第4話 小さな手で
突然倒れてしまったセレスティーナ。
宮廷医もまだ到着していない中、彼女の魔力に起きている異常を感じ取れたのは7歳のリゼリアだけでした。
「私が……お姉様を、助けるから」
口にした言葉は、自分でも分かるくらい震えていた。
怖くないはずがない。
目の前では、ついさっきまで笑っていたセレスティーナ様が目を閉じたまま動かず、握っている手から伝わる体温も、いつもよりずっと低く感じる。
部屋の中では侍女たちが慌ただしく動き、護衛たちはあの官僚を取り押さえ、廊下からは医師を呼ぶ声や王へ報告する声がいくつも聞こえていた。
それでも私には、そのどれもが遠く感じられた。
今、私の意識にあるのはセレスティーナ様の中を流れる魔力だけだった。
「リゼリア様、手をお離しください」
侍女が私の方へ手を伸ばしてくる。
「間もなく宮廷医が参ります、それまで殿下に魔力を流すようなことはーー」
「駄目です」
「ですが!」
「今、止めたら駄目です!」
どうしてそう思ったのかと聞かれても、説明なんてできなかった。
私は魔法医ではないし、魔力障害の治療方法を学んだこともない。まだ基礎的な魔法を習い始めたばかりの7歳の子どもなのだから、本来なら大人たちの言う通り、何もせずに専門家を待つべきだったのだと思う。
けれど、それでは間に合わない。
そんな感覚だけがどうしても消えなかった。
「お姉様の魔力が……流れなくなってるんです」
「流れなく?」
「何かが邪魔してる」
目を閉じたまま答える。
視界を閉ざすと、かえって分かりやすくなる。
セレスティーナ様自身の魔力はもともと細い。
細いけれど、普段なら身体の中をゆっくりと滞りなく巡っている。
今は違う。
本来あるはずの流れへ、別の魔力が無理やり入り込み、何か所も塞いでいる。
細い川へ大きな石が落ち、流れをせき止めているような感覚だった。
それを避けようとしたセレスティーナ様の魔力が別の道へ流れ、またぶつかり、さらに乱れていく。
このままでは、彼女自身の魔力が彼女の身体を傷つける。
「……ここと」
私は握っていない方の手を彼女の胸元へ近づける。
「ここも……」
触れていないのに、何となく分かる。
乱れている場所。押さえなければいけないところ。
でも、どうすればいい?
自分の魔力を入れる。それだけでは駄目。強く入れすぎれば、もともと魔力の少ないセレスティーナ様の身体には負担になる。
なら少しずつ、彼女の魔力よりもほんの少しだけ弱く、押すのではなく寄り添うように。
「リゼリア様?」
私は返事をしなかった。
自分の魔力を細い糸にするイメージ。
普段、教師からは魔力を大きく、均等に広げる練習ばかり教えられている。でも、今は逆だった。できるだけ細く、できるだけ小さく、一滴ずつ。
失敗したらどうなるのかなんて考えない。ただ、セレスティーナ様の魔力を壊さないことだけを考える。
「……お願い」
誰にお願いしたのかは分からなかった。
神様かもしれない。自分自身かもしれない。あるいは、目を覚まさない彼女へだったのかもしれない。
「戻ってきて」
指先から流した魔力がセレスティーナ様の中へ入る。
瞬間。
「っ……!」
息が詰まった。
何かがこちらへ流れ込んできた。
冷たく重い、嫌なもの。
先ほど官僚から感じた、あの歪んだ魔力。
「お嬢様!」
身体がわずかに傾き、侍女が私を支えようとする。
「触らないで!」
反射的に叫んだ。
「今、分かりそうなの!」
セレスティーナ様の中へ入り込んでいた魔力。それが、なぜか私の魔力へまとわりつく。普通なら反発するはずだった。他人の魔力は自分のものとは性質が違う。まして属性まで異なれば、簡単に混ざることなどない。
なのに、私の中へ少しずつ入ってくる。
「……?」
怖いけれど、それ以上にセレスティーナ様の魔力の流れが少しだけ軽くなったのが分かった。
