第7話 契約にはない言葉
祝宴は、何事もなかったかのように続いた。
楽師は曲を奏で、貴族たちは杯を掲げ、神官たちは和合祭の成功を称えた。
老侯爵が王太子に叱責されたことは、誰も口にしない。少なくとも、表向きにはそういうことになっていた。
だが、広間の空気はもう先ほどまでとは違っていた。
セレネへ向けられる視線が変わった。
月国の姫。
太陽国の王太子妃。
和合祭を誤らず務めた女。
そして、王太子アレクシスが公然と庇った妃。
最後の一つが加わっただけで、人々の距離の取り方は変わる。
あえて近づき祝辞を述べる者もいれば、先ほどの侯爵と近しい家の者たちは、慎重に距離を置いていた。
セレネは、その変化を肌で感じながら、王太子妃として微笑み続けた。
アレクシスは隣にいる。
何も変わらない顔で。
けれど、彼の立ち位置は先ほどまでより少しだけ近かった。
それが偶然ではないことに、セレネは気づいていた。
アレクシスは、人々がセレネへ近づく前に、一拍分の空白を作る。
そのすべては公的な配慮として説明できた。
和合祭の成功を損なわないため。
王太子妃の立場を守るため。
月国との関係に傷をつけないため。
けれど、先ほどの言葉だけは、どうしても説明しきれない。
――私が迎えた妃を、和平の供物のように値踏みするな。
その声を思い出すたび、セレネの胸は静かに揺れた。
私が迎えた妃。
私の妃。
それは、王太子が王太子妃を指すための、当然の言葉だったのだろうか。
それとも。
そこまで考えて、セレネは自分を戒める。
(期待してはいけない)
この婚姻は契約だ。
公の場では、神話どおりの夫婦を演じる。
私情は求めない。
それを最初に告げたのは彼で、受け入れたのは自分だ。
それでも、心は簡単には納得しなかった。
「王太子妃殿下」
月国使節の一人が近づいてくる。
父王の名代として来ている叔父の後ろに控えていた、若い文官だった。
「本日の祭儀、月国の者として心より御礼申し上げます」
「礼を言われるほどのことではありません。和合祭として、当然の形を整えただけです」
「いいえ。古式の一節が戻されたこと、使節団の者たちは皆、深く受け止めております」
文官の目には、かすかな安堵があった。
月国の者にとって、太陽国の大聖堂で月神ティアの名と領分が明確に読まれたことは、小さなことではないのだろう。
セレネは頷く。
「太陽国の大神官猊下と、アレクシス殿下のご判断です」
「殿下の?」
「ええ。私の提案を、殿下が通してくださいました」
文官はわずかに目を見開いた。
おそらく、アレクシスが月国側の配慮に動いたことを意外に思ったのだろう。
その反応を、アレクシスも見ていた。
彼は何も言わない。
だが、わずかに視線を伏せた。
セレネは、あえて続けた。
「太陽国の和合祭は、月を消す祭儀ではありません。殿下も、そのようにお考えくださっています」
少し踏み込んだ言い方だった。
アレクシス本人がそこまで言ったわけではない。
けれど、彼はセレネに言った。
月国の礼を失った貴女では、この婚姻の意味がない。
ならば、そう解釈してもよいはずだ。
月国の文官は深く頭を下げた。
「そのお言葉、使節団にも伝えます」
「お願いします」
文官が下がると、アレクシスが低く言った。
「ずいぶん、私をよく言いましたね」
「事実です」
「私がそこまで考えていたとは限りません」
「考えていなければ、古式の一節を戻す必要はないとおっしゃったはずです」
セレネは彼を見る。
「少なくとも、殿下は戻すことを許してくださいました。それだけで、月国の者には意味があります」
アレクシスはしばらく黙った。
広間の灯が、彼の金の瞳に映っている。
その光は、祭壇で見た太陽の灯よりも少し暗く、少し近かった。
「貴女は」
彼が言いかける。
だが、そこで侯爵夫人の一人が近づいてきたため、言葉は途切れた。
その後、アレクシスが続きを口にすることはなかった。
※
祝宴が終わった時には、夜は深くなっていた。
大聖堂での祭儀から始まり、王宮での祝宴、諸侯への挨拶、月国使節との応対。
一日のすべてが、光と視線と音に満ちていた。
王太子妃の私室へ戻った瞬間、セレネはようやく自分の呼吸の音を聞いた気がした。
侍女たちが祭礼衣を外していく。
黄金の飾冠が下ろされ、銀糸のヴェールが畳まれ、真珠と金の飾りが一つずつ外されていく。
身体が軽くなるたびに、疲労がはっきりと浮かび上がった。
「本日は、本当にお見事でございました」
侍女の一人が、小さな声で言った。
婚礼の朝から仕えている、太陽国の若い侍女だった。
