青い噴水事件
サイクラード家の朝は紅茶派(母、娘)とコーヒー派(父、息子)に分かれて始まる。
メニューはいつもと同じ、目玉焼き、ベーコン、ベイクドビーンズ、ソテーしたトマトとマッシュルーム、これらが一枚の皿に盛られて銘々に出される。
薄切りのトーストは各自好きなだけ取れるようにトーストラックに乗せられてテーブルの中央に置かれている。
母サイクラード夫人と娘パーセファニーはトーストにジャムを塗り、紅茶を飲む。
父サイクラード医師と息子クインシーはトーストにバターを塗り、コーヒーを飲む。
東側の大きな窓から朝の光が差し込む清潔なダイニングルーム。
小花模様を散らした明るい壁紙、どっしりとしたオーク材のテーブルには白いテーブルクロス、マントルピースの上には家族写真と置時計。
典型的な紳士階級の家族の食卓だが、そこで交わされる父と息子の会話は典型的な紳士の会話とはどこか違って、変な方向で理屈っぽかった。
「不思議だね、遺伝というものは」
「僕と父さんが似てるってことですか? それともパーセファニーと母さんが顔はさほど似ていないのに食事の好みは似ているってことですか?」
「どちらも驚嘆すべき遺伝の妙ではあるが……この新聞記事に書かれているのだよ、犯罪的性質は遺伝すると」
「暴論ですね。それが真実なら犯罪歴のある親から生まれた子どもはすべて犯罪を犯し、善良な親から生まれた子どもは決して犯罪を犯さないということになる。だが現実はそうではない」
「確かに。だが一つの可能性を示唆しているのではないかな? 親から子へ、食の好みが受け継がれるなら、他の性質も受け継がれると考えてもいいだろう」
「そう考えてもいいかもしれませんね、犯罪的性質がバターかジャムかを選ぶのと同じように好みの問題であるのなら」
「トーストにはバターを付けるのが好きな人間がいるように、人をナイフで切り刻むのが好きという人間もいるのだよ。王都を騒がした例の連続殺人事件では被害者の内臓があたりにばらまかれ……」
父と息子の会話に母が嫌な顔をした。
先ほどからこの親子の会話は、明るい日差しの差し込む朝食の場にふさわしい話題とは言い難い。
生々しい猟奇殺人の話など、食事が不味くなるではないか。
「あなた、やめてくださいな。私たちイチゴのジャムを食べているんですよ」
どろりとした赤いジャムが別の何かに思えてしまう。
医師の夫を持った以上、血なまぐさい話題には慣れているが、朝から連続殺人鬼の話なんて……と思ったサイクラード夫人だったが。
娘のパーセファニーはけろりとしていた。
「私は気にしないよ。トーストに乗っかった赤いジャムと、殺人現場にばらまかれた赤い物は、色が似てるだけで別物だもん」
パーセファニーは美味しそうにジャム付きトーストをかじった。
サクリ、と小気味よい音を立てて少女の口へと消えていくトーストを、母親は何ともいえない表情で見守った。
物事に動じないのはいいが、この子は少々繊細さに欠けるのではないだろうか?
「……まあ、あれだ、要は犯罪捜査にも様々な角度から新時代のアプローチを行ってもいいんじゃないかということだ」
「それには賛成ですね。先日、犯罪捜査の有力な証拠として指紋が採用されるという記事を読みました。大変興味深い。人体の外見的特徴だけで個人を識別するのは限界があると思っていたんです。よく似た人物が冤罪で裁かれかねない」
「双子の兄弟だったら指紋もそっくりになるのではないかな?」
「それは調査しないとなんとも言えませんね。双子を百組ほど集めて指紋を比べてみれば有意な調査結果が得られるのでは?」
「それは興味深い統計になりそうだが、双子を百組も集められるかどうかが問題だな……」
サイクラード夫人は思った。
結局、また犯罪の話に戻るのね、と。
だが双子の話なら、猟奇殺人の話よりマシだろう。
それにしても犯罪の他に話題はないのだろうか。
朝食の席にふさわしい話題を求めて、夫人は夫に水を向けてみた。
「新聞には他にどんなニュースが?」
「自動車レースで新記録が出たそうだよ」
「プジョーですか。それともベンツ?」
息子が興味を示し、話題は犯罪から自動車レースへとそれた。
サイクラード夫人はホッと胸をなでおろした。
乗り物の話なら平和的だ。
父と息子は最新の輸入自動車に関して議論し始め、母と娘は朝食を美味しく食べ終えた。
「科学技術の進歩は目覚ましいですね。わが国でも本格的に自動車の生産に乗り出すべきですよ。馬より速い上に馬糞も落とさないのだから」
「自動車の分野では旧大陸が一歩先を行っているな。だが我々もすぐに追いつき、追い越すだろう。来年は新世紀だ。きっといろんなことが新しくなる。女王陛下に栄光あれ」
サイクラード医師は左胸のウォッチポケットから懐中時計(銀無垢。高級)を取り出した。
右手の親指で慣れた仕草で蓋を開け、時間を確認する。
その隣で、クインシーも自分の懐中時計(銀メッキ。やや安価)を取り出し、父親とまったく同じ仕草で時間を確認している。
サイクラード夫人はそんな二人を見て思う。
マントルピースの上にはちゃんと置き時計があるのに、なぜこの二人は懐中時計で時間を確かめたがるのかしら……と。
「もうこんな時間か。今日は人と会う約束があるんだ」
「僕もそろそろ出かけることにします。ちょっと朝のうちにやっておきたいことがあるので」
男二人がコーヒーを飲み終えて同時に立ち上がる。
出て行く二人を見送り、サイクラード夫人はのんびりと新聞の連載小説を読んでいる娘に目をやった。
「クインシーと一緒に登校しなくていいの?」
「兄様はトラムに乗るんだって。私もって言ったら、危ないから女の子はダメだって。なんでダメなんだろうね? しょうがないから馬車で行くよ」
「……そう」
遺伝というのが子が親に似るという意味ならば……とサイクラード夫人は思った。
息子の風変わりなところと、娘の神経が太いところは確実に夫の遺伝だわ。
※
クインシー・サイクラードは駅の時計を見上げていた。
ウェストコートのウォッチポケットから取り出した懐中時計と見比べて、竜頭を回して時間を合わせる。
「よし!」
口元に笑みが浮かぶ。
駅の時計と懐中時計、時間をぴったり合わせることに意義があるのだ。
重要なミッションを完了したクインシーは満足感を抱いてトラム(路面電車)に乗り込む。
電気で動くこの乗り物は市内の主要な場所を繋いでいる。
辻馬車に比べて料金が安いので、労働者階級が多く利用している。
その代わり、箱型の車内に大勢が詰め込まれるため、快適とは程遠い。
労働者たちと乗り合わせることになるので、淑女にはお勧めできないし、本物の上流階級が利用することは決してない。
中産階級の男性であれば、クインシーのような若者がたまに利用することはあるが、合理性で割り切れる性格の持ち主か、でなければ新しい物好きの変わり者に限られる。
クインシーはその両方の条件を備えていた。
床は薄汚れているし、ベンチは固いし、乗り合わせた乗客たちはむさくるしいが、彼はこの庶民的な乗り物が好きだった。
理由は電気で動いているから!
馬でもなく、蒸気機関でもない、電力だというところが未来的で革新的ではないか。
汽車と違って煤煙も出ないし、時々電気の火花が見えるのも楽しい。
その上、停留所が駅前と学園前、両方にあるのだから、乗らない理由がない。
科学が発達して次々と新しい技術が生まれていく、この時代に生まれて良かったとクインシーは思っている。
生まれたのが世界で最も繫栄している偉大な国だったというのも幸運だ。
新大陸や暗黒大陸、あるいは南の大地などに生まれていたら、こんな風に心躍る科学技術の恩恵に浴することはなかっただろう。
女王陛下に栄光あれ!
