「……怖いです」
「そっか」
兄様が隣へ移動してきた。
「じゃあ、屋敷に着くまでこうしてようか」
肩を抱かれる。私は素直に寄りかかった。
「兄様」
「うん?」
「お姉様は大丈夫ですよね」
自分の身体がこんな状態なのに、真っ先に出てきたのはやっぱりそれだった。
「大丈夫だよ」
「本当?」
「うん。意識も戻ったし、治療も進んでるって父上から聞いてる」
「……よかった」
「リゼリア」
オスカー兄様がさっきみたいに低い声で呼ぶ。
「何ですか?」
「殿下が無事なのを喜ぶのはいい」
「はい」
「でも、自分のことも同じくらい心配しろ」
「……」
「お前まで倒れたら、殿下だって喜ばないだろ」
そう言われると、確かにそうかもしれない。
「分かりました」
「本当に?」
「はい」
「ならいい」
馬車が揺れる。
窓の外の景色が少しずつぼやけ始めた。
「……兄様」
「どうしたの?」
「眠いです」
エドガー兄様の肩へもう少し肩を預ける。
「寝てもいい?」
一瞬、兄様が答えなかった。
「エドガー兄様?」
「……オスカー」
声が、遠い。
「リゼリア、目を開けろ」
オスカー兄様?
「眠い……」
「寝るな」
「でも」
「リゼリア」
肩を掴まれる。
どうして、そんなに怖そうな顔をしているのだろう。
「兄様……?」
視界の端で、黒いものが広がる。手の痣なのか、それともただ目の前が暗くなっているだけなのか。もう、分からなかった。
「リゼリア!」
最後に聞こえたのは、二人の兄の声だった。
◇
私が馬車の中で意識を失ったことで、アーデンベルク家は一時大騒ぎになったらしい。
ーーらしい、というのは。
その頃の私は高熱が続き、三日ほどまともに目を覚まさなかったからだ。
手から腕へ広がった黒紫色の痣は、時折濃くなったり薄くなったりを繰り返し、そのたびに身体の中の魔力も不安定になった。
王宮から宮廷医と魔導師が派遣され、アーデンベルク家の医師たちも何度も私の身体を調べた。けれど、原因についてははっきりしたことが分からなかった。
他人の魔力。しかも攻撃に使われた、著しく乱れた魔力を身体へ取り込んだことによる拒絶反応。それが一番可能性の高い説明だった。
幸いにも四日目には熱が下がり始めた。それと一緒に、手に浮かんでいた痣も少しずつ消えていった。
目を覚ました時、真っ先に見えたのはベッドの横で眠っているエドガー兄様だった。
「……兄様?」
「……ん」
呼ぶと兄様が顔を上げた。
「リゼリア?」
「はい」
「……」
しばらく、何も言わない。
「兄様?」
「起きた……」
「はい」
「本当に?」
「本当です」
すると突然抱きしめられた。
「兄様、苦しいです」
「ごめん」
そう言いながら離してくれない。
「心配したんだからね」
「……ごめんなさい」
「もう無茶しない?」
「なるべく」
「なるべく?」
「……しません」
「よろしい」
やっと少しだけ笑ってくれた。
「オスカー兄様は?」
「今、医師と話してる。たぶん5分もしないうちに戻ってくるよ」
「ずっといたんですか?」
「うん」
「学校やお勉強は?」
「リゼリアが目を覚まさないのに、あいつがまともに勉強できると思う?」
「……できそうです」
「まあ、できるだろうけど」
「できますよね」
「たぶんね」
そんな話をしていたら、本当に5分も経たないうちに扉が開いた。
「エドガー、医師がーー」
オスカー兄様が止まる。
私と、目が合う。
「……おはようございます」
言ってみた。
「……」
「兄様?」
無言で歩いてくる。怒られる、そう思って身構えたけれど。
「馬鹿」
額を軽く指で弾かれただけだった。
「痛い」
「知ってる」
「病人にひどいです」
「病人だからこれで済ませてる」
「もっと優しくしてくれてもいいのに」
「三日も寝てた奴に言われたくない」
いつものオスカー兄様だった。でも、目の下に少しだけ隈があった。
「兄様」
「何だ」
「寝てませんでした?」
「寝てる」
「嘘」
「寝た」
「いつ?」
「……」
「兄様?」
「うるさい」
エドガー兄様が横で笑った。
「オスカー、初日はほとんど寝てないよ」
「エドガー、それは」
「リゼリアは大事な妹なんだから知っておいた方がいいと思う」