最初は距離のある礼儀だけをまとっていた彼女の顔に、今は少しだけ素直な感情が見える。
「ありがとう」
セレネは微笑んだ。
「私一人の力ではありません。皆が支えてくれました」
「いいえ。王太子妃殿下がご自分でお立ちになったからこそです」
侍女はそう言ってから、慌てて目を伏せた。
「失礼いたしました」
「いいえ。そう言ってもらえて、嬉しいです」
侍女の頬が、少しだけ赤くなった。
それだけのことなのに、この部屋が昨日よりも少しだけ他人の場所ではなくなった気がした。
支度が終わると、侍女たちは下がった。
部屋に残ったのは、白金の燭台の火と、机の上に置かれた和合祭の記録だけだった。
セレネは椅子に座り、左手首に触れた。
銀十字の下、袖の内側に結んでいた銀糸は、まだそこにある。
月国の祈り。
太陽国の証。
その二つが同じ手首にある。
今日、セレネは太陽国の礼を誤らなかった。
月国の神話も消さなかった。
和合祭は成功した。
それでも、心が落ち着かないのは、祭儀のせいではない。
アレクシスの声が、まだ耳に残っている。
あの時、彼は怒っていた。
表情は冷静だった。声も荒げてはいなかった。
けれど、怒っていた。
月国への侮辱に。
そして、セレネ自身への侮辱に。
扉が叩かれた。
セレネは顔を上げる。
「どうぞ」
入ってきた侍女が礼を取る。
「王太子殿下がお見えです」
胸が、ほんの少し跳ねた。
「お通ししてください」
すぐにアレクシスが入ってきた。
彼もまた、祭礼装束から着替えていた。
濃い色の上着に、王太子の印を最小限だけつけている。昼の光の中で神話の王子のように見えた姿とは違い、今は少し疲れて見えた。
それでも、背筋は伸び、襟元は乱れていない。
「遅い時間に失礼します」
「いいえ。殿下もお疲れでしょう」
「問題ありません」
いつもの返答だった。
セレネは少しだけ眉を下げる。
「殿下の『問題ありません』は、あまり信用できませんね」
言ってから、踏み込みすぎたと思った。
だがアレクシスは怒らなかった。
むしろ、わずかに目を瞬かせる。
「貴女に言われるとは思いませんでした」
「私も、殿下に何度も休むよう言われるとは思いませんでした」
「それは貴女が休まないからです」
「殿下も休んでいらっしゃらないでしょう」
会話が、少しだけ軽くなる。
だが、その軽さは長く続かなかった。
アレクシスは机の近くまで来ると、手にしていた書類を置いた。
「本日の和合祭について、大神官から正式な報告が上がりました。大きな問題はなし。月国使節からも、古式の一節について感謝が伝えられています」
「それはよかったです」
「貴女の提案が功を奏しました」
「殿下が通してくださったからです」
「私は、必要と判断しただけです」
「はい」
セレネは頷いた。
「それでも、ありがとうございました」
アレクシスは黙った。
燭台の火が揺れる。
部屋には、祝宴の後の静けさが落ちていた。
セレネは、ここで終わらせることもできた。
和合祭の報告を聞き、礼を言い、王太子と王太子妃として一日を終える。
それが一番安全だ。
けれど、聞かずにはいられなかった。
「それから」
セレネは静かに言った。
「祝宴でのことも、ありがとうございました」
アレクシスの表情が、わずかに硬くなる。
「侯爵の件ですか」
「はい」
「王太子として当然のことをしたまでです」
予想していた返答だった。
それでも、胸の奥が少し冷える。
「そうでしょうか」
セレネは小さく首を傾げた。
「契約には、私の祖国まで庇っていただく条項はなかったはずです」
沈黙が落ちた。
アレクシスは、机の上の報告書へ視線を落とし、それからゆっくりと顔を上げる。
「月国への侮辱は、和合祭そのものへの侮辱です」
「ええ」
「和合祭の場で月国を貶める発言を許せば、二国の関係に傷がつく」
「はい」
「王太子妃を軽んじることは、私が迎えた妃、ひいては私の威信を軽んじることでもあります」
「それも、理解しております」
セレネは彼を見つめた。
「ですが、殿下の言葉はそれだけには聞こえませんでした」
アレクシスの金の瞳が、わずかに揺れた。
「私が迎えた妃を、和平の供物のように値踏みするな。これは」
セレネは、その言葉をそのまま繰り返した。
「王太子としての言葉だけでしたか?」
アレクシスは黙る。
沈黙は、答えよりも長かった。
その間に、セレネは自分の鼓動が少しずつ速くなるのを感じた。
やがて、アレクシスは言った。
「……貴女は、ああいう時も取り乱さないのですね」
答えではなかった。
セレネは、その逃げ方を理解した。
彼は、自分の感情について答えることを避けた。