塞いでいた何かが減った。
「これ……」
なら、もう少し。
私は自分の魔力を伸ばした。乱れている箇所へ触れる。そのたびに、異物のような魔力がこちらへ引っ張られてくる。
「……っ」
腕が重い。胸が気持ち悪い。まるで冷たい水を一気に飲みこんだような感覚。それでも。
「まだ……」
止めない。セレスティーナ様の中にはまだ残っている。
「リゼリア様!」
誰かが私を呼ぶと同時に部屋の扉が勢いよく開いた。
「第一王女殿下!」
白衣をまとった宮廷医と数人の魔導師が駆け込んでくる。
「何があった!」
「魔力攻撃です!殿下が突然意識を失われてーー」
「この子は何をしている!」
宮廷魔導師の一人が、セレスティーナ様の手を握る私を見て声を上げた。
「離しなさい! 殿下へ勝手に魔力を流してはーー」
「待て」
別の男の声がそれを止めた。年配の宮廷魔導師だったと思う。
「……これは」
彼はセレスティーナ様へ手をかざし、すぐに表情を変えた。
「どうされました?」
「魔力の暴走が……弱まっている」
「何ですって?」
「完全ではない。だが、さっき報告を受けた時より明らかに安定している」
周囲がざわめく。
私はそんな話を聞く余裕すらなかった。
あと少し。あと少しだけ、最後に残っている。胸の奥、そこだけまだ濁っている。
「……そこ」
小さく呟く。
「何?」
「そこに、まだある」
「何がある?」
「お姉様のじゃない魔力」
宮廷魔導師が目を見開いた。
「分かるのか?」
「はい」
「場所は?」
私は自分の胸の中央より少し左を指差した。
「この辺り」
男はすぐに魔法を展開する。淡い光がセレスティーナ様の身体を包んでいる。
「……本当だ」
低い声が漏れた。
「極めて微弱だが、外部魔力が残っている。心臓近くの魔力回路に食い込んでいるぞ」
「取り除けますか?」
「下手に触れば本人の魔力回路まで傷つける。これほど細いとなると……」
大人たちが言葉を交わしている。その間にも、私は感じていた。外から入り込んだ魔力が、また少しずつ広がろうとしている。
「……駄目」
「リゼリア様?」
「また広がる」
私はセレスティーナ様の手を強く握る。
「待ちなさい!」
魔導師が止めるより先に、もう一度魔力を流した。
「リゼリア様!」
今度は、先ほどよりももっと慎重に細く、細く。髪の毛より、糸よりも、もっと細いものを想像する。
セレスティーナ様自身の魔力へ触れないように。その間に入り込んだものだけを、私の方へ。
「……おいで」
小さく呟いたその瞬間、何かが動いた。
「っ!」
胸の奥まで一気に冷たさが駆け抜ける。
「リゼリア!」
誰かが私の名前を叫んだ。聞いたことのある声。でも、振り返ることはできなかった。
最後の遺物がセレスティーナ様から離れる。そして、私の中へ消えた。
「……」
次の瞬間、セレスティーナ様の魔力がすっと流れた。細くて弱い、それでもまっすぐに本来の道を流れていく。
「……流れた」
私の口から声が漏れた。
「お姉様の魔力……戻った」
宮廷魔導師がすぐに確認する。
「……間違いない」
「暴走は?」
「止まっている」
「では殿下は?」
「まだ意識はない。ただ、これなら治療できる!」
一気に周囲が動き出した。
「リゼリア様、こちらへ!」
「でも」
「もう大丈夫です。ここからは我々にお任せください」
「でも、お姉様が」
「リゼリア」
今度こそはっきり聞こえて振り返る。
「……兄様?」
そこにいたのはオスカー兄様だった。
どうして、領地に行ったはずなのに。
そんなことを考えるより先に、兄様が私のところへ歩いてくる。いつもなら、「走るな」「礼儀を守れ」「勝手なことをするな」と、そんなことばかり言う兄が今は、ひどく怖い顔をしていた。私を怒っているのだと思った。
「オスカー兄様……」
「手を見せろ」
「え?」
「いいから」