※
王立学園の敷地は広い。
学園前停留所でトラムを降りたクインシーは学園西側の小さな門をくぐった。
西門から伸びる小道は歩行者専用。
馬車道のように優雅なカーブを描くことなく、門から玄関まで一直線に伸びている。
クインシーのようにトラムを利用した者や自宅が徒歩圏内にある者がちらほらと歩いている。
たまに変わり者の教師が重たげな自転車のペダルを漕いで通り過ぎていく。
かっこいいなあ、とクインシーは思うが、通学に自転車を使うのはさすがに母親が許さない。
富裕層は自転車に乗らないという暗黙の了解、社会的圧力、階級的縛り。
そういった束縛から逃れて、自転車で通勤する教師にはいったいどれだけの信念があるのだろうか。
クインシーは他人の目を気にしない性格だが、反骨精神の塊というわけでもないので、おとなしく母親に従って、たまにトラムで通学する程度にとどめている。
多くの生徒が馬車で乗り付ける正門と違い、歩行者用の小道は混雑もなく、緑の芝生に囲まれた石畳は歩きやすく清潔で安全だ。
もっと大勢がトラムで通学すれば、南側正門の混雑も緩和されるだろうに……とクインシーは思う。
だが現実にはそれは難しい。
治安の問題で、女子はトラムに乗せられないというのもあるが……。
男子生徒全員がトラム利用者になってしまったら、トラムが爆発的に混雑して、乗れなくなってしまうじゃないか!
なので今のように大多数の者は曲がりくねった馬車道を馬車で遠回りしてくれば良い。
最短距離を悠々と通るのは一部の幸運な者だけでいいのだ。
小道の途中にあるバラのアーチが通る者の目を楽しませている。
正門側にある花壇に比べたらささやかな彩だが、古風なティーローズには趣がある。
そんな趣のある花に目をくれることもなく、クインシーは小道を歩いて玄関に到着した。
玄関前のロータリーは今日も混雑していた。
ひっきりなしに馬車が到着し、時計回りにロータリーを回って玄関ポーチで人を降ろし、また出て行く。
次々と馬車から降りてくるのはの制服に身を包んだ生徒たち。
紳士階級に似つかわしい濃紺の制服制帽の男子生徒。
男子より少し華やいだ色合いの、中流階級にふさわしいワンピースと帽子の女子生徒。
女王の肝いりで作られた各種教育機関の中でも、この学園の特殊性は際立っている。
何しろ男女共学だ。
良家の子女は男女別々に全寮制の名門私立校に入るのが当たり前の時代、男女が一つの学園に、それも寮生活でなく自宅から通学するこの学園は、富裕な市民階級と一部の先鋭的な貴族から注目を集めていた。
女子にも門戸を開いた革新的な教育、先進的な設備。
特に設備に関しては、名門私立に勝るとも劣らない。
一定時間ごとにチャイムを鳴らす機械仕掛けの時計塔、様々な実験器具を備えた化学実験棟、膨大な蔵書数を誇る図書館と過去の新聞を検索できる資料室、本格的なオペラでも上演できる演劇ホール、……その他色々、自慢の種には事欠かない。
伝統は浅いが……。
歴史の短い新設校と名門校のやつらは見下してくるが、歴史の長さでしか物事を測れないやつは馬鹿だとクインシーは思う。
設備の充実度ではこっちは国内最高峰、わが国で最高峰ということは、すなわち……。
世界でも最高峰だぁああーーーっ!!(クインシー心の叫び)
※
生徒たちは玄関ホールからそれぞれの教室へと散っていく。
クインシーも人の流れに混ざり、自分の教室へと向かう。
高等部二年Aクラス。
卒業後は大学進学を志す者が集まったクラスである。
医師の息子であり、将来は医院を継ぐ立場のクインシーは当然、医科大学へ進学する予定。
そして……。
「おっはよー! 今朝は妹と一緒じゃなかったんだな。どこ行ってた?」
陽気な親友カーティス、彼もまた医師の息子で医科大学への進学を義務付けられている。
日ごろそんな風には見えないが。
「ちょっと駅にな」
机の横のフックに革の鞄と制帽をかける。
席に着くと、クインシーはおもむろに懐中時計を取り出した。
教室の時計と見比べる。
「この教室の時計は二分進んでいる」
「あ、俺わかっちゃった」
カーティスは謎は全て解けたと言わんばかりに、パチンと弾いたその指でクインシーを指さした。
「おまえ、時計を合わせに駅まで行ったんだろ!」
「鉄道の時計が一番正確だからな。グリニッジと電信で繋がっているから標準時に限りなく近い。これ以上正しい時計は他にない」
「そりゃそうだけどさ。わざわざ合わせに行くか、普通?」
「あれ以来、ずっと気になっていたんだ」
クインシーが言う『あれ以来』の意味がカーティスには察しがついた。
パーセファニーとその友人たちの一件である。
「彼女たちが言っていた『学園の時計は大体どれもズレてる』『正しいのはチャイムだけ』というのがな。確かに一つ一つの時計が表示する時間にはズレがある。それぞれ機械の精度と管理者の調整のやり方に差があるからな。では時計塔のチャイムはどれだけ正確なのだろうかと思ってな」
「それで基準にするために自分の時計と駅の時計を合わせに……暇か、暇すぎるのか!」
「べつに暇じゃない。疑問を感じたら答えを確かめないと気が済まないだけだ」
「そういう所、おまえらしいよなー」
「わからないと気になるだろう」
「べつに。時計なんか大体合ってればそれでいいじゃん」
カーティスは自分の時計をウォッチポケットから取り出した。
蓋を開けなくてもガラスの小窓から針が見えるタイプだ。
「俺のはこんな感じ」
「七分も遅れてるじゃないか! 修正しろ! 今すぐに!」
※
王立学園の時計塔は日中一時間ごとにチャイムと呼ばれる鐘を鳴らす。
一日の最初に鳴るチャイムは始業時間の合図として午前九時。
クインシーは自分の懐中時計の針がぴったり午前九時を差した時、チャイムが鳴り始めるのを確認。
午前十時にもぴったりその瞬間にチャイムが鳴り始めるのを確認。
午前十一時にも確認。
そして正午にも。
「完璧だ……!」
懐中時計とチャイムとの完璧なシンクロに目を輝かせていた。
横でカーティスが呆れている。
「それで喜ぶのっておまえくらいだよ」
「この感動がわからないとは」
王立学園の時計塔が極めて正確であるという証左が得られたことに胸を熱くするクインシー。
狂いのない時計、精巧な機械、それは崇敬に値する、とクインシーは思う。
精密機械において他国に後れを取っているわが国において、この学園の時計塔は水準を超えている。
旧大陸の技術先進国に引けを取らない神業ではないか!
「腹減ったわー。食堂行こうぜー」
感動の薄いカーティスと並んで昼食を取りに食堂へ向かう。
今日のランチはソーセージとマッシュポテト、カリフラワー、グリーンピース、リーキのスープ。
全体的に塩気の薄いそれを黙々と食べる。
美味くも不味くもない。
食事に文句をつけるのは『紳士/淑女らしくない』ということになっているので、中途半端な味に不満をもらす生徒はいない。
ただ黙ってテーブルに置いてある塩を振る。
塩を足しても、大して美味しくはならないが。
サンドイッチとケーキは絶品なので、女子生徒はそれらと紅茶で済ませることも多い。
育ち盛りの男子にはそれでは足りないので、ソーセージと量だけはあるマッシュポテトを黙々と口に運ぶのだ。
若者たちよ、諸君は美食を味わいにここにいるのではない、学ぶためにいるのだ!
食事は栄養!
美食を味わいたくば一流レストランへ行け!