少しだけ、悔しいと思う。
「取り乱して良い場ではありませんでした」
「怒ってはいた」
「ええ」
否定しなかった。
する必要がなかった。
「ですが、私は月国の王女ですから」
セレネは静かに言った。
「侮辱されたからといって、国を背負ったまま感情を露わにはできません。そう育てられました」
「そうですか」
アレクシスはわずかに目を伏せる。
「貴女は、本当に強い」
その言葉に、セレネは息を止めた。
褒められたかったわけではない。
けれど、異国へ来てから初めて、王太子妃としての働きではなく、自分のあり方を見られた気がした。
「強くなど」
「強い」
彼はきっぱりと言った。
「今日の祭儀も、祝宴も、誰より正しく振る舞っていた。太陽国の礼を誤らず、月国の誇りも捨てなかった。あの侯爵に対しても、貴女は返す言葉を選ぼうとしていた」
「選ぶ前に、殿下が動かれました」
「ええ」
アレクシスは一度だけ目を伏せた。
「動くべきではなかったかもしれません」
「なぜですか」
「私が動けば、貴女は私に庇われた妃として見られる。それは貴女の力を損なう可能性がある」
セレネは少し驚いた。
彼がそこまで考えていたとは思わなかった。
「だからといって、あの場で何もしない方がよかったとは思いません」
「私は、貴女ならご自分で返せたと知っています」
「では、なぜ」
問いかけた瞬間、アレクシスの指がわずかに動いた。
彼は答えない。
答えられないのだろうか。
それとも、答えたくないのだろうか。
セレネは、静かに言葉を足した。
「私は、殿下に庇われたことを恥とは思っておりません」
アレクシスが顔を上げる。
「庇われなければ立てないと思われるのは困ります。ですが、隣に立つ方が私と祖国への侮辱を許さなかったことを、恥じる理由はありません」
セレネは少しだけ微笑んだ。
「むしろ、心強く思いました」
アレクシスの表情が、はっきりと揺れた。
それは一瞬だった。
次の瞬間には、彼はいつもの冷静さを取り戻していた。
「そうですか」
短い返答。
また、逃げる声。
セレネは胸の奥に小さな落胆を覚えた。
けれど同時に、今の揺れを見逃したくないとも思った。
「殿下」
「何ですか」
「私が……テオドロス殿下の妃になるはずだったことを、殿下は気にしておいでですか」
言った瞬間、部屋の空気が変わった。
アレクシスの顔から、温度が消える。
怒りではない。
拒絶でもない。
ただ、深い場所に触れられた人間の沈黙だった。
セレネは、自分が踏み込みすぎたことを悟った。
だが、引き下がるべきではないとも思った。
「私は、責めているのではありません」
「わかっています」
アレクシスの声は低かった。
「ですが、今夜話すべきことではありません」
「いつなら話せますか」
その問いに、彼は答えなかった。
セレネは、少しだけ息を吸う。
「私は、殿下に奪われたとは思っておりません」
アレクシスの指先が、机の端に触れる。
「王位継承者が変わったなら、婚姻相手が変わる。それは王族の婚姻として当然のことです。私は理解しています」
「理解しているからといって」
彼が初めて遮った。
「何も失われなかったことにはなりません」
セレネは黙った。
その声には、今日侯爵へ向けた冷たい怒りとは違うものがあった。
もっと深く、もっと長く、彼自身を内側から削っているような響き。
「兄上は、あの場所に立つはずだった」
アレクシスは、視線をセレネから逸らしたまま言う。
「王太子として。太陽神の王子として。貴女の夫として」
「はい」
「私は、そのすべてを継いだ」
継いだ。
けれど彼の声は、奪った、と言っているようだった。
セレネは言葉を選ぶ。
「殿下が望んで、そうなさったわけではありません」
「望まなければ、罪ではないと?」
「罪という言葉を、私は使っておりません」
「私は使っています」
その言葉に、セレネは胸を突かれた。
アレクシスは、自分を罪人のように扱っている。
兄の席に座ったことを。
第二王子を飛ばして王太子になったことを。
兄の妃になるはずだったセレネを迎えたことを。
セレネは、ゆっくりと立ち上がった。
「殿下」
「近づかない方がいい」
アレクシスが静かに言った。
その声は、セレネを拒んでいるというより、自分自身を止めているようだった。
「私は、貴女に優しくする資格がない」
言葉は、ひどく不器用だった。
そして、ひどく痛々しかった。
セレネは足を止める。
「資格で優しくするものなのですか」
アレクシスは答えなかった。
「殿下が私を妻として愛していないことは、理解しています」
言葉にすると、少しだけ胸が痛んだ。