セレスティーナ様の手から指を離す。その瞬間、急に身体から力が抜けた。
「……あれ?」
「リゼリア!」
倒れる前に、兄様の腕が私を支えた。
「兄様……?」
「馬鹿」
いつもよりも低い声。やっぱり、怒っている。
「ごめんなさい」
「違う」
ぎゅっと抱きしめられた。
創造していなかったことに私は目を見開いた。
「……兄様?」
「誰が謝れって言った」
「だって」
「お前、自分が何をしたか分かってるのか」
「お姉様を……」
「そうじゃない」
声が少しだけ震えている。
「他人の魔力を、自分の身体に入れたんだぞ」
「……」
その時初めて、自分の身体へ意識を向けた。
重い。寒い。胸の奥に何か自分のものではないものがまだ残っているような。
「……気持ち悪い」
「医師!」
オスカー兄様がすぐに叫ぶ。
「この子も診てくれ!」
「はい!」
宮廷医がこちらへ来る。
「兄様」
「何だ」
「お姉様は?」
オスカー兄様が一瞬だけ黙る。それからセレスティーナ様の方を見る。何人もの医師や魔導師が彼女を囲んでいる。
「……お前が繋いだ」
「え?」
「殿下の魔力は安定してる。あとは医師たちが何とかする」
「じゃあ」
「まだ、助かったとは言い切れない」
厳しい言葉。でも、兄様の腕は私を抱いたまま離れなかった。
「でも、さっきよりずっといい」
「……よかった」
その言葉を聞いた瞬間安心した。本当に、ただそれだけ。
目を閉じても大丈夫だと思った。
「リゼリア?」
「少し……眠いです」
「おい、待て」
「でも……」
「リゼリア!」
兄様の声が遠くなる。
私はそこで意識を失った。
◇
次に目を覚ました時、知らない天井が見えた。
「……?」
瞬きをする。
白い天井に白いカーテン。慣れない薬草の匂い。
「お嬢様?」
声がする。
顔を横へ向けると、いつも私の世話をしてくれている侍女がいた。
「……ここ」
「王宮の医務室です」
「医務室……」
少しずつ記憶が戻る。
「お姉様!」
身体を起こそうとする。
「駄目です!」
侍女に止められた。
「まだお休みください」
「でもセレスティーナ様は?」
「……」
「ねえ」
胸が苦しくなる。
「お姉様は?」
「大丈夫だよ」
別の声。
扉の方を見る。
「エドガー兄様……」
エドガー兄様が入ってくる。その後ろにはオスカー兄様もいた。そして。
「リゼリア」
「お父様……」
父まで。
「どうしてみんないるんですか?」
「どうしてって」
エドガー兄様が困ったように笑う。
「君が倒れたって聞いたからだよ」
「……」
「心配した」
その声がいつもより少しだけ低かった。
「ごめんなさい」
「うん。それはあとで聞く」
「怒るんですか?」
「怒らないよ:
「本当?」
「僕はね」
兄様がちらりと横を見る。オスカー兄様と目が合う。
「……何だよ」
「オスカーは?」
「怒ってる」
「やっぱり」
私が小さくなると、オスカー兄様はベッドの横まで来た。
「勝手に危ないことをしたことにはな」
「……ごめんなさい」
「でも」
兄様の手がいつもより、少しだけ優しく私の頭に乗る。
「殿下を助けようとしたことまで怒るつもりはない」
私は兄様を見た。
「お姉様は?」
もう一度聞くと、今度は父が答えた。
「命に別状はない」
「……」
「まだ意識は戻っていないが、魔力回路の損傷は治療できる範囲だそうだ」
「本当?」
「ああ」
身体の力が一気に抜けた。
「よかった……」
涙が出た。
怖かった。……ずっと怖かった。あの手を離したらセレスティーナ様がいなくなってしまう気がして。
「よかった……」
何度も言う。
エドガー兄様がベッドの端に腰掛けて、私の頭を撫でた。
「よく頑張ったね」
「……はい」
「でも次からは、大人を待つんだよ」
「間に合わなかったら?」
「それでも」
兄様が言葉に詰まる。すると、オスカー兄様が口を開いた。