質実剛健、それが王立学園の一つの方針である。
質実剛健な昼食を終える頃、カーティスは普段と違う空気に気づいた。
生徒たちが足早に出入りしては何事かを囁き合っている。
クインシーもざわめきの中で『中庭』『噴水』といった単語を聞き取った。
「何かあったみたいだな」
「行ってみるか」
新聞部部長であるカーティスは好奇心の塊だ。
記事になりそうな事件に敏感に反応する。
その様子は例えるならネズミの気配を察知した猫に似ていた。
※
中庭にある噴水の周りに生徒が集まっていた。
噴水はあまり大きなものではない。
石を組んだ円形の小さな池があり、その中央に水盤が高く重ねられている。
三段になった水盤のてっぺんから絶えずちょろちょろと水が流れ出し、下の水面へと滴り落ちて心地よい水音を奏でている。
普段は大して注目されることのない静かな癒しスポット。
その噴水が青く染まっていた。
水が青いのだ。
天然の水にはありえない人工的な青さだった。
「なんだこれ。水に色が付いてる」
「誰かのいたずらか?」
ざわざわしている人垣の一部が割れて、女子生徒の一団が近寄ってきた。
先頭にいるのはレディ・クラリッサ。
学園でも数少ないれっきとした貴族令嬢、クラリッサ・リッジポート男爵令嬢である。
貴族子女は名門私立校に入るのが当たり前のこの時代、市民階級と共に、しかも共学のこの学園に令嬢を通わせようという貴族は珍しい。
海運業で知られる実業家でもあるリッジポート男爵はその珍しい貴族の一人であった。
彼が愛娘クラリッサをこの学園に入学させたのには訳がある。
『科学的な精神を養わねばならない。旧態依然とした淑女教育ではなく、科学的思考に重点を置いた先進的な教育機関で!』
何故ならクラリッサは……。
「まあ、心霊からのメッセージでしょうか……?」
夢見るような瞳で青い水に手を伸ばす。
彼女はスピリチュアルにドはまりしていた。
リッジポート男爵が事業拡大と蓄財に勤しみ、娘の教育を妻に投げっぱなしにしていたのがよろしくなかった。
男爵が気づいた時には妻と娘はインチキ霊媒師のカモにされ、交霊術にのめり込んでいた。
激怒した男爵によりインチキ霊媒師はブタ箱に放り込まれたが、妻は神秘思想にどっぷり浸かり、引き戻せそうになかった。
せめて娘だけでも教育のやり直しを、と男爵はクラリッサを王立学園に入れたのである。
果たして学園はレディ・クラリッサから神秘思想を抜き取って科学的精神を注入することができるだろうか。
現状、なにかとスピリチュアルな解釈をする癖はまだ抜けていないが、可憐な美貌と貴族令嬢らしい上品な言葉遣いで一部の生徒の憧れの的になっている。
「水の色を変えるだなんて、心霊は何を伝えようとしているのかしら……」
青い水面の上に手をかざした、クラリッサのその手首からするりと何かが抜け落ちた。
ポチャンと水に落ちる音。
固まるクラリッサ。
悲鳴を上げる女子生徒。
「キャー! クラリッサ様の腕時計が!」
「水に落ちたわー!」
「大変よ、誰か拾ってー!」
左手首に付けていた婦人用の腕時計のベルトが切れて落ちたのだ。
ショックを受けたのか、クラリッサは固まったまま動かない。
悲鳴を上げる女子たちは自分で水の中を探そうとはしない。
青く染まって底が見えない水の中に手を突っ込むのは……。
「……紳士の役目か」
「そうだな」
クインシーとカーティスを含む男子生徒たちであった。
※
クラリッサ・リッジポートが上流階級の香りで信奉者を集めているとしたら、セリーナ・ウィンターは文化的な香りでファンを魅了していると言える。
ノーブルのクラリッサ、インテリジェンスのセリーナ、対照的でもあり、よく似ているとも言える二人は王立学園女子生徒の双璧、学園に咲く二つの華。
セリーナとしてはクラリッサと張り合うつもりなどないのだが、周囲が勝手に二人の間にライバル意識を読み取ろうとする。
なのでセリーナは異変が起きたという噴水を見に行った時、そこにいたクラリッサから敢えて視線をそらしていた。
意識していると思われないためだ。
含むところなどこれっぽっちもないのに、クラリッサの取り巻きから『睨んでいた』なんて言われては困る。
クラリッサ様と私とでは立ち位置が違うのに……。
視線をさまよわせていたセリーナは『おや?』と思うものを見つけた。
誰もが興味津々で噴水に注目している中、そこだけ温度が違う二人がいる。
中等部であろう、まだ幼さが残る少年と少女。
少年の方は表情が硬く、少女の方は不安な様子だ。
女の子の方が男の子を心配しているのね……どういう関係なのかしら……。
親族でないとしたら、幼馴染?
セリーナの脳内にたちまち十三歳の少年と少女の淡い恋の物語が立ち上がってくる。
実際に彼らが十三歳かどうかは不明だが。
屈託のない子ども時代を過ぎて、お互いを意識し始める年ごろの、近づきそうでなかなか近づけないもどかしい関係……悪くないわ。
ドラマを盛り上げる要素として、二人の邪魔をするものが必要ね。
家同士の対立なんかどうかしら、ロミオとジュリエットはドラマ作りの基本よね。
セリーナの脳内ストーリー自動作成機能がフル回転して止まらない。
そんな時に噴水の傍で悲鳴が上がった。
「キャー! クラリッサ様の腕時計が!」
「水に落ちたわー!」
「大変よ、誰か拾ってー!」
あらまあ、大変。
セリーナはクラリッサの手首にいつもつけている高級宝飾腕時計を思い浮かべた。
とても華奢なデザインで、文字盤は小さく、実用品というより装飾品。
じっくり見たことはないけれど、噂によれば文字盤の周囲を無数のダイヤモンドがまるで石畳のように整然と埋め尽くしているのだとか。
女性の服には懐中時計を入れておけるようなポケットがないので、時計を携帯するならブローチ型か、ペンダント型、あるいはクラリッサのようなブレスレット型になる。
なるほど、ブレスレット型だとこのように落とす危険性があるというわけか。
ペンダント型でも鎖が切れることはあるだろうし……。
……ハッ、これは使えるのではないかしら!?
男女の出会いのきっかけとして『落とした時計を拾ってくれた人に一目惚れ』……有りだわ!
その時計に実は秘密があって、裏に刻まれた文字が手掛かりに……いえ、裏より中の機構に手がかりがある方がいいかしら?
時計の元の持ち主がヒーローの姉で、それが巡り巡ってヒロインの手に……。
……と、セリーナが恋愛サスペンス小説のアイディアを考えていると。
先ほどの少年と少女の様子がおかしいことに気づいた。
悲鳴を聞いて弾かれたように顔を上げた少年だったが、今では顔面蒼白になっている。
彼が見つめているのは噴水と、袖をまくって水に腕を突っ込んで時計を探している男子生徒たち。
少女はそんな捜索風景と青ざめた少年とを交互に見比べて、こちらも顔色を悪くしている。
……なるほど、そういうことね。
セリーナは直感した。
この子たちが犯人なんだわ。
インクか絵の具でも投げ込んだのかしら。
何を思ってそんないたずらをしたのか知らないけれど、よりにもよってクラリッサ様の腕時計が水の中に落ちるとは思わなかったでしょう。
今になって責任追及されるんじゃないかと怯えているのね。
どの程度の罰を与えられるかわからないけれど、もしもクラリッサ様の腕時計を弁償するようにと言われたら、修理費だけでもかなりの金額になりそう。
ちょっとかわいそうな気もするわね……。
その場の誰もが噴水とクラリッサに注目している。
顔色の悪い二人に気づいた者はセリーナ以外にはいないようだ。
そして噴水の方では……。
「あった! ……と思ったら違った。薬瓶だった」
「なんで薬瓶が。誰だよ、噴水にゴミを捨てたのは」
「これは! ……薬瓶の蓋だった」
「誰だよ、蓋も一緒に捨てたのは」
捜索に意外と手間取っていた。
クラリッサの手の真下に落ちていそうなものなのに。
しばらくして、少し離れた所で。
「あった」
声を上げた男子生徒の方を見て、セリーナは一瞬嫌な顔になりかけた。
クインシー・サイクラードだったからだ。
「なんでそんなところに」
「放物線を描いて落ちた後、水の流れで多少動いたんだろう」
袖をまくり上げた腕から水をぽたぽた落としながら、彼はクラリッサに拾い物を差し出した。
「どうぞ、レディ・クラリッサ」
「まあ、ありがとうございます」
硬直が解けたクラリッサは嬉しそうに時計を受け取った。
「見たところ大きな傷はありませんが、修理に出す必要があると思います。中の機械は水に弱いので」
「ええ、そうしますわ。父から贈られた大切な時計ですの」
落とした時計を拾ってくれた人……。
セリーナの脳裏にさっき思いついたばかりの恋愛サスペンスのプロットがよぎって消えた。
いけませんわクラリッサ様、その人は一見、紳士的に見えますけれど……とセリーナは心の中で警告を発した。
本当はとっても無礼で無神経で嫌な人なんですから!!