「余計なことを……」
私はオスカー兄様を見る。
「心配してくれたんですか?」
「……兄様」
「当たり前だろ」
ぶっきらぼうに答える。
「妹が三日も熱出して寝てるのに、心配しない兄がいるか」
「……えへへ」
「何笑ってる」
「嬉しいから」
「笑うな」
「無理です」
「病人は寝てろ」
「起きたばっかりです」
「ならまた寝ろ」
「嫌です」
エドガー兄様が声を立てて笑う。
その日、私の部屋には久しぶりにいつもの空気が戻った。
◇
それから一か月ほど経った。
私の身体から熱はすっかり消え、黒紫色の痣も最後にはあと一つ残さず消えた。
セレスティーナ様の療養も順調に進み、まだ無理はできないものの日常生活へ戻れるまでに快復した。
そして、王宮から一通の招待状が届いた。
第一王女セレスティーナ・アルヴェリア殿下の快復を祝う宴。
表向きにはそういう名目だったけれど。
「実質、リゼリアの快気祝いでもあるらしいよ」
招待状を呼んでいたエドガー兄様が言った。
「私の?」
「王家からすれば、二人とも無事だったことを祝いたいんだろう」
オスカー兄様が答える。
「でも私は王女様じゃありません」
「知ってる」
「じゃあ、どうして」
「お前がいなかったら、第一王女殿下が助からなかった可能性があるからだ」
「……」
「それだけ王家は感謝してるってことだろ」
嬉しいけれど、それ以上に別の問題があった。
「……パーティー」
「うん」
「ちゃんとした?」
「ちゃんとした」
「大人いっぱい?」
「いっぱい」
「知らない人も?」
「たくさん」
私は招待状を見つめた。
「……行きたくない」
「リゼリア?」
エドガー兄様が目を丸くする。
「セレスティーナ様には会いたいです」
「うん」
「でもパーティーは嫌です」
「どうして?」
「だって」
これまで王宮へ行く時は、ほとんどが私的な訪問だった。セレスティーナ様の部屋へ行って、お茶をして、ユリウス殿下と遊んで、大人たちの正式な場へ顔を出すことなんてなかった。でも今回は違う。
アーデンベルク公爵令嬢、リゼリア・アーデンベルクとして、大勢の貴族の前に正式に立つ。
「失敗したらどうしよう……」
思わず呟いた。
二人の兄が顔を見合わせた。
「……リゼリアでも緊張するんだね」
「します!」
「普段、礼法の先生には褒められてるだろ」
オスカー兄様が言う。
「練習と本番は違います」
「同じだ」
「違います」
「同じだって」
「知らない大人がいっぱい見るんですよ?」
「見るだろうな」
「転んだら?」
「立てばいい」
「挨拶を間違えたら?」
「言い直せばいい」
「名前を忘れたら?」
「俺かエドガーを見る」
「……?」
オスカー兄様が何でもないことのように言った。
「俺たちも一緒だ」
「……」
「お前一人で出るわけじゃない」
エドガー兄様も頷く。
「そうだよ。リゼリアが困ったら僕たちがいる」
「でも、ずっと隣にいてくれるわけじゃ」
「できるだけいるよ」
「本当?」
「オスカー兄様も?」
「いる」
「絶対?」
「絶対」
少し、安心した。
「……じゃあ、行きます」
「セレスティーナ殿下には会いたいんだろ?」
「はい」
「だったら大丈夫」
エドガー兄様が私の頭を撫でた。
「いつも通りのリゼリアでいればいいよ」
「いつも通りだとオスカー兄様に怒られます」
「それはそうだね」
「エドガー」
三人で笑った。
◇
宴の日。
鏡の前に立った私は、自分なのに自分ではないような気分になっていた。
淡い紫色のドレス。銀色の髪は丁寧に整えられ、普段より少しだけ華やかな髪飾りが付いている。
「……変じゃない?」
「全然」
部屋の入り口でエドガー兄様が即答した。
「本当に?」
「可愛いよ」
「兄様は何でも可愛いって言うでしょう」
「リゼリアが可愛いから仕方ないね」
「参考になりません」
「ひどいな」
その後ろからオスカー兄様が入ってくる。
「準備できたのか?」
「はい」
私は立ち上がる。
「どうですか?」
「何が」
「変じゃない?」
兄様は一度、頭から足先まで私を見る。
「似合ってる」
「……」
「何だ?」
「ちゃんと褒めてくれました」
「聞かれたから答えただけだ」
「もう一回言って」
「嫌だ」
「オスカー兄様」