だが、セレネは続ける。
「私も、恋をしてここへ来たわけではありません。ですが、互いを人として扱うことまで、資格が必要なのでしょうか」
「貴女は」
アレクシスは、ようやくセレネを見る。
「貴女は、そうやって何でも正しく言う」
「正しく言っているつもりはありません」
「正しい」
彼は苦しげに言った。
「だから、余計に困る」
セレネは何も言えなかった。
正しさで人を救えないことがある。
そのことは、彼女も知っているつもりだった。
けれど今、アレクシスの前で、自分の言葉がどこまで届いているのか、わからなかった。
アレクシスは、机の上の報告書を手に取った。
「今日は、これで失礼します」
「殿下」
「和合祭は成功しました。明日以降、貴女への扱いは少し変わるでしょう。侯爵家の者たちは慎重になるはずです。月国使節への応対は、明日改めて時間を取りましょう」
公務の話へ戻っている。
完全に、逃げられた。
セレネはそれを理解した。
「承知いたしました」
王太子妃として答えるしかなかった。
アレクシスは扉へ向かう。
その背は、今日大聖堂で見た時よりも遠く見えた。
扉の前で、彼は一度だけ足を止める。
「セレネ」
今度は、はっきりと名前だった。
セレネは息を止める。
アレクシスは振り返らない。
ただ、低く言った。
「今日、貴女が隣に立ってくれたことには、感謝しています」
それだけ言って、彼は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
セレネは、しばらく動けなかった。
王太子妃ではなく、セレネ。
稽古で転びかけた時とは違う。
今は彼自身の意思で、その名を呼んだ。
感謝している。
隣に立ってくれたことに。
それは、契約の内側の言葉だろうか。
王太子が王太子妃に向ける、公的な謝意だろうか。
わからない。
わからないのに、胸の奥が熱い。
セレネはゆっくりと椅子に座り直した。
机の上には、和合祭の報告書が一部だけ残っている。
アレクシスが置いていったものだろう。
その端には、彼の端正な筆跡で短い追記があった。
月の灯、問題なし。
王太子妃の礼、正確。
古式一節、復活の意義あり。
公的な記録のための、簡潔な書き込み。
その中に、セレネ個人への言葉はない。
けれど、先ほど彼は言った。
セレネ。
隣に立ってくれたことに、感謝している。
契約にはない言葉だった。
そして、契約にはないまま、彼は逃げた。
セレネは燭台の火を見つめる。
炎は小さく揺れている。
太陽国の夜は、月国の夜より明るい。
それでも、光がある場所には必ず影ができる。
アレクシスの影。
兄王子の影。
第二王子の影。
神の面影と呼ばれる金の瞳の奥にある、彼自身の痛み。
そこへ踏み込むには、まだ早いのかもしれない。
けれど、踏み込まなければ、二人はずっと理想の夫婦を演じるだけになる。
セレネは左手首の銀十字に触れた。
その下の銀糸は、まだほどけていない。
月を背負ったまま、太陽の隣に立つ。
そう決めた。
ならば、その太陽が自分の光で自分自身を焼いているのだとしても、目を逸らしてはいけない。
明日から、宮廷の目は変わる。
侯爵家も、第二王子派も、月国使節も、王妃も、神官たちも。
誰もが、今日のアレクシスの言葉の意味を測るだろう。
そしてセレネ自身もまた、測らなければならない。
王太子としての彼と。
兄の影に縛られた弟としての彼と。
契約にはない言葉を置いて逃げた、アレクシスという人を。
夜は深い。
疲れているはずなのに、すぐに眠れる気はしなかった。
セレネは机の上の報告書を閉じ、そっと胸元へ引き寄せた。
今日、和合祭は終わった。
けれど、本当の意味で太陽と月が向き合うのは、きっとこれからだった。
▼おまけ
アレクシスががよく身につけている「王太子の印」は、
金の円環に王太子の花押(紋章)が刻まれています。
夜、セレネの部屋に来る時はバッジとして、
普段は外套留として使っています。
国王はさらに『太陽』をイメージした金印を身につけているので、いずれアレクシスが王太子から王になる時は、王太子印もより『王』らしくなるでしょう。
この花押は印章指輪として封蝋用にも存在しています。
が、アレクシスはセレネ宛にはほとんど使っていません。封をする必要がないので。
日中、執務室を訪ねれば、左手小指に印章指輪をつけたアレクシスを見ることができるでしょう。
もしお気に召されましたら、
ブックマークや★評価、誤字脱字報告頂けると大変励みになります!
ここまで読んでくださったあなたに、心より御礼申し上げます。