セリーナがクインシーから視線を外して周りを見た時、あの顔色の悪い少年と少女はもういなくなっていた。
※
そこからは何事もなく一日が終わるかと思われた。
しかし再び事件が起きた。
本校舎の廊下にある掲示板に次のような警告文が貼られたのである。
『青い水は毒。触れただけでも人が死にます』
騒ぎになる前にとカーティスが『新聞部部長権限』という謎の権威を振りかざして、その貼り紙を回収したが、貼り紙を見た生徒は一人や二人ではなかった。
その中にはクラリッサもいた。
「毒……私の時計が……毒に……?」
そう呟いて、手の甲を額に当てたと思ったら、そのままふらりと倒れるクラリッサ。
ショックで立っていられなくなったらしい。
慌てて支える取り巻きの少女たち。
「この貼り紙は質の悪いいたずらです。あの水は毒じゃありません」
貼り紙を剥がして丸めるカーティスの横で淡々と話すクインシー。
クラリッサは彼へ弱弱しい視線を向けた。
「……それは本当ですの?」
「本当です。化学のディクソン先生が噴水の水を採取して、科学実験棟の機材を用いて成分分析を試みました。ちょうど我々のクラスが化学の時間だったので、全員でその分析を見学しました。触れただけで人が死ぬような猛毒は検出されませんでした」
「……邪悪な霊の仕業ではなく?」
「違います」
「……妖精でもなく?」
「妖精とも幽霊とも関係ありません」
「安心していいのでしょうか……?」
「ご心配なら修理に出す時に『池の水に落としたので、どんな汚れがついているかわからないから念入りな洗浄を』と添えればいいですよ。新品同様になって返ってくるでしょう」
「そう……そうですわね、ええ、そうしますわ」
クラリッサはそれでひとまず落ち着いた。
だが納得した生徒ばかりではなかった。
流言飛語というものは広まるにつれて尾ひれがつく。
そして悪い噂ほど素早く広がる。
午後三時、授業の終わりと同時にパーセファニーが新聞部部室に突撃してきた。
「一滴で百人を殺せる青い猛毒が王都の水道に投げ込まれたって本当ー!?」
「妄言だ。信じるな、馬鹿」
「噂って末端に届く頃には原型を留めなくなってんだな。パーセファニーちゃん、今日も可愛いねー」
「兄様、人を馬鹿って言う方が馬鹿なんだからね。カーティス様、今日もかっこいいですよー。それじゃ噂はでたらめなの?」
「まず、王都の水道はなんともない。それを証明しよう。ちょうど今給湯室でお湯をもらってきたところだ。紅茶でいいか?」
クインシーが化学の実験のような手つきで紅茶を淹れるのをパーセファニーは不審そうな目で見た。
「これって私で人体実験するってこと?」
「安心しろ。全員が同じものを飲む」
果たしてそれは安心できる根拠になるのだろうか?
最悪の場合、全員一度に倒れるのでは……。
微妙な沈黙が支配する中、サイクラード兄妹と新聞部員たちはクインシーが淹れた紅茶を飲んだ。
誰の体にも特に異常は起きなかった。
「嘔吐なし。喉が焼ける感覚もなし。色も味も香りも普通。王都の水道に異常なしだ」
「毒が入ってるかもと思うと、味がよくわからないんだけど。兄様は紅茶淹れるの上手じゃないし」
眉を寄せ、用心深く少量ずつ口に入れるパーセファニー。
美味しくない、とその顔が言っている。
「毒が入っているかと思うからだ。まずその前提がおかしいと思え。青い猛毒なんて図鑑でも見たことないだろう。大抵の猛毒は白色か無色、たまに茶色か赤褐色だ。医者の娘ならそれくらい覚えておけ」
「だって、今までになくても、これからはあるかもしれないじゃん。緑色の壁紙は毒なんでしょ?」
「化学染料に有毒な物質が含まれていた事例だな。様々な物が合成されるようになれば、新種の毒物も誕生するかもしれないが……」
「その可能性は今考える必要なくない? 化学のディクソン先生がばっちり調べてくれたんだろ? あの青い色は無害だって」
カーティスの言葉を聞いて、パーセファニーの表情から緊張が取れた。
「化学の先生が言うなら安心だね! カーティス様、そのビスケット食べていいですか?」
ビスケットの缶を開けてもらい、嬉しそうにぱくつくパーセファニー。
レモン風味のビスケットがあれば、紅茶も美味しく感じられるらしい。
「ディクソン先生へのその厚い信頼感は何なんだ」
「だって先生だもん。学園の先生は皆優秀なんでしょ?」
「それはそうだが、教師だって間違うことも……」
「だーかーらー、そういう話は後でいいっての。今はこの事件について話し合おうぜ」
サイクラード兄妹のくだらない議論を容赦なくぶった切るカーティス。
「毒じゃなくても噴水の水を汚したやつがいる。同じ日に掲示板に警告文を貼ったやつがいる。なんでこんなことしたのか知らないが、悪質ないたずらだろ。やったやつを突き止めようぜ」
「記事にするのか?」
「当然! こういうことするやつは顔も名前も晒してやる! 二度と悪さしないように社会的制裁を加えてやらないと」
新聞部部長カーティス・スプリングフィールド、彼には彼なりの正義感がある。
今、彼は正義感に燃えていた。
「やりましょう、部長!」
「我々の力で正義の鉄槌を!」
「ペンは剣よりも強し!」
新聞部一同も正義感に火がついていた。
噴水の水を汚すのは悪。
流言飛語で人心を惑わすのも悪。
学園に潜む悪を新聞部が白日の下に晒すのだ!!
その時、部室のドアを誰かがノックした。
部員がドアを開けると、そこにはセリーナ・ウィンターが立っていた。
「新聞部の皆様にお聞かせしたいことがありますの。私、知ってしまったのです。噴水の水に毒を入れたのが誰なのか」
彼女も彼女なりの正義感に燃えていた。
※
「これはこれは、ウィンター嬢ではありませんか! さあどうぞ中へ。ちょうどお茶を淹れたところです。詳しい話はお茶を飲みながらでどうですか?」
「ではお言葉に甘えて」
カーティスが愛想よくセリーナを招き入れ、適当な椅子に座らせる。
セリーナは同席者の中にクインシーがいるのに目を留めて、一瞬、片方の眉が持ち上がったが、会釈をするに留めて、出された紅茶をお行儀よく口に運んだ。
「この紅茶、水道の水に毒が入ってないかを確かめる人体実験も兼ねたんですけどね」
とカーティスに明るく言われて危うく吹き出しそうになりはしたが。
「……珍しい実験をなさってますのね」
淑女のプライドに掛けて、飲み込んだ。
人前で失態を晒してはならない、たとえ悪趣味なジョークを言われても。
……本っ当に悪趣味ね!
セリーナはカーティスを睨んだが、睨まれた方は気にも留めない。
「こんなのが貼られたせいで、噂が巡り巡ってとんでもないことになってまして。象でも殺せる猛毒が水道に投げ込まれた、だっけ? パーセファニーちゃん?」
「一滴で百人殺せる青い猛毒が王都の水道に入れられた、ですよ、カーティス様。セリーナ様、大丈夫ですよ。毒なんか入ってなくて、普通に飲める紅茶です。美味しくはないけど」
カーティスがテーブルに広げたのは例の警告文だ。
『青い水は毒。触れただけでも人が死にます』と二行だけ書かれた短い文面。
たったこれだけの文章が、人から人へ伝播して、そこまで大きく膨らんでしまうのか。
貼られたのは今日の午後、それからほんの数時間しか経っていないというのに。
噂というものは怖い……。
脳内に自動的にホラー小説のイメージが浮かんでくる。
独り歩きした噂が肥大化し、罪もないヒロインが徐々に追い詰められていく……。
セリーナはゾクッと身震いした。
「それで、犯人をご存じだというのは?」
カーティスに促されて、セリーナはホラーから現実へと戻った。
「どこの誰なのか名前までは存じません。私が見たのは中等部の生徒男女一名ずつです。顔は覚えています。幼い印象でしたから、一年生ではないかと思いますわ」
「その二人が噴水に何か入れているところを見たってことですか?」
「いいえ、クラリッサ様の時計が水に落ちた直後、その二人の顔色が変わるのを見たのです」
セリーナは自分が見たものをできるだけ克明に描写して話した。
彼女のストーリーテリングには聴衆を引き込む力がある。
部室にいる全員が息をするのも忘れてその話に聞き入った。
話し終えて、セリーナが冷めた紅茶で喉を潤していると、クインシーから一言。
「それだけか」
ブッチーン。
今何て言った!?