「一回で十分だろ」
エドガー兄様が笑う。
「オスカー、照れてる?」
「黙れエドガー」
「ふふ」
私も笑った。少しだけ緊張がほどけた。
「行こうか」
エドガー兄様が右手を差し出す。
「はい」
手を取ろうとしたら。
「待て」
兄様が私の前へ屈む。
「髪飾り、少しずれてる」
「え?」
「動くな」
指先で位置を直してくれる。
「これでいい」
「ありがとうございます」
「あとは」
じっと私を見る。
「何ですか?」
「顔が固い」
「緊張してるからです」
「知ってる」
「どうすればいいですか?」
「息を吸え」
「はい」
「吐け」
「……ふう」
「もう一回」
言われた通りにする。
「どうだ」
「少しだけ」
「なら十分だ」
「でも、まだ緊張します」
そう言うと、オスカー兄様が私の左手を取った。
「じゃあ、会場の手前まで俺が持っててやる」
「……」
「何だよ」
「子どもみたい」
「7歳は子どもだって何回言わせるんだ」
思わず笑ってしまった。
「じゃあ右は僕かな」
反対側から、エドガー兄様が手を取る。
「兄様たち」
「何?」
「これじゃ、本当に子どもです」
「子どもでいいよ」
エドガー兄様が笑う。
「僕たちの妹なんだから」
左右から兄たちに手を握られて、私は初めての正式な宴へ向かった。
◇
王宮の大広間には、想像していたよりずっと多くの人がいた。
「……多い」
「聞こえるぞ」
オスカー兄様に小声で注意される。
「だって……」
「前見ろ」
「はい」
貴族たちの視線がこちらへ向く。事件の話を皆がしているのだろう。第一王女を救った少女。そんなものとして見られているような気がした。
怖い。
でも、右を見るとエドガー兄様。左を見るとオスカー兄様。二人ともいる。
大丈夫。私はアーデンベルク公爵令嬢。
教えてもらった通り歩けばいい。
「リゼリア」
エドガー兄様が小さく呼ぶ。
「はい」
「上手だよ」
「まだ歩いてるだけです」
「それができれば十分」
少しだけ方から力が抜けた。
そして、広間の奥の王族が並ぶ場所に。
「……!」
見つけた、淡い金色の髪に青い瞳。
以前より少し痩せた気はするけれど、立っている。笑っている。
私を見て目を細めている。
「お姉様……」
思わず呼びそうになって口を押さえる。今日は私的な訪問ではない。ちゃんとしなくてはいけない。
私は教えられた通りにセレスティーナ様の前へ進んだ。そして深く礼をする。
「第一王女殿下におかれましては、このたびのご快復、心よりお祝い申し上げます」
言えた。間違えてない。良かった、セレスティーナ様が笑っている。
「ありがとう、リゼリア・アーデンベルク公爵令嬢」
少しだけ、いつもよりよそよそしい呼び方。やっぱり正式な場だから。そう思った。
でも、次の瞬間。
「……なんて」
セレスティーナ様が小さく笑った。
「これではあまりにも他人行儀ね」
「殿下?」
「リゼリア」
覚ました。
その知らせを聞いた時、私は本当にそれでもう全部終わったのだと思っていた。
お姉様は助かった。私も少し休めば屋敷へ帰れる。あとはいつもの生活に戻って、また王宮へ遊びに行けばいい。
7歳だった私はそれくらい単純に考えていた。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫です」
「気分は悪くない?」
「悪くありません」
「頭は?」
「痛くありません」
「胸は?」
「苦しくありません」
「手は?」
「平気です」
帰りの馬車へ乗り込んでから何度目か分からない問いを繰り返すエドガー兄様に、私は少しだけ頬を膨らませた。
「兄様、さっきから同じことばかり聞いてます」
「だって心配なんだよ」
「お医者様も帰っていいって言ってました」
「『絶対に大丈夫』とは言ってないだろ」
向かい側に座ったオスカー兄様がすぐに口を挟む。
私はそちらを見た。
「でも、安静にしていれば大丈夫だって」
「だから安静にしろと言ってる」
「してます」
「馬車に乗って5分で窓を開けようとした奴のどこが安静なんだ」
「外を見ようとしただけです」
「座ってても見えるだろ」
「近くで見たかったんです」
「開けるな」
「……はい」