「その時は、その時で考える」
「……」
「でも、自分まで死ぬかもしれないことを何も考えずにやるな」
「死ぬ……?」
「他人の魔力を自分の身体に取り込むのは、それくらい危険なんだ」
知らなかった。……本当に、何も。
「でも」
「分かってる」
兄様は、私が何を言うのか分かったようだった。
「助けたかったんだろ」
「……はい」
「なら、今回はそれでいい」
「オスカー」
父が少し驚いたように兄を見る。
「ただし」
オスカー兄様が私の額を指で軽く押した。
「二度と、自分をどうでもいいみたいに扱うな」
「痛い」
「痛くしてる」
「ひどい」
「お前はこうでもしないと覚えないだろ」
「……はい」
私は額を押さえながら少しだけ笑った。
その時、扉の向こうがまた騒がしくなった。
「殿下、まだーー」
「嫌です!」
聞き覚えのある声。
「ユリウス殿下?」
扉が開く。
「リゼリア嬢!」
ユリウス殿下が、侍従の制止を振り切るように入ってきた。
目が真っ赤だった。
「ユリウス殿下……」
「起きた!」
私のベッドまで走ってくる。いつもなら、私が走って叱られるのに。
「大丈夫?」
「はい」
「本当に?」
「本当です」
「姉上も」
ユリウス殿下の声が震えている。
「姉上も、死なないって」
「はい」
「リゼリア嬢が助けてくれたって」
「私だけじゃありません。お医者様もーー」
「ありがとう!」
突然、ぎゅっと抱きつかれた。
「ユ、ユリウス殿下?」
「ありがとう……」
小さな身体が震えている。
「姉上……死んじゃうと思った」
「……」
私はそっと、彼の背中へ手を回した。
「大丈夫」
自分自身にも言い聞かせるように。
「お姉様は、大丈夫です」
「うん……」
しばらくユリウス殿下は離れなかった。そして泣き止んだ後あとーー。
「僕」
彼が小さく言った。
「大きく鳴ったら、絶対リゼリア嬢を守る」
「私を?」
「うん。姉上を助けてくれたから」
「それなら、セレスティーナ様を守ってください」
「姉上も。リゼリア嬢も」
「両方?」
「両方」
あまりにも真剣な顔をしているから、私は思わず笑う。
「では、お願いします」
この時のユリウス殿下にとって、それは幼いなりの精一杯の感謝だったのだと思う。そして私にとっても、ただ弟のように可愛い王子様の子どもらしい約束にしか思えなかった。
まだ、それでよかった。
◇
セレスティーナ様が目を覚ましたのはその日の夜だった。
私はまだ医務室から出してもらえなかったのですぐには会えなかった。でも。
「第一王女殿下の意識が戻られました」
その知らせを聞いた瞬間、また泣いた。
嬉しくて安心して、エドガー兄様に笑われて、オスカー兄様には「今日は好きなだけ泣け」とだけ言われた。
そして、後になって私は知ることになる。
あの日、王宮の中では私がしたことについて長い話し合いが行われていたことを。
7歳の公爵令嬢が、宮廷魔導師でも見つけるのに時間がかかった魔力の異常をほとんど瞬時に見抜き、その上、他人の魔力回路を傷つけることなく、入り込んだ外部魔力だけを切り離した。
そんなことが本当に、ただの「魔力制御が上手」という一言で説明できるのか。
けれど、この時その答えを知る人間は誰もいなかった。
私自身ももちろん知らなかった。
ただ一つだけ確かなことは、私は大切な人を失わずに済んだ。
7歳の私にとってはそれだけで十分だった。
お読みいただきありがとうございます。
幼いリゼリアの魔力制御によって、セレスティーナは一命を取り留めました。
この事件をきっかけに、王家の人々にとってリゼリアはそれまで以上に大切な存在となっていきます。
次話では、意識を取り戻したセレスティーナとの再会、そして姉を救われたユリウスや、まだリゼリアと正式に顔を合わせていない第一王子にも、少しずつ変化が生まれていきます。