セリーナは淑女にあるまじき言葉が飛び出しそうになるのをかろうじて抑えた。
『それだけか』って何!?
え、何か言いたいの、文句があるなら言ってみなさいよ!!
「兄様、そういう言い方は良くないよ。セリーナ様に失礼だよ」
そうよね、失礼よね!
それがわかるあなたはいい子よ!
兄をたしなめるパーセファニーにセリーナは好感を抱いた。
「だが根拠がそいつらの表情だけじゃないか。挙動不審で疑わしいというのは納得できるが、『顔色が悪くなった』と言われても、実際にチアノーゼを起こしたわけでもあるまい。青いとか白いとか顔色の表現が観察者の主観に頼りすぎ……」
「医学的見地は後回しにしろよ。とにかく様子が変だったってことだろ? 疑う理由にはなる」
「兄様、ビスケットあげるからこれ食べてて。その子たち、中等部の一年っぽいんですよね? セリーナ様は顔見ればわかりますか? 一年の教室片っ端から見に行きましょうか?」
カーティスに黙らされ、パーセファニーにビスケットを押し付けられて、クインシーは無言でビスケットを齧っている。
屑が散らばりやすいので、ビスケットはあまり好きではないのだが。
クインシーが難しい顔でビスケットを齧っているのを横目で見て、セリーナは少し溜飲を下げた。
チアノーゼとかなんとか理屈をこねても、結局正しいのは女の直感なのよ。
……ところでチアノーゼって何かしら。
後で調べよう、とセリーナは心のメモに書き込んだ。
※
セリーナ、パーセファニー、カーティスの三人は一年生の教室を回ったが、目当ての二人を発見できなかった。
そもそも放課後なので、帰宅してしまっている生徒も多かった。
「見つかりませんでしたわね……」
「また明日探せばいいですよ!」
「ビビってるんなら、明日は登校してこないかもなー」
成果を出せず落ち込むセリーナをパーセファニーが明るく激励していると、そこに水を差すようなことをカーティスが言い出した。
パーセファニーはムッとしながらも、言われてみればそうかもしれない、と考え直した。
「えーと、じゃあ、明日探して見つからなかったら、欠席してる子が犯人!」
「お、賢いじゃん。偉い偉い」
カーティスに頭を撫でられてパーセファニーの機嫌は急上昇。
セリーナも悪くない発想だと思ったが……。
「欠席者が二人だけなら確定ですけど、たくさんいたら絞り込めませんわね」
「毒が撒かれたと思い込んで欠席するやつ、いっぱいいそうだな」
「そっか……」
セリーナとカーティスの指摘を受けて、パーセファニーの元気はみるみるうちにしぼんでいった。
三人が新聞部の部室に戻ると、
「遅かったな」
クインシーが待ち構えていた。
「ただいまー。成果は無し。ほとんどが帰った後だった」
「そうか。こっちは成果があったぞ」
クインシーが指でトンと叩いたのはテーブルの上に置かれた二枚の紙。
一枚は例の警告文だが、もう一枚は……。
「これが貼られるのを目撃した者はいない。ということは休憩時間など人通りの多い時間帯ではなく、授業時間中に貼られた可能性が高い。授業時間に廊下を出歩くことができる者は限られる。授業自体が自習になったクラスか、特別な理由で別行動している者だ。俺が調べた限りでは、今日の午後、自習になったクラスはなかった。よってもう一つの可能性を調べてきた」
クインシーが指で叩いたその紙には人の名前が記されていた。
「保健室利用者。今日の午後、体調不良や怪我で保健室を利用した者。その名簿を書き写してきた。ここに名前がある者は、少なくとも警告文を貼ることが可能だったということになる。ウィンター嬢が見た二人のうちどちらかがこの名簿に名前があれば、犯人である可能性は高いと考えていいだろう」
※
セリーナは顔には出さずに、内心で『ぐぬぬぬ……』と唸っていた。
悔しいが、着眼点は良いと言うしかない。
確かに、保健室利用者なら誰にも見られずに警告文を貼ることが可能だ。
保健室利用者以外にそれが可能だった人物は……と考えると、教職員くらいしか思いつかない。
そしてセリーナが目撃した『噴水の傍で顔色を変えた不審な男女』は教職員ではなく生徒なのだ。
悔しいけれど、このリストは有力な手掛かり。
悔しいけど!
「おー、さすがクインシー。よくぞ調べた。こんな名簿、本来なら持ち出し禁止だろ?」
「養護教諭が外出した隙に勝手に閲覧して書き写した。今、学園長がいないから緩みがちなんだな。出入り自由、何なら医薬品戸棚も勝手に使おうと思えば使える状態だったぞ」
「管理がなってないな。でもまあ保健室なんて劇薬とか置いてないし。消毒薬くらいか?」
「薬も使い方次第だが、まあ大した劇薬はないな。むしろ化学準備室の方が危険な薬品が多い」
カーティスとクインシーの会話に、セリーナは小さなひっかかりを覚えた。
「毒物を学園内で入手したとお考えですの?」
「いや、それはないんじゃないかな~。化学準備室の薬品戸棚はディクソン先生がきっちり鍵かけて管理してるし。あの先生は甘くないよな」
「危険な薬品を持ち出そうとするなら、鍵を盗むか、ガラスを割るしかないが、どちらも行われた形跡がなかったな」
それなら……とセリーナは続けて考える。
毒物の入手って、どこでどうやって手に入れたのだろう?
中等部の生徒が近づくことのできる毒物というと……。
セリーナはちらりと同席者を盗み見た。
スプリングフィールド総合病院の院長の息子、カーティス。
彼なら容易く毒物を入手できるのではないかしら?
セリーナの脳裏に実家の大病院に盗みに入るカーティスの姿が……。
……似合いすぎている。
でも現実的ではないわね、とセリーナは脳内イメージにバツをつけた。
彼は犯人を突き止めようとしている、いわば探偵側なのだから。
仮に私が犯人だったとして……とセリーナは考える。
まだ幼い中等部一年生なら、お小遣いを持って薬局に買いに行くのじゃないかしら。
人を殺せる毒薬をください、と……。
セリーナが幼い殺意にゾクッと身を震わせている間も、捜査活動は進んでいた。
「知ってる名前があるな。高等部の生徒は除外していいんじゃないか?」
「高等部に共犯者がいるかもしれないだろう」
「そこまで疑う? じゃ保留で」
「兄様は髪の毛の一本まで細かく分けて考えないと気が済まない性格なんですよ~」
……進んでいるようで進んでいなかった。
※
そして翌日。
噴水の周りには生徒が近づかないようにロープが張られていた。
毒の噂を信じ込んだのか、いつもより通学馬車が少ない。
それぞれの教室でも欠席者が目立つ。
だがクインシーとカーティスの教室では。
「欠席者ゼロ。きっちり全員登校したな」
「ディクソン先生に目の前で無害と証明されたからな」
化学教師の勝利!