やっぱり厳しい。でも、王宮で意識を失う前、オスカー兄様が私を抱きしめたことを思い出すと、いつものように腹を立てる気にはなれなかった。
「オスカー」
「何だよ」
「もう少し優しく言ってあげなよ」
「エドガーが甘すぎるんだ」
「今日は甘くてもいい日だと思うけどな」
「今日だからこそだ。こいつは少し元気になるとすぐ無茶する」
「無茶なんてしてません」
二人の視線が同時にこちらへ向いた。
「……今日は、しました」
「分かってるならいい」
「よくありません」
小さく反論しながら、私は膝の上へ置いていた両手を見る。その時だった。
「……あれ?」
「どうしたの?」
エドガー兄様がすぐに反応する。
「手が」
「手?」
右手の甲、親指の付け根に近いあたりに、薄い紫色の点が浮かんでいた。
ぶつけた覚えなんてない。
「痣?」
私を首を傾げている間にも、その色は少しずつ濃くなっていった。小さな染みが広がるように、紫から黒に近い色へ。
「リゼリア、見せろ」
オスカー兄様の声が変わった。私は素直に手を差し出す。兄様が私の袖口を少し捲った。
「……何だ、これ」
手の甲だけではなかった。細い線が手首の方へ向かって伸びている。血管に似ているけれど、青ではなく黒紫色。枝分かれしながら。皮膚の下に薄く浮かび上がっていた。
「痛い?」
エドガー兄様が聞く。
「痛くは……」
答えようとしたところで指先が震えた。
「……冷たい」
「何が?」
「手」
寒い、そう思った。けれど、馬車の中は暖かい。それなのに身体の奥から冷たいものが広がってくる。
「リゼリア?」
「ちょっと……寒いです」
エドガー兄様がすぐに上着を脱いだ。
「これを掛けよう」
「でも兄様が」
「僕は平気」
肩へ上着を掛けてもらう。暖かいはずなのに震えが止まらない。
「……おかしい」
オスカー兄様が私の額へ手を当てる。次の瞬間、眉間に深い皴が寄った。
「熱い」
「え?」
「リゼリア、こっち向け」
頬にも触れられる。
「エドガー」
「うん」
エドガー兄様の顔からも笑みが消えた。
「熱、出てるね」
「でも、さっきは……」
「王宮を出る時はなかった」
オスカー兄様が私の手をもう一度見る。黒紫色の痣はさっきよりほんの少しだけ広がっていた。
「……あの魔力か」
「オスカー?」
「殿下から取り込んだものが、まだ身体に残ってるんじゃないか」
意味はよく分からなかった。ただ、セレスティーナ様の中にあった、冷たくて嫌な魔力。あれがまだ私の中にいる。そう思った瞬間、少し怖くなった。
「私……どうなるの?」
口にした声が思ったより小さかった。
兄たちが一瞬黙った。その沈黙の方がずっと怖い。
「死ぬの?」
「死なない」
オスカー兄様がすぐに答えた。迷いのない声だった。
「絶対に?」
「ああ」
「でも」
「死なせない」
私の目を見たままはっきりと言う。
「屋敷へ落ち着いたらすぐに医師に診せる。それで駄目なら王宮の医師を呼ぶ。必要なら魔塔だって動かす。だから余計なこと考えるな」
「……はい」
「怖い?」
今度はエドガー兄様が聞いた。私は少し迷って頷いた。
「……怖いです」
「そっか」
兄様が隣へ移動してきた。
「じゃあ、屋敷に着くまでこうしてようか」
肩を抱かれる。私は素直に寄りかかった。
「兄様」
「うん?」
「お姉様は大丈夫ですよね」
自分の身体がこんな状態なのに、真っ先に出てきたのはやっぱりそれだった。
「大丈夫だよ」
「本当?」
「うん。意識も戻ったし、治療も進んでるって父上から聞いてる」
「……よかった」
「リゼリア」
オスカー兄様がさっきみたいに低い声で呼ぶ。
「何ですか?」
「殿下が無事なのを喜ぶのはいい」
「はい」
「でも、自分のことも同じくらい心配しろ」
「……」
「お前まで倒れたら、殿下だって喜ばないだろ」
そう言われると、確かにそうかもしれない。
「分かりました」
「本当に?」
「はい」
「ならいい」
馬車が揺れる。
窓の外の景色が少しずつぼやけ始めた。
「……兄様」
「どうしたの?」
「眠いです」
エドガー兄様の肩へもう少し肩を預ける。
「寝てもいい?」
一瞬、兄様が答えなかった。
「エドガー兄様?」
「……オスカー」
声が、遠い。
「リゼリア、目を開けろ」
オスカー兄様?