「新聞部、号外出して青い水は無害だと知らしめたらどうだ?」
「タイミングを見計らっているんだ。犯人の正体を暴いた上で、無害でしたと出す! それまでは緊張感を維持しておく方が記事のインパクト絶大!」
「読者の安心より記事のインパクトを重視するのか? それでいいのか?」
「いいんだよ、どうせ無害なんだから、誰かが死ぬわけでもないし。時間がかかるわけでもない。早ければ今日中に犯人確定だ」
セリーナが容疑者の顔を確認すれば。
その容疑者の名前が保健室利用者名簿にあれば。
事件は一気に解決に向かう。
カーティスは容疑者さえ捕まえれば真相を吐かせるのは簡単だと信じて疑わなかった。
そして放課後。
クインシー、カーティス、セリーナ、そしてパーセファニーの四人は容疑者と噴水の傍で向かい合っていた。
少し離れた物陰では新聞部撮影班がコダック社のカメラを構えている。
・容疑者その1:アラン・エルキンズ、中等部一年、十三歳。
・容疑者その2:バーバラ・ボールドウィン、中等部一年、十三歳。
不安そうな面持ちのバーバラに対し、アランの方は開き直ったのか人形のような無表情だった。
「こうして呼び出された理由はわかっていると思うが」
「……」
クインシーの威圧的な言葉にアランは反応しない。
「これを書いたのは君だな?」
「……」
警告文の紙を突き付けられても、アランは反応しない。
「この筆跡は特徴的な右下がり。左利きの人間がよくこんな右下がりの字を書く。アラン・エルキンズ、君は左利きだな? アルバートチェーンを見れば懐中時計が右のポケットに入っているのがわかる。懐中時計を右のポケットに入れるのは左利きの人間だ。この警告文を書いたのはアラン、君だな?」
「……」
証拠を指摘されても、まだ反応しない。
クインシーは眉間にシワを寄せてカーティスに言った。
「何故彼は何も答えないんだ?」
「まあ待て。俺が優し~く言い聞かせてみるから」
愛想のいい笑みを浮かべて、カーティスはアランに話しかけた。
「なあ、アラン。もうネタは割れてんだよ。今更隠し立てしたって始まらないだろ。素直に認めろよ。謝れば許してもらえるかも……」
「勝手にすればいい」
カーティスの説得をさえぎって、アランの口から無感情な声が発せられた。
誰とも目線を合わせずに、独り言のような呟きを漏らす。
「警察に突き出せばいい。こいつが犯人ですって。あんたらがやりたいことはそれだろ。殺人罪でもなんでも、そういうのに仕立て上げたいんなら、すればいい」
「は?」
カーティスの笑顔がひきつる。
「俺らは真実を知りたいんだけど? 違うなら違うって言ってくれていいんだよ?」
「どうでもいい。僕には関係ない」
「関係ないってことはないだろう。やったのか、やってないのか、どっちなんだよ」
「……」
ぷいっと横を向くアラン。
もうそれ以上言葉を発する気がないようだった。
「……おい、やるぞ」
「……わかった」
カーティスとクインシーが同時に動いた。
こめかみに怒りのマークを浮かべて。
二人がかりでアランを引きずり、ロープで囲まれた噴水の青い水にアランの片手を押し込む。
驚愕の表情でジタバタと暴れるアラン。
しかし十三歳の小さな体では十七歳の二人を相手に逃れられるはずもない。
「人が話を聞いてやろうって言ってんのにその態度はなんだ! 殺人罪とか以前に先輩への不敬罪でしょっぴいたろうか、このガキぁ!」
「警告文によれば青い水は毒で、触れただけでも人が死ぬんだったなあ。俺はそんなの信じていないが。うん、手を突っ込んだくらいで死ぬはずがない。だからこれは暴力ではない」
「舐めたこと抜かしてると手だけじゃなくて頭まで水に突っ込むぞ、オラぁ!」
「べつに我々は警察に突き出そうとしているわけじゃない。ただ誠意のない態度に若干の腹立たしさを感じているだけだ」
口々に言い、決して手を緩めようとしないカーティスとクインシー。
必死に暴れるアラン。
バシャバシャと跳ね飛ぶ青い水。
過激な尋問(?)に唖然としたセリーナは横にいるパーセファニーに救いを求めた。
「やりすぎですわ! 本当に死なせるつもりではありませんよね!?」
「大丈夫ですよ~。ちゃんと手加減してますから」
男って野蛮ですよねー、とおっとり構えているパーセファニー。
そういう問題じゃない、と焦るセリーナ。
だって毒は!?
触れただけでも死んじゃうのでは!?
「やめて! アランが死んじゃう!」
悲鳴を上げたのはバーバラだった。
「お願い、やめてください! 本当のことを言います、噴水に毒を投げ込んだのは私です! だからもうやめて! アランが、アランが死んじゃう……!!」
※
「では話してもらおうか」
やっと解放されたアランは地面に手を突いて荒い息をしている。
気力が尽きたのだろう、立ち上がる気配がない。
袖口からぽたぽたと青い水を滴らせながら、それでも彼は頑として口を開こうとしなかった。
話し始めたのはバーバラだ。
震える体を自分で抱きしめて、懸命に言葉を紡ごうとしている。
「わ、私が毒薬の瓶を捨てました。ふ、蓋を開けて、逆さにして、中身を噴水に……。すぐに流れて消えると思ったんです。なのに水が青いままで……なんで消えてないのかわからない……」
「流れて消えると思った……?」
クインシーが眉根を寄せる。
追及しそうな気配を感じて、カーティスがサッと割り込む。
「あー、そこは後でいいから、薬瓶とその中身について詳しく。中身はどういうもので、誰がどこでどうやって手に入れたか、色々聞かせて欲しいんだけど」
「な、中身は青い粉でした」
「うん、それで?」
「それだけです」
「薬品名とかは?」
「わ、わかりません……」
「わかんないの? なんで? 君が持ってきたんじゃないの?」
「それは……」
もう見ていられない、とセリーナは思った。
まだ一年生の女の子をこんな風に問い詰めて!
あんなに震えているのに、よってたかって威圧して!
倒れちゃったらどうするのよ!
「なぜ彼女には答えられないのか。見ればわかります。簡単なことですわ」
カーティス・スプリングフィールド、そしてクインシー・サイクラード、あなたたちの目は節穴なの?
見てもわからないなら教えてあげるわ、その答えは……。
「捨てたのは彼女でも、薬瓶自体は彼女の物じゃなかったからです。大切な人を裏切りたくないから、言えないのですわ。その薬瓶を持っていたのはアランだ、と」
「そうなの?」
「そうなのか?」
カーティスとクインシーの視線を受けて、バーバラは首を横に振るわけにもいかず、縦に振るわけにもいかず、ただ俯いて震えるのみ。
だーかーらー、威圧するなって言ってるでしょうが!
セリーナはさりげなくバーバラを男どもの視線から隠す位置に立った。
この少女には悪意はない。
ただ大切な人を守りたい一心で行動したのだ。
セリーナにしてみれば自明の理だ。
一目見ればわかることなのに、言葉にして伝えないと気づかない男たちのなんと鈍いことか。
「これは推測ですけれど」
一応、そう前置きした。
絶対合ってるという自信はあるが。
「おそらく彼女はアランの様子を普段から気にかけていたのでしょう。小さな変化にでもすぐに気づくくらいに、二人はお互いをよく知っていたのです。だんだん笑わなくなっていく、会話に応じなくなっていく……心を閉ざしていく彼のことを心配して注意深く見守っていたのですわ。だから彼女は目ざとく気づいたのです。その日の彼の危うさに」
そう、これは十三歳の少年と少女、幼馴染二人の物語。
セリーナは頭に浮かんでくるイメージを言葉に紡いでいく、途切れることなく……。
「様子がいつもと違う、と彼女は感じ取りました。彼が思い詰めた様子で一本の薬瓶を手にしているところを見てしまったのです。彼女は直感的に悟りました。その薬瓶は良くない物だと。彼はそれを使って良くないことをしようとしていると」
絵が次々と浮かんできて止まらない。
その絵を写し取るようにセリーナは言葉を紡ぐ。
「止めなければならない、と彼女は思いました。今、自分が止めなかったら、きっと恐ろしいことが起こる……そんな予感がしたからです。誰かに相談している余裕はない、今、動かなければ。とっさにそう思った彼女は心の命ずるままに行動しました。大切な人を守るための行動を」
誰が彼女を咎めることができるだろうか。
……クインシー・サイクラードは咎めるかもしれないわね。
でも私は擁護するわ!
バーバラ、あなたのしたことは愚かだったかもしれないけれど、間違ってはいなかった。
「だから彼女はその薬瓶の中身を噴水に捨てたのです」
しばしの沈黙。
真相が全員の頭にしみ込んでいくのをセリーナは辛抱強く待った。
そろそろいいかな、と思い、
「では彼の手を洗いに行きましょう。急いで毒を洗い流さなくては」
「急ぐ必要は特にないが?」
クインシー・サイクラード!
あなたに人の心は無いの!?
「毒がしみ込んだらどうするのですか!」
「時計の捜索で俺やカーティスも水に腕を突っ込んだがなんともない。そもそもあれは毒ではないし」
……そういえば。
忘れていたけど、この人たち、袖まくりして腕を青い水に入れてたわ。
それに今、『毒ではない』って言った?
どういうこと?
セリーナが問いただそうとするより先に反応した者がいた。
「そんなはずない! あれは猛毒だ!」
弾かれたように顔を上げて叫んだのはアランだった。
「触れただけでも人が死ぬ猛毒だって、そう言われたんだ!」
「誰に言われた?」
クインシーが問い返す。
噛みつくようにアランが答える。
「薬局の店員にだよ!」
「そうか。薬品名は何だと言われた?」
「シアン化カリウムだよ!」
「シアン化カリウム(青酸カリ)か。薬瓶の中身は見たんだな? どんな色でどんな形だった?」
「青くて、形はないっていうか……細かい感じの粉だった」
「そうか。シアン化カリウムは確かに猛毒だ。経口摂取でなくても、皮膚からでも吸収されるのは事実だが……」
やっぱり早く洗い流さないと!
焦るセリーナ。
だがクインシーの言葉は次のように続いた。
「シアン化カリウムって青くないんだ」
「……は?」
「白いんだ」
「……白い?」
「粉の色が青かったという時点ですでにシアン化カリウムではない。まあシアン化カリウムの白い粉末に別の青い粉末が大量に混ぜられていたという可能性も否定はできないが、そんなことをする意味がないので、この可能性は考慮しなくていいだろう」
「……青くない……?」
「そもそもこの噴水の水は昨日、化学のディクソン先生が授業で分析の実験をして、青い色の原因となった物質はコバルトだと結論が出ている」
「……」
「ちなみにコバルトは昔から青色絵の具の材料として使われている無害な物質だ」
「……」
「君が誰かに飲ませようが、皮膚に擦りつけようが、誰も死なない。君はさっき殺人罪とか言ってたな。コバルトでは誰も殺せないので、君は殺人犯にはならない。しいて言うなら不能犯だ」
「不能犯……?」
「その方法ではどうがんばっても人が死なない方法で人を殺そうとした、という意味だ。コバルトブルーの絵具で人は死なないからなあ……」
呆然とするアラン。
目を見開いてぽかんとしているバーバラ。
そして。
「初耳ですわよ?」
静かに怒りのオーラを漂わせているセリーナ。
「コバルト? 無害? 分析実験? どれも初めて聞きましたわ」
クインシーがパーセファニーに視線を向ける。
「言ってなかったのか?」
パーセファニーがカーティスに視線を向ける。
「言ってなかったかも?」
カーティスが考え込む。
「言ったような気がしてたんだが……ああ、説明したのはレディ・クラリッサにだった。ウィンター嬢には言うの忘れてた。ごめんごめん」
アハハ、と笑うカーティス。
無性に怒りが湧いてくるセリーナ。
クラリッサ様には説明済みだからって、なんで私に説明済みだと勘違いするのよ!!
全然違うでしょ、別人でしょ!?
怒りに燃えた目でクインシーを睨む。
視線を空中にさまよわせたクインシーだったが、やがてセリーナの目を見てこう言った。
「コバルトでした」
今言うなー!!
※
「部長~、なんかもう解決したっぽいですけど、写真どうしますか~?」
気まずい空気を断ち切ったのは、物陰に隠れていた新聞部撮影班だ。
ここぞというタイミングを待ってカメラを構えていたのだが、アランはなかなか自白しないし、カーティスらが過激な尋問(?)を始めるし、バーバラが自白したと思えばセリーナが庇うように前に立つしで、シャッターチャンスが一向にめぐってこなかった。
そうこうしているうちに事件が解決したような雰囲気が漂ってきたので、物陰から出てカーティスに指示を仰ぎに来たのだ。
「あー、どうしよっかなー。顔と名前を晒してやるつもりだったけど、話聞いてみたら悪気はなかったみたいだし」
「噴水に捨てた彼女はともかく、毒物購入には悪気がなかったとは言えない。何に使うつもりだったんだ?」
「……あんたに関係ないだろ」
アランは不貞腐れた様子でぷいっと横を向いた。
クインシーの頬がぴくっとひきつる。
「不能犯だから殺人罪で裁くことはできないが……」
「あ、この感じ、たぶん兄様がキレます」
「人をイラつかせる罪でこいつを裁いてやりたいと思うんだが、我が国の慣習にそういう罪名はなかっただろうか!? ないなら議会で提出してもらいたい! 犯罪者になりかけている者を助けてやろうと手を差し伸べているのに人の親切に背を向ける阿呆は傲慢の罪で有罪にしていい法案を!!」
「ほらやっぱりキレました。兄様、落ち着いて。自分では気づいてないんだろうけど、けっこう変なこと言ってるよ。はい深呼吸~」
ウガーッ、と吠えるクインシーをパーセファニーとカーティスが宥める。
「まあ落ち着け。そんな法案が通ったらまずお前が有罪にされるから」
「何故俺が!?」
その通りね、とセリーナは内心で頷いた。
人をイラつかせる罪とか、傲慢の罪というものが法的に認められるなら、クインシーはおそらく有罪。
まあ死罪に値するほどではないけれど。
「すみません、いつもはこんなじゃないんです、今ちょっとこじらせてるだけで、元々は謙虚な性格なんです」
バーバラが必死に謝罪している。
アランの代わりに。
カーティスがアランの肩に腕を回し、顔を近づけて語り掛ける。
「なあ、おまえ彼女が頭下げてるの見てなんとも思わねえの?」
「……頼んでないし」
「意地張ってんの、かっこ悪いぜ」
「……」
一方、宥められ深呼吸して落ち着きを取り戻したクインシーはバーバラにお説教を始めている。
「噴水の水のことだが、なぜ捨てた青い粉が消えてなくならなかったのかわからないと言っていたね?」
「はい……」
「この噴水は循環式なんだ」
「……はい?」
「無限に水が湧きだしているように見えるが、実は水を電動ポンプでくみ上げて循環させているんだ。だから人の手で水を入れ替えない限り、どこかへ流れ去ったり新しい綺麗な水と入れ替わったりはしない」
「ええっ、そうなんですか?」
「だから何かを処分したい時には噴水に投げ入れてはいけない。もしもまた何かを水に流して処分しようと思うなら……」
あ、この人、また何か変なことを言い出しそう、とセリーナは思った。
「テムズ川に捨てるように」
「違うでしょ!」
思わず口に出してツッコんでしまったセリーナ。
処分に困る毒物を川に捨てろと教えてどうする!
テムズ川が汚染されるでしょ!