「眠い……」
「寝るな」
「でも」
「リゼリア」
肩を掴まれる。
どうして、そんなに怖そうな顔をしているのだろう。
「兄様……?」
視界の端で、黒いものが広がる。手の痣なのか、それともただ目の前が暗くなっているだけなのか。もう、分からなかった。
「リゼリア!」
最後に聞こえたのは、二人の兄の声だった。
◇
私が馬車の中で意識を失ったことで、アーデンベルク家は一時大騒ぎになったらしい。
ーーらしい、というのは。
その頃の私は高熱が続き、三日ほどまともに目を覚まさなかったからだ。
手から腕へ広がった黒紫色の痣は、時折濃くなったり薄くなったりを繰り返し、そのたびに身体の中の魔力も不安定になった。
王宮から宮廷医と魔導師が派遣され、アーデンベルク家の医師たちも何度も私の身体を調べた。けれど、原因についてははっきりしたことが分からなかった。
他人の魔力。しかも攻撃に使われた、著しく乱れた魔力を身体へ取り込んだことによる拒絶反応。それが一番可能性の高い説明だった。
幸いにも四日目には熱が下がり始めた。それと一緒に、手に浮かんでいた痣も少しずつ消えていった。
目を覚ました時、真っ先に見えたのはベッドの横で眠っているエドガー兄様だった。
「……兄様?」
「……ん」
呼ぶと兄様が顔を上げた。
「リゼリア?」
「はい」
「……」
しばらく、何も言わない。
「兄様?」
「起きた……」
「はい」
「本当に?」
「本当です」
すると突然抱きしめられた。
「兄様、苦しいです」
「ごめん」
そう言いながら離してくれない。
「心配したんだからね」
「……ごめんなさい」
「もう無茶しない?」
「なるべく」
「なるべく?」
「……しません」
「よろしい」
やっと少しだけ笑ってくれた。
「オスカー兄様は?」
「今、医師と話してる。たぶん5分もしないうちに戻ってくるよ」
「ずっといたんですか?」
「うん」
「学校やお勉強は?」
「リゼリアが目を覚まさないのに、あいつがまともに勉強できると思う?」
「……できそうです」
「まあ、できるだろうけど」
「できますよね」
「たぶんね」
そんな話をしていたら、本当に5分も経たないうちに扉が開いた。
「エドガー、医師がーー」
オスカー兄様が止まる。
私と、目が合う。
「……おはようございます」
言ってみた。
「……」
「兄様?」
無言で歩いてくる。怒られる、そう思って身構えたけれど。
「馬鹿」
額を軽く指で弾かれただけだった。
「痛い」
「知ってる」
「病人にひどいです」
「病人だからこれで済ませてる」
「もっと優しくしてくれてもいいのに」
「三日も寝てた奴に言われたくない」
いつものオスカー兄様だった。でも、目の下に少しだけ隈があった。
「兄様」
「何だ」
「寝てませんでした?」
「寝てる」
「嘘」
「寝た」
「いつ?」
「……」
「兄様?」
「うるさい」
エドガー兄様が横で笑った。
「オスカー、初日はほとんど寝てないよ」
「エドガー、それは」
「リゼリアは大事な妹なんだから知っておいた方がいいと思う」
「余計なことを……」
私はオスカー兄様を見る。
「心配してくれたんですか?」
「……兄様」
「当たり前だろ」
ぶっきらぼうに答える。
「妹が三日も熱出して寝てるのに、心配しない兄がいるか」
「……えへへ」
「何笑ってる」
「嬉しいから」
「笑うな」
「無理です」
「病人は寝てろ」
「起きたばっかりです」
「ならまた寝ろ」
「嫌です」
エドガー兄様が声を立てて笑う。
その日、私の部屋には久しぶりにいつもの空気が戻った。
手に残っていた黒紫色の痣も、それから少しずつ薄くなっていった。
けれど、この時の私はまだ知らなかった。
セレスティーナ様を救ったあの日のことが、これから先もずっと、私と王家を結ぶ一つの理由になっていくことを。
お読みいただきありがとうございます。
セレスティーナを救った代償として、高熱と黒紫色の痣に苦しむことになったリゼリア。
そして、いつもは甘いエドガーも、厳しく見えるオスカーも、それぞれのやり方で妹を心配していました。
無事に目を覚まし、少しずつ元の生活へ戻っていくリゼリア。
次話では一か月後。
快復したセレスティーナとリゼリアを待つ、王宮での特別な一日を描きます。