「バーバラさん、今のは違いますからね。そういう時は信頼できる大人に相談するのです。学園でなら先生に、おうちでならご家族のどなたかに。いいですね?」
「はい……?」
セリーナは混乱気味のバーバラに懇々と諭した。
カーティスとアランの親密な距離での話し合いは続いていた。
「まあいきなり素直になれっつっても無理な話か。じゃあ別の話。要はおまえ、薬屋に騙されたんだよな?」
「……」
「借り、返したくない?」
「……どういう意味?」
「騙されっぱなしで泣き寝入りじゃあ悔しいだろって話。やり返すんなら手伝ってやる。頼もしい先輩たちに任せろ。あ、そうだ、ウィンター嬢!」
急に名前を呼ばれて、セリーナは振り向いた。
カーティスの目がキラキラしている。
いいことを思いついたと言わんばかりに。
そのキラキラ感には嫌な予感しかしない。
やめて、何を企んでいるのか知らないけれど、私を巻き込まないで。
「記事書きませんかー? 主人公こいつらで、小説のノリで!」
「いきなり何のお話ですの?」
「撮影班、一応写真撮っといて。噴水をバックに記念写真って感じで!」
カーティスの指示のもと、訳が分からないまま、青い噴水をバックに写真が撮影された。
その写真は後に学生新聞の紙面に載ることになる。
※
ここは市内に昔からある薬店。
最近、店主の代替わりと共に内装がリニューアルされた。
木のカウンターは清潔なガラスケースに取り替えられ、カウンターの奥の古い薬品キャビネットは上半分がガラス戸棚に変えられている。
戸棚の中身も近代的な工場生産の薬瓶が並ぶようになった。
だがまだ昔ながらの道具や備品も残されている。
そんな昔ながらの道具の一つ、天秤と薬さじで薬剤師が粉薬を計量していた。
薄い茶色の薬包紙に丁寧に包んでいく。
カランコロンとドアベルが鳴り、一人の客が入ってきた。
「いらっしゃい。何をお求めで?」
薬剤師はちらりと客に視線を投げる。
常連客ではない。
ごく普通の男性客だ。
「ちょっと新製品を見たくてね。勝手にやるから気にしないでくれ」
そう言って客はカウンター上に陳列された商品を手に取った。
歯磨き粉のパッケージをひっくり返して裏側の文字を丹念に読んでいる。
「どうぞごゆっくり」
薬剤師はそれっきり客への興味を失った。
カランコロンとドアベルが鳴った。
次に入ってきたのは見覚えのある少年だ。
濃紺の制服を着ている。
薬剤師は舌打ちしたい気分になった。
先週売りつけた薬が偽物だと気づいて文句を言いに来たのだろうか。
だが証拠は何もないし、保護者や警察に訴えることもできないはず。
こちらの優位は揺るがない。
薬剤師は余裕の笑みを浮かべて見せた。
「いらっしゃい。何をお求めで?」
「この前と同じ物を」
「足りませんでしたか?」
「……捨てられたんだ。だから新しいのを買いに来た」
「おやおや、それはそれは……」
馬鹿な子どもだ、と薬剤師は内心でせせら笑った。
二度も偽物を掴まされに来るとは。
だが儲けさせてくれるのなら、断る理由はない。
ガラス戸棚の鍵を開け、中から透明なガラス瓶を取り出す。
瓶の中には青い粉が入っている。
ラベルはない。
「半クラウンです」
少年は暗い目をして財布から硬貨を取り出し……すぐにはカウンターに置かなかった。
硬貨を手に持ったまま、小さな声で質問してきた。
「この前と同じ物?」
「そうですよ」
「触れただけでも人が死ぬ毒?」
薬剤師は素早くもう一人の客に視線を送った。
幸い、男性客は店の隅で新製品の香りを確認中、こちらの会話は聞こえていないようだ。
薬剤師は小声で少年に答えを返した。
「そう言ったでしょう? 気が変わったならやめときますか?」
「この毒、名前言える?」
「大きな声で言いたくないんですけどね。シアン化カリウム。この前にも言ったでしょう。要らないんなら買わなくていいですよ」
「買うよ」
少年は硬貨をカウンターに置いた。
青い粉の入った透明なガラス瓶を薬剤師が紙袋に入れて少年に手渡す。
取引成立だ。
「毎度ありがとうございます」
営業スマイルを浮かべる薬剤師。
少年も口元だけで笑い……その笑みは一瞬で消えた。
「警部さん、聞こえてましたよね!」
「ああ、しっかりと聞いた」
新製品の箱を置いて、男性客が振り向いた。
そこには職業人らしい厳しい態度があった。
「署までご同行願わねばならんな。店主どの、閉店の札を掛けておくことをお勧めするよ」
薬剤師も馬鹿ではない、むしろ頭は切れる方だと自負している。
6ペンスもしない顔料をシアン化カリウムだと偽って半クラウンで販売した、詐欺行為の現行犯だ。
逮捕は回避できないと悟ったが、それでも何も悪あがきしないほど潔く割り切れもしなかった。
「警部さんですか。私を逮捕する前に、その少年を捕まえた方がよろしいですよ。『人を殺せる毒が欲しい』と言って買い求めに来たんですから。誰かを殺すつもりなんだ。人殺しだ。私は殺人を未然に防ごうとしたんですよ」
「詳しい話は署で聞こう」
外で待機していた警官が薬剤師を連行する。
少年、アランはその様子を無言で見送った。
警部がそんな彼を見つめている。
「人殺しだとあいつは言ったが、君は自分を殺人者だと責める必要はない。だが反省はしなくてはならない」
「わかってます。自殺も罪ですよね。もう、する気はないけど」
※
新聞部の部室では刷り上がった号外を囲んで、部員一同とクインシー、パーセファニー、セリーナらが祝杯を上げていた。
飲み物は紅茶、お茶請けはミント味の飴やねじり飴、シャーベットレモン飴など色とりどりの各種飴玉。
「いやー、いい記事が書けたなー。みんな頑張ったよ。お疲れさん!」
カーティスが満足そうに全員をねぎらう。
号外には大きく『噴水の水は安全!! ディクソン先生は語る』という見出しと共に、噴水の前で撮影されたカーティスらの写真が大きく載っていた。
化学教師のコメントよりも大きい。
そしてもっとスペースを大きく占めていたのが……。
「私は疲れましたわ……」
セリーナが書いた実録風短編小説、『老舗馬車工房と自動車工場、親同士の対立、引き裂かれた幼馴染』である。
限られた時間、限られた文字数で、感動的な短編をと要求されて、急いで書き上げたセリーナには疲労感が濃い。
「でもさすがはセリーナ様です。これ読んだらみんなこの二人に同情しますよ。私も泣きそうになっちゃったもん」
「そうだといいのですけれど」
ニコニコして飴を口に入れるパーセファニー。
褒められて、スッと背筋が伸びるセリーナ。
ファンの前でだらけた姿は見せられない。
「本当によく書けてますよ、いい話ですよ」
「うんうん、私も泣けました」
こぞって褒めたたえる新聞部員。
そんな中で一人、難しい顔をしているクインシー。
「一つわからないことがあるんだが」
「何が?」
棒付きキャンディーを口に咥えて問い返すカーティス。
クインシーは短編小説を指でトンと叩いた。
「このヒロイン、バーバラの言動、その行動原理だ。終始一貫して幼馴染を庇っているが、庇われているアランは非協力的で態度も最悪。一つもいい所がない。なんでこんなやつをそこまで庇う? ろくに感謝もされないのに。メリットが何もないだろう」
カーティスとパーセファニーが顔を見合わせた。
「こういうやつだよな」
「兄様、そういう所だよ」
新聞部員たちもお互いに目線で理解し合っている。
「クインシーさんだからな」
「頭いいのにね」
周囲からアウェイな雰囲気を感じ取るクインシー。
だが自分が何を失言したのかわからない。
そういう所とはどういう所だろうか。
……この人、何もわかってないのね。
呆れ果てるセリーナ。
わかっていないなら教えてあげなくては。
救いようのない朴念仁にもわかるように、明快に、噛み砕いて、誤解の余地のないように教えてあげましょう、この私が!
「それは愛ゆえですわ」
「……は?」
「バーバラはアランを愛しているのです。愛ゆえに、彼を守ろうとしたのです。愛する人を守りたいという気持ちにメリットなど必要ありません。それは無償の愛、真実の愛! 愛が彼女の行動原理だったのです!」
どうだ、はっきりと教えてやったぞ!
ドヤ顔でクインシーを見たセリーナは、一瞬、その表情のない顔の裏に彼の脳内を幻視したと思った。
見える、クインシーの脳内が見える。
そこでは小さなクインシーが何人も忙しそうに働いている。
それぞれが手に書類を持って、読んだり、書き込んだり、決済印を押したりしている。
その小さなクインシーの一人が『愛』と書かれた書類を手にして固まった。
周囲のクインシーたちもそれを見て一斉に固まった。
情報処理、エラー。
再計算……演算不能。
小さなクインシーたちは顔を見合わせ、うん、と頷きあった。
『愛』と書かれた書類をポイっと箱に投げ込み、再び忙しそうに動き出す。
その箱に書かれた文字は『未解決』……。
ちょっと待って!
未解決の箱に投げないで!
「あなた理解してないでしょう!?」
「いや、理解した」
「いいえ、わかっていませんわ! そうですよね、パーセファニーさん!」
「そうですね、あれはわかってない顔です」
「いや、わかっている」
「絶対にわかっていませんわ!」
わかっていると主張するクインシー。
わかっていないと主張するセリーナ。
二人の主張は平行線。
感性と閃きのセリーナ。
論理と検証のクインシー。
若き淑女と若き紳士、交わることのない二人の道、それでも二人の推理が真実を導き出す……。
第三話「青い噴水事件」:完。




